風まかせ~

自分で歩いて得た季節のきまぐれ情報です。気が向いたときに写真付きで時々出します。

吉見百穴(よしみひゃくあな)

2023-02-11 | 歴史散策

吉見百穴は吉見町の西のはずれ、市ノ川を挟んで東松山市と隣接した武蔵松山城の隣にあります。

吉見百穴

「百穴」の名が文献に見られるのは今から約200年前からで江戸時代の中頃には「百穴」の呼び名も生まれ不思議な穴として興味を持たれていたと思われる。吉見百穴が科学的に検討され出したのは明治になってからで内外の著名な考古学者によって調査が行われ、横穴の性格をめぐって様々な意見が発表された。明治20年坪井正五郎氏(当時東京大学院生)によって大発掘が行われ人骨、玉類、土器類が出土した。平井氏はこの横穴を土蜘蛛人(コロボックス人)の住居としてつくられたもので後に墓穴として利用されたものであると発表された。しかし大正時代になると考古学の発達によって各地で横穴の発見、発掘がなされ出土品や横穴の構造からこの横穴は古墳時代の後期に死者を埋葬す墓穴として造られたものであることが明らかにされ「住居説」は覆されることになった。そして大正12年には「吉見百穴」は我が国の代表的な横穴群として国の史跡に指定された。明治20年に発掘が発掘調査が行われているが僅かな写真と出土品を残すのみで詳細な情報はほとんどのこっていない。現在確認できる横穴の数は219基である。

 戦時中、横穴群のある岩山に軍事地下工場の建設が行われ数十基の横穴が壊されたが戦後吉見百穴保存会が結成され積極的な保存管理が行われ、昭和36年吉見村(当時)が管理者となって引き続き管理が行われ今では「吉見百穴」は多くの人々に愛され親しまれる史跡となっている。

 また、最低部の二つの横穴には底や壁からかすかな緑色の光りを発するヒカリゴケがある。この苔は山地に多く平野にあるのは分布上きわめて貴重とされ国指定天然記念物となっている。

吉見百穴の時代

 仏教が伝来したのは西暦538年(一説には552年)、聖徳太子が推古天皇の摂政となって活躍したのは西暦593年~622年であり百穴が造られたころとほぼ一致する。仏教が本格的に広まるのは後年のことではあるが古墳を造営して死者を葬っていた当時の日本人の死生観に大きな影響を与えたと想像することができる。また6~7世紀は地方豪族の連合体の首長として君臨していた大和朝廷がその支配力をいっそう強め日本全体が中央集権国家へと変わっていった時期である。645年の「大化の改新」以降中央集権国家として国家機構は加速していくことになる。

 西暦646年には葬送の儀式に関係した「薄葬礼」が出された。「薄葬礼」とは一言でいえば簡単に葬じることで地方豪族の権力集中と言える古墳の造営を禁止した法律である。西暦652年班田収受法が施行され豪族が支配していた土地と人のすべてを大和朝廷の支配下に置かれるようになり公地公民制が本格化されていった。この「仏教伝来」と「中央集権国家」という日本の社会の大きな変換期に百穴は造られたのである。


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