ドゥンドゥン馬鹿

ドゥンドゥンバ狂もそうでない人も・・・もちろんジャンベ・ジェンベにまつわる話し・・・

春の匂いに想ふ

2012年03月29日 05時27分23秒 | Weblog
昭和40年代、小学校時代を石神井公園で過ごした。
当時、今の環八が道路舗装は出来ていたけどまだ開通してなくて
僕らはそこを「新しい道路」と呼んで自転車レースをしたり秘密基地を作ったり我が物顔で遊んでいた。
いまの練馬高野台駅周辺は小林牧場と言う牧草地があって
うっそうとしたクヌギ林には夏になるとゴロゴロカブトムシがいた。

新しい道路周辺には今では珍しい汚いどぶ川があり
春になるとそのほとりには無数のつくしんぼが生えて
よくお浸しにするのに摘みにいったもんだ。

そんな昭和40年代の日本はイケイケドンドンで
つくしやカブトムシ達が棲みづらくなる過程だったと思う。
夏は毎日光化学スモッグ注意報がでて
ばあちゃんが毎日泳いでいたという石神井川は濃緑色のヘドロで埋め尽され
親父の給料が上がるのに比例して家にいる時間はほとんど無くなった。
小林牧場は住宅地になりつくしんぼの居場所も無くなった。

学校では1クラス45名8クラス。
いい学校に行けばいい大学に行けて
大企業に就職出来れば生涯凄いお給料がもらえるって教わった。
「寄らば大樹の陰」とは親父の口癖。
親父の親父(私の祖父)は旧宮内省の人間で
何んと多摩御陵を設計した人(今でも達筆な英文で書かれた多摩御陵の設計図が遺品として実家にある)
そんな祖父に反発した当時の親父は
面接さえ受ければ入社できた筈の○菱重○を蹴って
無名の水産会社へ入社。
およそ2年で倒産、やむなく某自動車メーカーの販社へ就職した。

そんな経緯を聞いたのは私が成人してから。
だから青年期の私は「寄らば大樹の陰」と言い放つ父を心底嫌悪した。


今では
新しい道路は環八となって駐車場のごとく渋滞してるけど
春の訪れは花粉による鼻水でしか感じられなくなってきたけど
いい学校に行けば生涯安泰ってことはなくなったけど
住宅地に空家が多く目立ってきたけど
都内の小学校が生徒数少なくて廃校になるところが多いけど
親父は仕事し過ぎでココロの病となり禁治産者となっちゃったけど
大学進学率はインド120%韓国82%に対して日本は53%だけど

でも日本全体が
どこまでも上へ上へっていう焦燥感とかが無くなった。


春の匂いにそんなこんなを感じました。






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