日本は助けない 

2014年03月30日 19時19分21秒 | Weblog

 韓国高官は凍りついた http://youtu.be/PtmHU5mdSS4

    昨年開かれた日韓非公式協議にて

                 http://youtu.be/U4mxHZgwgJM

                      http://youtu.be/c8-T0s2cfV4

                      http://youtu.be/mO8aX6T1264

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

荒波吠揺る風の日も 旧制一高寮歌

2014年03月30日 15時31分28秒 | Weblog
 荒波吠ゆる風の日も
高橋 芳平
 ・
 今私の手許に母校在校時の軍歌集がある。表紙には右からの横書きで、昭和17年9月、軍歌集、海軍經理學校と3段に記されており、表紙全体が褐色じみて、端はすり切れている。
 懐しい歌が日白押しの中で、つい先日も、冒頭の「校歌」と「元寇」の頁には、「右足」と鉛筆書きのメモがあるのに気がつき、改めて懐旧の念を新たにした。
 さて掲題の「荒波吠ゆる風の日も」の「上村将軍」は私の好きな軍歌の一つである。  
 このたび私はこの歌にまつわり、戦後に知り得た意外な事柄や、最近調べた次のようなこと
  1「上村将軍」は旧制一高の寮歌でもあった。
  2「上村将軍」の3番(敵艦乗員救助)について、
     伴 正一先輩(33期)の論評
  3 上村将軍の生い立ちとエピソード
     強運の東郷元帥と非運の上村仁将
について述べてみたい。

 1、 軍歌「上村将軍」は一高の寮歌「上村中将の歌」でもあった。

 私がこのことを知ったのは、昭和25年、就職入社後初めての同期会であつた。
 場所は北九州の会社の迎賓寮で、夜の会食後の余興に、各自出身校の寮歌か応援歌を披露することになった。なお陸海軍出身者が多かったので「軍歌でも大いに結構」とされた。その折、技術屋のN君が「一高の寮歌」と言って「荒波吠ゆる風の日も」を歌い出して、1番と3番を朗々と歌った。
 これには私も驚いて「海軍の軍歌が一高の寮歌とは・・・」と彼にその由来などいろいろと尋ねたところ「一高では戦前から端艇部員の深夜のストームは、いつもこの歌から始まり全寮に猛威を振るったので寮生には馴染みの深い歌」とか。しかし由来は不明であった。
 それから約40年後の昭和63年、当時N君は関係会社の役員であったが、彼から手紙が拙宅に届いた。
 それには「入社当時、君から質問を受けた『上村中将の歌』の由来がやっと分かったので知らせる」とあり、「詳細は同封の一高同窓会機関誌『向陵』の昭和63年10月号のコピーを参照して欲しい」とのこと。
 早速目を通したところ、宮田俊彦氏 (昭和5年卒) の寄稿があり、 「上村中将の歌の作者」と題して5頁に亘り、この歌の由来と上村将軍のことについて詳細なリポートが載っていた。
 これによれば作詞は佐々木信香氏で当時旧制七高(鹿児島) の生徒で、後に東大文学部を経て七高教授 (国文学) となった人。
 上村彦之丞中将は鹿児島出身で同郷の東郷大将より2才若く、日露戦争では第2艦隊司令長官として出征、ロシヤのウラジオ艦隊を追ったが、日本海特有の濃霧に阻まれて捕捉できず、逆に玄界灘では兵員輸送船が撃沈される悲劇が起こり、世人は中将を無能と罵り留守宅に投石する者すら出た。
 ところが明治37年8月、蔚山沖海戦で敵艦「ロシヤ」「グロムボイ」を大破、「リューリック」を撃沈して大勝を収めた。しかも敵乗員を救助するという美談で中将の名声が一挙に高まったことが、多感な佐々木青年の胸を打ちこの歌を作る契機となった。
 念のため、歌詞は

  一、 荒波吠ゆる風の日も    大潮咽ぶ雨の夜も
     対馬の沖を守りつゝ    心を砕く人や誰
     天運時をかさずして    君幾度かそしられし
     鳴呼浮薄なる人の声    君睡れりと言はば言へ
     夕陽の影の沈む時     星の光の冴ゆる時
     君海原を打眺め      忍ぶ無限の感如何に

  二、  時しも8月14日     東雲白む波の上に
     煤煙薄く棚引きて     遥かに敵の影見えぬ
     勇みに勇める丈夫が    脾肉は躍り骨はなる
     見よやマストの旗の色   湧立つ血にも似たる哉
     砲声天に轟きて      硝煙空に渦巻けば
     あかねさす日も打煙り   荒るゝ潮の音高し

  三、  蔚山沖の雲晴れて     勝ち誇りたる追撃に
     艦隊勇み帰る時      身を沈めゆくリューリック
     恨みは深き敵なれど    捨てなば死せん彼等也
     英雄の腸ちぎれけん    救助と君は叫びけり
     折しも起る軍楽の     響と共に永久に
     高きは君の功なり     匂ふは君の誉なり      
        (  注・漢字、仮名とも前記軍歌集による。)

