泣きながら抜いた、遺体に刺さった無数のガラス片
米軍が広島や長崎の原爆投下の前後に、訓練のため全国30都市に計49発を落としたとされる「模擬原爆」。重さ4・5トンの強力な兵器で、400人以上を死に至らしめた。
大阪市東住吉区に投下された昭和20年7月26日朝、広野国民学校(現・大阪市立摂陽中学校)の教師だった龍野繁子さん(89)は、着弾地点から約150メートルの町工場にいた。当時21歳。勤労動員で生徒約20人を引率していた。
爆風で飛ばされた庭石
午前9時前に工場に到着。この日は海軍の制服のボタンを作ることになっていたが、工場主から「先生、今日も材料が入ってこないねん。勉強してください」と言われた。
〈若い血潮の予科練の七つボタンは桜に錨(いかり)-〉と軍歌にも歌われた誇らしいボタンだったが、戦況は厳しく、材料調達すらままならなくなっていた。
2階の空き部屋にいた生徒たちを隣の部屋に集め、「さあ国語にしようか、算数にしようか」と授業を始めようとしたときだった。
こんな異常な国の軍隊が未だに、日本にいる 国防は日本国の軍隊