とても温かい ポーランド孤児と日本のお話 http://youtu.be/4ZI6EwX5c80
昭和天皇実録公表
終戦への道でリーダーシップ 抗戦派を説得 謁見回数、影響力裏付
9日公表された「昭和天皇実録」の記述内容からは、昭和20年8月15日の終戦に向け、昭和天皇がリーダーシップを発揮していた様子が、宮中側近や閣僚らの謁見内容などから改めて浮き彫りになった。昭和天皇は戦時中、陸海軍上層部から連日報告を受けており、悪化する戦況を詳細に把握していたことが、終戦の「ご聖断」に結びついたといえそうだ。
実録の中で、昭和天皇が終戦の意思を最初に明確に示したのは19年9月26日。側近の木戸幸一内大臣を呼び、「武装解除又は戦争責任者問題を除外して和平を実現できざるや、領土は如何でもよい」などの言葉を述べた。
木戸内大臣は、これを極秘事項として重光葵外相に伝えた。当時は陸海軍とも戦争継続の意思を強く持っていたが、昭和天皇は慎重に終戦への道を探り始めたといえる。
沖縄戦で日本軍の組織的戦闘の終了について報告を受けた20年6月20日の夜、皇居に放たれた蛍を1時間も見ていたと、実録は記述する。内面には触れていないが、この時、心中に期するものがあったようだ。
2日後の同月22日、鈴木貫太郎首相、東郷茂徳外相、阿南惟幾(あなみ・これちか)陸相、米内光政海相、梅津美治郎(よしじろう)参謀総長、豊田副武(そえむ)軍令部総長を呼んで懇談会を開催。「戦争の終結についても速やかに具体的研究を遂げ」るよう求めた。実録で昭和天皇が軍の最高幹部に戦争終結の希望を表明した記述はこれが初。ただ当時は、条件付きの終戦を探っていた。
鈴木内閣発足から終戦までの4カ月間で側近らによる謁見回数は、木戸内大臣が最多の102回、梅津参謀総長が55回、鈴木首相が43回など。和平派と抗戦派の意見が錯綜(さくそう)する中、政府や軍部の内情に通じた木戸内大臣の意見も聞きながら終戦へ筋道をつけた。
土田宏成(ひろしげ)・神田外語大准教授(日本近現代史)は「昭和天皇が終戦を決断するに至ったのは、大規模な空襲や沖縄戦、原爆投下などの惨禍に衝撃を受け、国民や国家の存続の危機を感じたことも一因と考えられる」と指摘している。