 作曲は佐藤茂助氏で当時鹿児島師範の音楽教諭で後に鹿児島養育院長となった人。
 佐藤教諭はこの歌詞を見て、是非自分に作曲させてくれと申し出て、この曲が出来上がったという。
 ところでこの歌が一高の寮に入ったのは大正末期で、当時鹿児島一中出身で端艇部に入った寮生が、同僚の応援にこれを歌ったところ、部員がこれに共鳴して端艇部の応援歌となり、やがて正式に寮歌となった。
 一般に一高の寮歌は自校の生徒の作品に限られていたので、これは極めて珍しい例の一つ。
 それにしても、この歌の本家は七高の筈が、むしろ一高で永く伝誦し続けたのは、 「名門端艇部の存在がその主因か」 とは、前記N君の述懐である。
 因みに、この歌が軍歌になった由来については、大正某年、海軍の鹿児島巡航があり、偶々軍楽隊の隊長が鹿児島一中に立ち寄った際、この歌を耳にして良い歌と感じて写し取って東京に持ち帰り、編曲して発表したところ大変好評であったので、これが軍歌「上村将軍」となったとのこと。(『東郷』2001年3月号、河原崎 勇氏「海兵68期」の寄稿)

 2、「上村将軍」の3番について、伴正一先輩(33期) の論評

実は過日、竹田 腆君と記念誌『続編』のことで雑談した際、私から「上村 将軍」について前記1の経緯を話した上で「このことを『続編』に寄稿する積りで、今この周辺の3考資料を物色中、何か心当たりはないものだろうか。」と相談をもちかけたところ、同君は早速いろいろ調査されて、将軍に関する資料を送ってくれた。
 その中に「上村将軍」の3番について、伴 正一先輩の論評があった。
 これは『魁け討論、春夏秋冬』の1999年春季号の下巻で、 「少年の心に映った戦前昭和史の一こま」の中に、 「海軍の風潮」と云う見出しで次のように載っている(以下、原文のまゝ)。
 私が旧制中学から海軍経理学校に入学したのは2・26から5年目の昭和15年の暮れでした。海軍の学校で一番怖いのは1号生徒と呼ばれる最上級生で普段の日はこてんこてんに鍛えられましたが、日曜日に外出している間だけは人が違ったような優しい兄貴となる。そういう中で1号生徒から5・15事件の三上 卓が作った有名な「汨(べき)羅(ら)の淵に波騒ぎ・・・」の歌を教わったのですが、その際1号生徒は「3番だけは外で歌うなよ」と注意してくれました。「財閥富に奢れども」という悲憤の下りです。一つのバランス感覚として面白いではありませんか。
 それが私が2年生から3年生になる頃になると、今にして思い当たることなのですが、海軍にもナチスかぶれの傾向がそろそろ現れ始めていたように思います。
 海軍省で戦時国際法の権威だった杉田教官の講義では、捕虜待遇の箇所などきちんと教えてくれていました。ところが生徒の中からは「教官の言うようにしていたら戦争は負けるよ」とか、「何でもいいから一人でも多く敵を殺すんだ」とかいう反発の声がチラホラ出ていたのです。兵学校では、軍歌「上村将軍」のうち、沈み行く敵艦リュウベック号の乗員救助を命じた次の一節を歌わせない分隊もあったそうです。
     
     恨みは深き敵なれど
     捨てなば死せん彼等なり
     英雄の腸(はらわた)ちぎれけん
     救助と君は叫びけり

総力戦を強調しただけとは思えない。日本古来の思想でも、楠木正行の敵兵救助は天晴れ武士の鑑とされてきたではありませんか。そんなことを考えると、これはどうもナチスの影響でもあったように思えてなりません。 
 以上、伴先輩によれば敵兵救助は日本古来の武士道に通ずるものであり、また戦時国際法でも、その扱いをおろそかにできぬ筈であったのに、いつの間にか「残敵追撃殲滅」というような風潮に変ったのは、ナチスの「ユダヤ人根絶」に類する影響かも知れないというもの。
 さすがに的を射た鋭い見方かと私は思う。

参考までに伴先輩は33期 (恩賜卒) で戦後の略歴は次の通り。
 東大 (法) 卒後、外務省に入り (昭27)、アジア局・移住局・サンフランシスコ・南アフリカ・パキスタン駐在を経て、 経済協力局技術協力課長 (昭44)、 その後、中山素平氏に請われて青年海外協力隊事務局長に出向(昭47)、アジア・アフリカ・中南米の途上国に展開する日本青年の指揮をとる。5年後、中国公使 (昭52)、しばしば臨時代理大使となる。日中平和条約の締結に心血を注ぎ妥結、帰国 (昭55) 後、同年退官、郷里の高知で弁護士を開業、平成13年逝去。

