収集癖がある。
子供の頃は牛乳瓶のフタを集めていた。
遠い鉄工所まで赴き、塵箱の中から鉄の欠片やワッシャのような物も集めていた。
お菓子のオマケも集めたりしたが、金銭的にコンプリートとはいかなかった。
よって今でも金のかからない物を集めている。
ベルマークとか、包装紙、コンビニ袋、新聞や雑誌の切り抜き、アイスキャンデーの棒、などなど、世間的にはゴミの類である。
ベルマークは貯まったら、近所に行き交う通学途中の学童にでも渡そうとも思っている。
コンビニ袋は今や有料化で必需品であり貴重品になってしまったのでエコバック代わりにポケットに忍ばせて常用している。
新聞雑誌の切り抜きは昔からやっており、芸能人の写真や面白い記事をスクラップしている。
アイスキャンデーの棒は溜めて、家でも建てようと思っている。もちろん一分の一ではない、模型の小さな家である。
家人は呆れている。なにしろ部屋が塵の山であるからだ。当人は一向に気にしない。これはああしよう、あれはこう利用しようと頭の中で張り巡らしていて、どんどん夢が膨らむ一方なのだ。
綺麗な菓子箱などを見つけたりすると、子供のように狂喜する。そして思うのだ。これ以上の人生の宝物はない。
どこか頭の回線が壊れているのかもしれない。よくよく考えれば趣味の範疇には入らない。幼い頃からの貧乏性が抜けないのだろうか。
最近、周りを見渡せば過疎化した都市や町や村に老朽化したモニュメントに使われなくなった公共施設を目にする。
これら超巨大な塵ともいえる代物は将来的にはどうするのだろうか。
などと、偉そうに考えて問題をすり替えている。やっぱり明日にでも、ぶん投げてスッキリした方が懸命なのだろうか。
金のかからない収集も、投棄するのに金がかかるからだ。
人類の滅んだ文明や過去の歴史も塵の集積であるといったら怒られるだろう。
牛乳瓶のフタも懲りずに、今も収集していたら、それはそれで歴史や文化が見えてくるのだろうか。
今はただ懐かしく、貧しかった少年時代が蘇えるだけである。
子供の頃は牛乳瓶のフタを集めていた。
遠い鉄工所まで赴き、塵箱の中から鉄の欠片やワッシャのような物も集めていた。
お菓子のオマケも集めたりしたが、金銭的にコンプリートとはいかなかった。
よって今でも金のかからない物を集めている。
ベルマークとか、包装紙、コンビニ袋、新聞や雑誌の切り抜き、アイスキャンデーの棒、などなど、世間的にはゴミの類である。
ベルマークは貯まったら、近所に行き交う通学途中の学童にでも渡そうとも思っている。
コンビニ袋は今や有料化で必需品であり貴重品になってしまったのでエコバック代わりにポケットに忍ばせて常用している。
新聞雑誌の切り抜きは昔からやっており、芸能人の写真や面白い記事をスクラップしている。
アイスキャンデーの棒は溜めて、家でも建てようと思っている。もちろん一分の一ではない、模型の小さな家である。
家人は呆れている。なにしろ部屋が塵の山であるからだ。当人は一向に気にしない。これはああしよう、あれはこう利用しようと頭の中で張り巡らしていて、どんどん夢が膨らむ一方なのだ。
綺麗な菓子箱などを見つけたりすると、子供のように狂喜する。そして思うのだ。これ以上の人生の宝物はない。
どこか頭の回線が壊れているのかもしれない。よくよく考えれば趣味の範疇には入らない。幼い頃からの貧乏性が抜けないのだろうか。
最近、周りを見渡せば過疎化した都市や町や村に老朽化したモニュメントに使われなくなった公共施設を目にする。
これら超巨大な塵ともいえる代物は将来的にはどうするのだろうか。
などと、偉そうに考えて問題をすり替えている。やっぱり明日にでも、ぶん投げてスッキリした方が懸命なのだろうか。
金のかからない収集も、投棄するのに金がかかるからだ。
人類の滅んだ文明や過去の歴史も塵の集積であるといったら怒られるだろう。
牛乳瓶のフタも懲りずに、今も収集していたら、それはそれで歴史や文化が見えてくるのだろうか。
今はただ懐かしく、貧しかった少年時代が蘇えるだけである。