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前の大戦で、日本と米豪がこの島で3年間に渡り死闘を続け、18万人もの同胞が命を落とす地獄の島と化した。この戦いには、台湾の高砂義勇隊も加わっていた。高砂族という呼称は、日本人が台湾原住民の総称として使用始めたものである。彼らにも戦争協力が求められていたが、大戦末期まで徴兵は行われず、民間徴用の身分で軍に協力していた。
彼らには戦士という立場を誇りとする文化的背景があった。高砂族はかって、首狩り族だった祖先の時代から続く、湾曲した形状の蛮刀を腰につけていた。ニューギニアでの任務は、道路構築・補給物資の担送・傷病兵の後送であった。彼らは密林で天賦才能を発揮、この厳しい環境を耐え忍ぶ強さを有していた。
当時、前線部隊に貴重な食料を輸送するにあたって、朝鮮人輸送要員の場合、途中で手を付け前線に半分も届かないことが常であった。
しかし高砂族は任務に極めて忠実であった。ある時、遠く離れた前線に徒歩で食糧を運んでいた高砂兵が道路で餓死しているのが発見された。彼は担いでいた大量の食糧にはいっさい手をつけておらず、日本軍将兵らを感嘆せしめた。
作戦初期の頃、高砂兵は日本人上官に、靴を脱いでも良いですかと尋ねたが、その都度、規則だからダメだと言われた。しかし、日本軍が撤退を重ね、北部に追いつめられた時は、もう他の兵隊もほとんど裸足の状態でそこで初めて靴を脱ぐことが許可された。そうしたら、彼らは偵察から食糧調達まで、自由自在に働き回ってくれるようになった。密林地帯での高砂族の各種能力は飛びぬけていた。日本軍は補給を絶たれ飢餓状態におちいっていたが、高砂兵は、あのなにもないジャングルで食糧をどこからか見つけてきたので、おかげで生き残ることが出来た日本兵がたくさんいた。高砂兵は、敵兵の臭いや足音を遠くから敏感に察知し、日本兵に知らせてくれた、彼らの指した方向からは必ず敵兵が現れた。恐れを知らない高砂族の若者たちは、密林の中を音も立てずに行動し、敵陣地のも悠々侵入、食糧のみならず、武器弾薬までせしめてきたり、敵砲兵陣地破壊したりと、凄しい活躍をする。神出鬼没の高砂兵に、敵も大変恐れていた。日本軍は後に、中野学校出身者に高砂兵を率いらせ、少人数の挺身隊を編成、ニューギニアの各戦域でゲリラ戦を展開、連合軍を混乱させた。
一説には、マッカーサーがフイリツピンの後台湾に侵攻しなかったのは、ニューギニアで高砂族に苦しめられた経験からだとも言われている。 多くの日本兵が、戦後もずっと高砂族に感謝しており、彼らに足を向けて寝られないという。高砂族は、忠実無比かつ勇猛果敢な戦士たちであった。強い使命感と高い生存能力を発揮して日本人を高砂族は、生き残った日本兵の間で、戦後も英雄視され続けているのである
東日本大震災に見舞われた日本に対して最大級の支援の手を差し伸べてくれた台湾、それに対する数々の日本政府の非礼に対しても、日台関係は揺るがないと答えてくれた 台湾人は 戦前も、戦中も、日本が戦争に負けても 国交を断絶されても 変わらず親日でいてくれる。
ニューギニアで日本人と共に戦った・台湾高砂義勇兵http://youtu.be/hKpVDy6os9Q、 祝! 台湾国籍が在留カードに記載http://youtu.be/FSZtX11OHMg、
台湾の高砂義勇伝http://youtu.be/9dXtCvDUWUg、
台湾の老人がNHKの後ろには中共が
http://youtu.be/wy4tcmQPzPU台湾と日本http://youtu.be/9TwxScvOchM