技工団の芽生えは、実は、中国大陸での出来事でした。
創業者の作間正朝は、1932年、現在の熊本大学工学部の前身である熊本高等工業土木科を卒業し、その当時の若者たちが夢を抱いていた旧満州である中国東北地区に渡り、南満州鉄道株式会社に入社しました。鉄道建設の技術者として、また管理者として、身を奉じておりましたが、1945年8月15日第2次世界大戦終戦。8月24日には、錦州鉄道局前の厚生会館に監禁されるという事態となりました。この時、若手の助役を集め、「日本に帰っても、永く故郷を離れていた我々には、知人も地盤もないから、立ち上がるのは、非常に難しい。日本に帰っても、分散することなく、団結して、我々の技術を生かして、戦後の日本の復興に努力しよう。大切なことは、団結の力である。」と、誓い合いました。これが、今日の技工団の精神的な芽生えだったのです。
その後、軍により使役労働が要求されましたが、不公平にならないようにと、『錦州日本人技術建設団』という組織を結成し、組織として、軍からの、飛行場建設、鉄道建設、建物建設、道路建設などに応じました。このことは、その当時の日本人の生活に大きなプラスとなりました。技工団の組織としての芽生えともいうべきものでした。
1946年、日本人送還の責任者として、最後の引揚げ船「雲仙丸」で、団員500人とともに、日本に帰る時がきました。博多港に入港、船上から博多の街の廃虚と化した惨状を見て、団結して国土再建に努めたいという先の考えがいっそう強いものとなり、その実行を決意させました。
『合作社技工団』の誕生です。
役員、幹部は、選挙で決め、現役以外は認めないという仕事集団です。仙台、金沢、名古屋、大阪、山口、徳島、博多、松江に地方団を作ることにしました。山口の技工団は、257人。北海道、沖縄の出身者も参加しました。そして、食べるための苦闘が始まったのです。
島根県の日原町。この地で、島根県庁から道路の改修工事を受注。この仕事が、技工団のはじめての仕事になりました。
1947年、宇部地区の工場群の仕事に参加するチャンスを得て、沖の山専用線、宇部小野田線の補修、炭坑の採炭作業、工場内の雑役などに参加、後の美祢や北九州の鉱山開発、鉱山業務などにも携わるきっかけとなりました。
1948年3月、本来の鉄道建設技術をベースに当時の国鉄広島鉄道管理局の指定業者となることができ、これを機会に改組。合作社技工団は、株式会社新日本技工団として設立し、山口県山口市に本社を構えることになりました。
1957年、建設省の工事に参加のチャンスを得て、以来国道2号、国道9号木戸山ルート、国道191号、島地川ダム建設工事などを経て、現在も国土交通省の工事に参加しています。
もともと鉄道建設が我々の発想の礎。土木あり、建築あり、軌道あり、電気あり、通信ありという世界ですから、何にでも挑んでいくことができました。鉄道建設から発して、現在は一般土木、一般建築、鉱山土木、地盤改良などに取組んでいます。まさに自然体で変化してきました。