(「証言」①の続き)
「証言」とは、見たことに対して使う言葉です。
「誰がこのことについて証言しますか?」との問いに答える人は、「私が証言します、私は目撃しました。」と言うでしょう。
ですから、証言=目撃です。
ラーイラーハイッラッラーと証言することは、アッラー以外に愛すべき存在は無く、かれにこそ最初に目を向けるべき存在であることを、心、感情で感ずる、という意味です。
近い将来、アッラーがあなたにアラビア語習得をお望みになり、クルアーンを完読した際、あなたは(一般)ムスリムたちの姿が、クルアーンの中にあるものと違うと気づくでしょう。
そのとき、彼らの言葉である「ラーイラーハイッラッラー」に、大きな行動が必要であることが分かるでしょう。
私が医学部に入りたいと仮定します。
必要な手続きをし、お金を払い、教科書を買い、勉強すれば、私が医学部に入ったことを証言できますが、口先だけで「医学部に入った」と言っても意味はありません。
「私はアッラーの他に神はなく…」という言葉はとても美しいものです。
口にするだけで美しいですが、この言葉の意味を感じることのほうがもっと素晴らしいです。
アッラーはもともと私たちを幸せにするために私たちを創造されました。
そして、私たちの本当の幸せは、アッラーが私たちの心の中で一番の存在になるときです。
なぜかというと、アッラーは私たちにこの世をどのようにして生きていけばよいかを教えてくれるからです。
時々魂は、アッラーの命ずる逆のことを私にさせようとします。
アッラーは私に「浪費しないように」と命じ、魂は「浪費しろ」と言います。
もしアッラーが私の心の中で一番の存在なら、魂の言うことを捨て、アッラーのお言葉を聞きます。
しかし魂が勝ってしまう場合、私はイスラームに対し間違いを犯すことになります。
そして口にした証言がうそになってしまい、これを正さなくてはいけなくなります。
ですからムスリムは、人生の中でいつもこの言葉に気を付ける必要があるのです。
ここで注意してほしいのですが、「愛」には、「知ること」が必須だという点です。
アッラーを愛するためには、かれのことを知る必要があるということです。
何でも知らないものを愛することは不可能です。
そして、知らない存在について愛そうと思いつくこともありません。
しかし、知り、自分がかれ(アッラー)を必要としていると分かると、かれに執着するようになります。
小さな子供が一番愛している存在とは何でしょうか。
それはお母さんです。
それはなぜでしょうか。
答えは、この子供が彼女を必要としているからです。
子供が大きくなると、小さかったときほど母親を必要とはしなくなります。
変わるわけです。
ではなぜ、小さいときには母親が一番なのでしょうか。
それは、お母さんが、彼が必要としているもの全てを与えてくれるからです。
食事、飲み物など。彼女を必要とすることが、彼女をとても愛する、ということなのです。
そして子供は母親を不必要としないことはありません。怖いとき、一番に呼ぶ名は「お母さん」です。
よく、部屋で独りぼっちになって怖いときにお母さんを呼びますね。
ムウミン(信仰者)が、「証言」するとき、この子供のように、自分はアッラーをとても必要としているのだと感じなければなりません。
これに思考はあまり必要ではありません。
私たちが所持しているものすべては、アッラーのものです。
もちろん。
私の持っている目。
アッラーが与えてくれなかったら、私は見ることが出来なかったでしょう。
アッラーは、盲目の人を創造することがありますが、それは人々に(アッラーの恩恵を)思い出させるためのほかにありません。
この耳も同じです。
もしアッラーが私に与えてくれなかったら、私は何も聞くことが出来なかったでしょう。
この指を見てください。
アッラーは、私が何かを運ぶとき、指がこういう風に作られていると助かることをよくご存知なわけですから、私をこのように創造してくださいました。
もし指が(間接の部分で曲がらなかったり)こうだと、私は何も運べなかったでしょう。
すべて、アッラーからのものです。
私はかれを愛しています。
私のためにさまざまなものを創造してくださいました。
唇も同じです。
コップで水を飲むとき、指のようなつくりになっていたら、私は水を飲めなかったでしょう。
体の部分の中で、自在に動かせ、大きくしたり小さくしたり出来る部分は、この唇以外にありません。
これらすべてが、私にとって、アッラーを拝めたいと思う源なのです。
病院の一室に、大きな箱型の機械があるのを見たことがありますか?
それは人工透析機(アラビア語で人口腎臓)です。
人間の腎臓の働きをするものです。どんなに大きいか気がつきますか?
私たちが今いる部屋と同じくらいの大きさの機械です。
人間と機械の間にチューブが介され、人間の血がこの機械で浄化される仕組みになっています。
この洗浄運動は大きな疲労を伴います。
そして、人間の体は、週に二度しか、血液の洗浄をこの機械ですることが出来ません。
私たちの体の中に、この機械と同じ働きをする腎臓という器官があることはご存知ですね。
この腎臓が、一日に何度あなたの体内の血液を洗浄すると思いますか?
