岩室観音堂は弘法大使が岩窟を選んで高さ一尺一寸(36.4cm)の観音像を彫刻してこの岩窟に納めその名前を岩室山と号したと伝えられる。松山城主が代々信仰し護持したと伝えられており、天正18年(1590年)豊臣秀吉が関東に出陣した際に松山城落城に伴い建物のすべてが焼失したと言われている。現在のお堂は江戸時代の寛文年間(1601年~1673年)に龍性院第三世堯音が近郊の信者の助力を得て再建したものと伝えられている。お堂の造りは懸造り様式で江戸時代のものとしては珍しいものである。
岩室観音は「比企西国三十三観音札所」の第三番であるが、札所めぐりとしては「西国三十三か所」「坂東三十三か所」「秩父三十四か所」が有名で「比企西国三十三か所」はそれほど知られてはいない。遠隔地を巡礼できない人々のために享保8年(1723年)に「比企西国三十三観音札所」が開設されたと言われており江戸時代にはこうした地域ごとに完結する札所めぐりがが多く創設されたようである。
比企西国三十三観音札所は比企郡内にあるがかつてのお寺やお堂の多くは明治維新後、維新政府の神仏分離政策やそれを拡大解釈した廃仏殷釈により廃寺となったり一部の札所では本尊だけ関係寺院に保管されるなどして現在残っているのは12か所だけである。
88体の石仏群
一階の左右両側の岩室に安置されています
観音堂内
参拝は右側の階段から2階へ
観音堂正面 古い奉納額や絵馬が沢山有ります
胎内くぐり
岩をくりぬいた穴をくぐると願い事が叶うとされています
鎖を伝いながら登っていきます
堂内から隣接する吉見百穴が見渡せます
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