毘沙門堂
毘沙門堂は大串山金蔵院(こうぞういん)と言い修験の寺で本尊は行基の作と言われる毘沙門天の立像である。毘沙門天は武勇の神であり武将大串次郎重親はこれを厚く信仰しこの地に寺を建立したと伝えられている。この寺はもとは七堂伽藍が備わった立派な寺であったが天文年間(1546頃)北条、大田両氏の松山城争奪戦に遭って焼失してしまった。現在のお堂は後に建てられたものである。
かつては毘沙門堂西方の宝篋印塔を含む周辺一帯が金蔵院の敷地であったと伝えられている。
金蔵院入り口
山門と仁王像木造
本殿
金蔵院宝篋印塔(こうぞういんほうきょういんとう)
宝篋印塔とは鎌倉時代中期に出現し、宝筐院陀羅尼経という経典を塔内に納め礼拝供養を行った石造塔である。金蔵院には2基の宝篋印塔があり、一基は山門の入り口にある応安6年(1373)銘、もう一基は毘沙門堂の西側70mの畑の中にある永和2年(1376)銘で、その構造は共に二重式という県内でも大変珍しいタイプで昭和5年に埼玉県指定史跡となっている。
山門脇の塔(応安6年銘)
毘沙門堂西方の塔(永和2年銘) 大串次郎の墓
この塔は高さ1.9mで九輪の上部は欠損しているが他は完全で、関東地方では整った美しさを持つ優秀な塔の一つである。またこの塔は「伝大串次郎重親塔」とも呼ばれており文化文政時代に編纂された「新編武蔵国風土記稿」(1810~1826編纂)にはその当時から地元の人々の間で大串次郎の墓であるという伝聞があったことが記されている。
大串次郎は畠山重忠の家臣で平安時代末~鎌倉時代初頭(12世紀末~13世紀)に活躍した人物で宝篋印塔にある永和2年銘とは約160年開きがある。そうしたことから大串次郎の墓という言い伝えは後世に創作されたものと考えられていた。
しかし平成11年に実施された宝篋印塔の保存修理覆い屋設置工事で永和2年銘の宝篋印塔の地下から人骨が納められた12世紀末~13世紀の中国産白磁四耳壺(はくじしじこ)と12世紀後半の愛知県渥美産の大甕を出土し注目を集めた。出土した人骨の性別は頭蓋骨、四肢骨の発達状態などから男性と思われる。年齢は頭蓋骨の縫合状態などから壮年後半と推測された。現在、白磁壺と大甕は県指定文化財となっており吉見町埋蔵文化財センターに保管されているが出土された人骨は別の容器に納めこの塔の下で眠っている。
※大串次郎重親について
大串氏は武蔵七党の一つである横山党の出身である。この党は東京都南多摩郡にあった横山荘を本拠として全国樹分布した。重親の幼名は不明だが元服に際し鎌倉武士の中でも武名の高い御家人畠山重忠の一字をもらい改名した。それ以降、宇治川の合戦や欧州征伐に向かう重忠の家臣団の一員として各地に転戦した。
鎌倉幕府3代将軍実朝の頃北条時政が権勢を持始め、まず第一の競争相手の比企氏を滅亡させ続いて幕府内の声望が高かった畠山氏を謀略により葬った。この時大串次郎は北条方についていた。
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