80ばあちゃんの戯言(2)

聞いてほしくて(つづき)

私の人生(28)

2016-11-05 20:18:53 | 最近の出来事
以前、心理学者波多野寛治さん勤子さんの息子さん

の話に、欲しいと思うものが、何時も其処にあった

という記事を何かで読んだ気がするのですが、私の

両親も本当に教育熱心で、何時も本を沢山買ってく

れていたり、顕微鏡だとか何かいりそうなものは早

めに揃えてくれていました。本当に、小さい頃

から、就寝前には必ず、本を読んで貰うとか、何か

お話をしてもらうとかありましたが、どんな時でも、

気を抜いていい加減な口調になっていたことはあり

ませんでしたので、小学生になったときにも、読本

を読むときにはお話するように読みなさいと一言

言われただけでした。

当時、父はコロンビアと言うレコード会社の社員で

川田孝子さんの読本の模範的な読み方のレコード

(一年生から6年生までの分を学校に寄付していた

のです。

私は、一度もそんな物がこの世に存在するという事

さえ聞かされたことはなかったのです。

私の小学校では、木曜日の朝には,講堂で全校生の前

で、各学年で選ばれた人が朗読をする慣わしになって

いたのですが、二年生のはじめ、読本を私が読むこと

になったときのこと、その直前に担任の先生が壇上

に立たれて、

”今から、安藤さんが読みますが、その後に、安藤

さんのお父さんがご寄付くださった、川田孝子さんの

模範レコードをお聞かせしますので、どちらが上手か

良く聞いていてください“と言われたのです。

私はびっくりしました。なんて余計なことを父がして

くれたのかとさえ思いました。

その後、先生が、どちらがいいか甲乙つけがたいで

しょうと仰ったので、ほっとしました。

37歳の時、母の妹の幼稚園をついでくれないかと

いわれ免許取得のため保育科に入ったのですが、二学期

の始まる寸前、父が、喀血し、妹達は赤ん坊を抱えて

いましたので、結核病棟には行かせることは出来ないの

で、私が、一人で、毎日父の世話をすることになりま

した。

母は50歳になるやならずから寝たきりでしたし、大学

生の弟一人に、母を任せるわけにもいかず困りましたが、

夫が夫の弟に病院を紹介してくれるようにたのんでくれ、

湯河原の病院を紹介してもらったので、妹のだんな様の車

に載せてもらい湯河原へ行きましたが、改装中だと断ら

れてしまいました。 熱海に国立病院があると聞き、お願

いすることにしましたが、付き添いの家政婦さんをつける

ことが条件でした。最初は母の方は十日に一回、一日5千

5百円で、5万5千円お金を払いにくればよいという話で

したが、リハビリをはじめるから、こういうものを持って

来てと言う電話が何度もあり、その度に平塚で探しました

が、母の体が変形していたので、ぴったりするものがなく

仕方なくどうにか工夫して手作りでもっていきました。

その頃も夫は仕事に追われ毎晩午前様。毎朝掃除洗濯の後

二人の息子達を小学校に送り出してから、茅ヶ崎駅まで自

転車を飛ばしました。寒い真冬でも、大船駅まで汗だくと

いうありさまで、ごった返ししている横浜駅の中も重たい

荷物を抱えて駆け下り駆け上がりで、白楽駅から、また

坂を駆け上がり、前の電車で降りた人たちに追いつき、

午前の授業が終わると、お弁当も食べずに飛び出して、

父の入院している警友病院へ行き洗濯ものを交換して

駅で電車を待つ間に牛乳一本か二本を飲んでお昼ご飯

の代わりにしましたが、午後の授業が終わると母の居る

熱海へいき、家政婦さんを休ませて、私が晩御飯を

食べさせて帰りましたが、家政婦さんがいい加減な人で、

当時5千円札が出来たので、父が、熱海は田舎だから、

一万円札では中々お釣りがないかもしれないから、5千

円札で持っていった方が、向こうが使いやすいのではな

かといったので、銀行で、わざわざ5千円札にしてもら

ってもって行き、本人の前で父がこういったから、五千

円札にしてきましたと告げ、目の前で数えて、自分で数え

てもらい領収書ももらって帰りましたが、三日目の朝電話

で、使ってみたら、5千円札ばかりで使いでがなかったから

半分しかもらっていないので、もう半分よこせというので、

ちゃんとあなたも数えて領収書をくれたではないですかと

いいましたが、デモ、使ってみたら、使い出がなかったの

一点張りで、そのままにしておけないので、父に相談しま

したら、母にどんなことをされるかわからないので、向う

の言うなりに払おうといい、銀行からおろしてまた持って

いきました。派出婦会で変な噂を立てられたら、代わりが

頼めないと思っていたのです。

本当に辛い、苦しい毎日で、なかなか勉強する時間がとれ

ないので困りましたが、両親のお蔭で童話を読んだり話し

たりする勉強と、英語の勉強だけはしないですみましたし、

電車の中で予習復習できましたので、家ではピアノのお稽古

だけで済みなんとか卒業にこぎつけました。

卒業式の前日,答辞を書きながら、苦しかった日のことを思い

出し涙が止まりませんでした。

翌日の謝恩会で心理学の先生が、荒武さん、当然、答辞を読み

ながら泣くだろうと思っていましたがといわれたので、私は、

そう思って前の日に泣いておきましたといってしまいましたっけ。