三十六回です。
毎日です。
その上、報酬を求めることはありません。
アッラーは決して、「あなたたちの血液を浄化したのだから、報酬を出しなさい」とは言いません。
病院で血液を洗浄するにはお金を払わなければなりません。
しかも高額です。
アッラーを愛するためには、アッラーの他に神は無いと証言するためには、かれのことをよく知る必要があります。
なんとなく語られる言葉ではありません。
人間は誰でも、何か決断を下すとき、前もってものごとについてきちんと調べているものです。
「シリアに旅行したい。」と言うとき、あなたはきっといろいろと準備をしているでしょう。
ビザやチケット、お金、泊まる場所の確保などです。
これら全てが整えば、あなたにシリア行きは可能になります。
私が、「ラーイラーハイッラッラー(アッラーの他に神は無し)」と言うとき、自分に課された責任を知っている必要があります。
礼拝や断食を行うだけではないのです。
責任とは、アッラーが私の人生で一番大切であることです。
そして、アッラーが私の人生で一番大切であるためには、かれについてよく考えなければいけません。
かれは私に何を賜ってくれたか、私に何をしてくれたか、私に何を提供してくれたか。
この熟考の末、「私に、何が求められているのか」を考えます。
「なぜかれは私を創造したのか?」と考えます。
食べ、飲むためだけに創造したのでしょうか?
羊や猫も食べ、飲みます。
いいえ、人間と動物には違いがあります。違いが。
人間はアッラーによって創造され、尊厳を与えられました。
もし人間の創造が、飲食と繁殖のためだけだったならば、ほかの創造物と区別がなくなってしまいます。
人間だけに与えられた、特別な何かがあるはずです。
この特別な何かによって、人間はほかの創造物と違っていられます。
それでは、一体この特別な何かとは何でしょうか?
それはクルアーン中のアル=アハザーブ章(部族連合章)の最後の節にあります。
「本当にわれは、諸天と大地と山々に信託を申しつけた。だがそれらはそれを、担
うことを辞退し、且つそれについて恐れた。人間はそれを担った。」
クルアーンの中には、ほかにもたくさん、人間とほかの創造物を区別する節がありますが、この説が一番はっきりと、この件について説明しています。
この人間に課せられた「信託」とは一体何でしょうか?
諸天、大地、山々が辞退し、人間だけが背負うことになった信託は、もしアッラーに服従したならば、人間は尊厳と高貴さを与えられます。
この「信託」についてアッラーは仰せられます:
「わたしの創造物全てを、あなた(人間)の役に立つようにしよう。あなたはそれら全てをわたしの服従のために使いなさい。」
(「証言」③ に続く。)
「証言」とは、見たことに対して使う言葉です。
「誰がこのことについて証言しますか?」との問いに答える人は、「私が証言します、私は目撃しました。」と言うでしょう。
ですから、証言=目撃です。
ラーイラーハイッラッラーと証言することは、アッラー以外に愛すべき存在は無く、かれにこそ最初に目を向けるべき存在であることを、心、感情で感ずる、という意味です。
近い将来、アッラーがあなたにアラビア語習得をお望みになり、クルアーンを完読した際、あなたは(一般)ムスリムたちの姿が、クルアーンの中にあるものと違うと気づくでしょう。
そのとき、彼らの言葉である「ラーイラーハイッラッラー」に、大きな行動が必要であることが分かるでしょう。
私が医学部に入りたいと仮定します。
必要な手続きをし、お金を払い、教科書を買い、勉強すれば、私が医学部に入ったことを証言できますが、口先だけで「医学部に入った」と言っても意味はありません。
「私はアッラーの他に神はなく…」という言葉はとても美しいものです。
口にするだけで美しいですが、この言葉の意味を感じることのほうがもっと素晴らしいです。
アッラーはもともと私たちを幸せにするために私たちを創造されました。
そして、私たちの本当の幸せは、アッラーが私たちの心の中で一番の存在になるときです。
なぜかというと、アッラーは私たちにこの世をどのようにして生きていけばよいかを教えてくれるからです。
時々魂は、アッラーの命ずる逆のことを私にさせようとします。
アッラーは私に「浪費しないように」と命じ、魂は「浪費しろ」と言います。
もしアッラーが私の心の中で一番の存在なら、魂の言うことを捨て、アッラーのお言葉を聞きます。
しかし魂が勝ってしまう場合、私はイスラームに対し間違いを犯すことになります。
そして口にした証言がうそになってしまい、これを正さなくてはいけなくなります。
ですからムスリムは、人生の中でいつもこの言葉に気を付ける必要があるのです。
ここで注意してほしいのですが、「愛」には、「知ること」が必須だという点です。
アッラーを愛するためには、かれのことを知る必要があるということです。
何でも知らないものを愛することは不可能です。
そして、知らない存在について愛そうと思いつくこともありません。
しかし、知り、自分がかれ(アッラー)を必要としていると分かると、かれに執着するようになります。
小さな子供が一番愛している存在とは何でしょうか。
それはお母さんです。
それはなぜでしょうか。
答えは、この子供が彼女を必要としているからです。