3、上村将軍の生い立ちとエピソード
        強運の東郷元帥と非運の上村仁将

さて上村将軍とはどのような人物であつたのか。私はこのことに関心を持ち、いろいろ調べてみた。
 先ず前記『向陵』に寄稿の宮田俊彦氏のリポートの末尾に「雑誌『東郷』の136号と164号とに佐野純雄氏の〝上村将軍研究ノート〟がある」と記されていたので、私はこのたび東郷会に『東郷』編集長の野尻勝馬氏を訪れ該研究ノートを見せていただいた。
 それによれば佐野氏は偶々海経15期の先輩(昭和60年逝去) で、ノートは1979年2月号から始まり、1981年6月号までの間に18回に及んでいた。
 内容は将軍の職歴と歴戦の戦史に関する詳細な記録が主体で、私の知りたい「生い立ちとエピソード」の類は見当らなかつた。
 しかし野尻編集長は親切な方で、パソコンにインプットされた将軍関連の資料を次ぎ次ぎに抜き出して見せていただき、その中から恰好な資料が見つかった。
 それは1976年11月号に掲載の「上村将軍をしのぶ」と題した鎌倉水交会の方々の寄稿である。
 先ず「将軍の生い立ち」について、正木生虎氏 (大正12年海兵卒) の稿文は次のとおり。
 将軍の父上、藤一郎氏は藩校造士館の助教授で非常に友情に厚い方であった。そのため友人の罪をかばって自身も罪を得、志布志の大慈寺に幽閉された。この時母上は2人の女児を連れて実家に帰り、まだ5・6才の将軍は父上に同行され淋しい日々を送った。
 その後、父上が許されて加世田の知人に招かれ寺子屋を開いたが、生活は貧困のどん底であった。
 成長して戊辰の役に従軍して大きな負傷をし、そのあと兵学寮に入ってからも、いろいろと波乱の道を辿り、少尉補の時には乗艦の雲揚艦が難破して九死に一生を得た。日露戦争では第2艦隊司令長官としてロシヤのウラジオ艦隊に大変な苦労をされた。
 将軍はこのようにまことに非運で不幸な前半生を過ごされたが、卑屈になるような暗い影は微塵もなく、かえって他人に対し深い思いやりがあった。将軍の豊かな人間味は天性の資質もあったかも知れないが、こうした人生体験からも生まれたように思われる、と。
 次に「将軍のエピソード」について、正木氏は東郷元帥と上村将軍の性格の相異を如実に物語るものとして、次のように述べている。
 それは正木氏が父上、 義太氏 (将軍が第2艦隊長官の時の旗艦「薩摩」の砲術長) から聞いた話。
 東郷連合艦隊長官は一度命令を出されると、雨が降ろうが風が吹こうが決して変更されることはなかった。そこで風雨を冒しても決行する。ところが目的地に着く頃には上々の日和となる。それが全く不思議なくらいで、東郷長官はそのような強運に恵まれた人であった。
 実はそれが父にとって甚だ不本意なことが1度あった。父は第2回の旅順口閉塞で負傷して病院船に収容された。
 すると早速、上村第2艦隊長官がお見舞いに来られた。そこで父は上村長官に「東郷長官から佐世保病院に後送するとのお言葉をいただいているが、このまゝ艦隊に残して欲しい」と懇願したところ、上村長官は大変同情されて「よし分かった。君の気持を東郷長官に伝え、残るようにしてやるから安心して治療に専念せよ」とのことで、父は非常に喜んでいた。しかしその願いは空しく結局佐世保送りとなった。
 東郷長官は、親しい間柄の筈の上村長官からの懇請にも拘らず、命令不変であった。
 これに対して、上村長官は部下が何でも遠慮なくお願いできる慈母のような方であった、と。
 また将軍の人柄について工藤久八氏(明治44年海兵卒) は次のようなエピソードを披露している。
 

  それは上村長官が艦隊の検閲をした際のできごとであったが、参謀が一人の下士官に何か試問をしたところ、その下士官は震えて思うように答えられなかった。するとその様子を見ていた将軍は「長官の前でベラベラしゃべるような者は強い兵隊ではなか」と言われ助け船を出された。このように実に人情の機微をつかむ、温情豊かな仁将であった、と。
 以上、このたび私は軍歌「上村将軍」の由来をはじめ、これにまつわる様々のことを改めて知り、この名歌に対する愛着が一層深まった。
 また将軍の生い立ちやエピソードなどにも接して、将軍が非運といわれながらも、いかに万人に愛され、敬慕された名将であり、仁将であったかを再認識した次第である。
 因みに将軍 (明治43年に大将) の命日は大正5年8月8日、享年68才。
 鎌倉水交会では今もなお毎年10月に鎌倉妙本寺で、将軍の遺徳を偲んで墓前祭を催し、参列者全員で「上村将軍」を斉唱して墓前に捧げているとのことである。

 
   
                       救助されたロシア水兵

 


 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2014年03月30日 06時14分43秒 | Weblog

  昨日、友人の御嬢さん方の弦楽四重奏 聴いてきましたが こういう演奏会も良いものだと思った

    会場に向かう途中 満開の桜の木に驚かされた 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

3月29日検索

2014年03月30日 06時09分12秒 | Weblog

 訪問者 65   閲覧数 178                              順位 13,419/2,003,371

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする