写真が生まれて二百年位になるのだろうか。
真実を写すと、あるがそうでもないようだ。
終戦を告げる新聞記事の写真に合成と演出があった様だ。
通りすがりの少年に黙礼をさせ更にその写真に同じく黙礼した大人を合成した物だ。
見る者には終戦を悲しむ人々と映るだろう。
こういった写真は日本ばかりでなく諸外国にも多く見られ、当たり前の様だ。
特に戦時中は頻繁で相手国の残虐性を宣伝するのに合成したり削ったりした写真を一種のプロパガンダとして流した様だ。
印象派の時代が萌芽した頃写真はまだ白黒だったが、かなり洗練され社会に広まりつつあった。
当時の画家達はミレーにしてもそうだろうが、迫り来る写真の新しい波に怯えながら創作活動を続けたのだろう。
印象派の先駆者 エドゥアール・マネ
この画家の傑作に「草上の食事」がある。
学校の教科書にも図版が載っているからご存知の方も多いだろう。
幼心に不思議な絵だなぁと思ったものだ。
普通のピクニックの風景に一人女性だけが全裸なのだ。
他の男性達は当時出始めのジャケット姿で悪い人でもなさそうだ。
一方、女性も困っている様子でもなくむしろ楽しそうにも見える。
犯罪性など微塵も感じられない。
写実的に描かれ一見不自然に思われるシチュエーションも極当たり前に受け取れる。
イギリス国営放送制作ドラマ「モネと印象派の画家達」を見た。
その中で、マネが「草上の食事」の制作シーンがあった。
アトリエで全裸の座った女性を写生している、他に男性モデルはいない。
もちろん部屋の中なので回りは緑豊かな草上ではない。
どうやらマネはここでは女性像だけを取材して、おそらくはこの後男性像をそして、緑の風景を取材して頭の中で絵を合成して作品としたのだろう。
写真という一瞬にして風景を活写する新派に対抗すべく描かれた作品「草上の食事」は当時の画壇にも一石を投じた様だが評判は悪かった。
しかし、この作品がその後の印象派への扉となり、現代絵画の道標となったのだ。
我々が絵を描く事に行き詰まった時、この作品にこの時代に立ち返れば良いのである。
何を表現しようか迷っている者達にとっても光明となるかもしれない。
写真に限らず、古くは宗教絵画の時代から絵画やデザインは合成と削除のくりかえしなのかもしれない。
そして、それらはその時代を真に写し出しているのだ。
それにしても、今年はどういう時代となって行くのだろう。
新しい扉を開く絵に巡り会いたい。
新しい扉を開く者に巡り会いたい。
自分自身の内なる扉にも・・・
元旦