子供が大きくなると、小さかったときほど母親を必要とはしなくなります。
変わるわけです。
ではなぜ、小さいときには母親が一番なのでしょうか。
それは、お母さんが、彼が必要としているもの全てを与えてくれるからです。
食事、飲み物など。彼女を必要とすることが、彼女をとても愛する、ということなのです。
そして子供は母親を不必要としないことはありません。怖いとき、一番に呼ぶ名は「お母さん」です。
よく、部屋で独りぼっちになって怖いときにお母さんを呼びますね。
ムウミン(信仰者)が、「証言」するとき、この子供のように、自分はアッラーをとても必要としているのだと感じなければなりません。
これに思考はあまり必要ではありません。
私たちが所持しているものすべては、アッラーのものです。
もちろん。
私の持っている目。
アッラーが与えてくれなかったら、私は見ることが出来なかったでしょう。
アッラーは、盲目の人を創造することがありますが、それは人々に(アッラーの恩恵を)思い出させるためのほかにありません。
この耳も同じです。
もしアッラーが私に与えてくれなかったら、私は何も聞くことが出来なかったでしょう。
この指を見てください。
アッラーは、私が何かを運ぶとき、指がこういう風に作られていると助かることをよくご存知なわけですから、私をこのように創造してくださいました。
もし指が(間接の部分で曲がらなかったり)こうだと、私は何も運べなかったでしょう。
すべて、アッラーからのものです。
私はかれを愛しています。
私のためにさまざまなものを創造してくださいました。
唇も同じです。
コップで水を飲むとき、指のようなつくりになっていたら、私は水を飲めなかったでしょう。
体の部分の中で、自在に動かせ、大きくしたり小さくしたり出来る部分は、この唇以外にありません。
これらすべてが、私にとって、アッラーを拝めたいと思う源なのです。
病院の一室に、大きな箱型の機械があるのを見たことがありますか?
それは人工透析機(アラビア語で人口腎臓)です。
人間の腎臓の働きをするものです。どんなに大きいか気がつきますか?
私たちが今いる部屋と同じくらいの大きさの機械です。
人間と機械の間にチューブが介され、人間の血がこの機械で浄化される仕組みになっています。
この洗浄運動は大きな疲労を伴います。
そして、人間の体は、週に二度しか、血液の洗浄をこの機械ですることが出来ません。
私たちの体の中に、この機械と同じ働きをする腎臓という器官があることはご存知ですね。
この腎臓が、一日に何度あなたの体内の血液を洗浄すると思いますか?
三十六回です。
毎日です。
その上、報酬を求めることはありません。
アッラーは決して、「あなたたちの血液を浄化したのだから、報酬を出しなさい」とは言いません。
病院で血液を洗浄するにはお金を払わなければなりません。
しかも高額です。
アッラーを愛するためには、アッラーの他に神は無いと証言するためには、かれのことをよく知る必要があります。
なんとなく語られる言葉ではありません。
人間は誰でも、何か決断を下すとき、前もってものごとについてきちんと調べているものです。
「シリアに旅行したい。」と言うとき、あなたはきっといろいろと準備をしているでしょう。
ビザやチケット、お金、泊まる場所の確保などです。
これら全てが整えば、あなたにシリア行きは可能になります。
私が、「ラーイラーハイッラッラー(アッラーの他に神は無し)」と言うとき、自分に課された責任を知っている必要があります。
礼拝や断食を行うだけではないのです。
責任とは、アッラーが私の人生で一番大切であることです。
そして、アッラーが私の人生で一番大切であるためには、かれについてよく考えなければいけません。
かれは私に何を賜ってくれたか、私に何をしてくれたか、私に何を提供してくれたか。
この熟考の末、「私に、何が求められているのか」を考えます。
「なぜかれは私を創造したのか?」と考えます。
食べ、飲むためだけに創造したのでしょうか?
羊や猫も食べ、飲みます。
いいえ、人間と動物には違いがあります。違いが。
人間はアッラーによって創造され、尊厳を与えられました。
もし人間の創造が、飲食と繁殖のためだけだったならば、ほかの創造物と区別がなくなってしまいます。
人間だけに与えられた、特別な何かがあるはずです。
この特別な何かによって、人間はほかの創造物と違っていられます。
それでは、一体この特別な何かとは何でしょうか?
それはクルアーン中のアル=アハザーブ章(部族連合章)の最後の節にあります。
「本当にわれは、諸天と大地と山々に信託を申しつけた。だがそれらはそれを、担
うことを辞退し、且つそれについて恐れた。人間はそれを担った。」
クルアーンの中には、ほかにもたくさん、人間とほかの創造物を区別する節がありますが、この説が一番はっきりと、この件について説明しています。
この人間に課せられた「信託」とは一体何でしょうか?
諸天、大地、山々が辞退し、人間だけが背負うことになった信託は、もしアッラーに服従したならば、人間は尊厳と高貴さを与えられます。
この「信託」についてアッラーは仰せられます:
「わたしの創造物全てを、あなた(人間)の役に立つようにしよう。あなたはそれら全てをわたしの服従のために使いなさい。」
(「証言」③ に続く。)