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ゆるキャン△の聖地を行く44 その6  野反湖 湖畔西岸の径

2025年01月02日 | ゆるキャン△

 12時35分に富士見峠(野反峠)を起点としてスタートした今回の野反湖ハイキングは、上図の約5キロの湖畔西岸ルートをたどりました。今回はその最初の1キロ分、上図の「どじょう小屋沢」までの赤線のコースを紹介します。

 

 富士見峠より歩き出して、最初の分岐点にて、一度「野反湖休憩舎」のほうを振り返りました。分岐にて右へ行くと、弁天山やエビ山の稜線を登るルートに行きます。

 

 同じ位置から真東を見ました。奥のピークが八間山(標高1934.5メートル)です。富士見峠から東へ登る登山ルートがその八間山の山頂へ向かい、北尾根沿いに野反湖北端の観光駐車場の登山口まで続いています。
 その登山口の横に、長野原草津口駅からのバス路線の終点である野反湖バス停があります。今回のハイキングコースの終点が、その野反湖バス停で、バスの最終便の発車時刻である15時39分が、タイムリミットでした。

 

 歩き出しながら北の野反湖を眺めました。何度見ても、太古以来の自然の湖に見えるなあ、ダムによって出来た人造湖とは思えないなあ、と思いました。野反ダムは北端に位置しており、こちらからは全然見えませんでした。

 

 道は湖岸のほうへと迂回気味に、ずっと下り坂となっていました。全体的に平坦なルートだとは聞いていましたが、道の前方に弁天山やエビ山の西麓の支尾根が幾重にも連なって見えるので、それらを越える小さなアップダウンが連続するのだろうな、と思いました。

 

 野反湖は、御覧のように湖岸に白っぽい砂浜のような汀辺が幅広に見えて、満水期よりはやや水面が下がった状態であることが分かりました。そうすると、水深の浅い入り江部分などは水がかなり引いているのかもしれないな、と考えました。

 

 道は北に下って、湖畔に近づくかに見えて、実際にはやや離れ気味に北北東へ転じて、上図のまっすぐな登り坂になりました。両側に千島笹が広がりはじめ、雑木林の中に入りました。

 

 雑木林に入る直前に一度後ろを振り返りました。降りてきた道の向こうに富士見峠の稜線と「野反湖休憩舎」が見えました。まだ歩き始めて3分ぐらいでしたが、もうあんなに離れているか、と思いました。

 

 少し歩いた後の12時41分、上図の小屋が見える分岐に出ました。小屋は廃屋然とした雰囲気で、長い事使われていないようでした。現地は野反湖の南端に丸く突き出た、弁天山の南東尾根上の小ピークにあたるので、周囲の林が無かったら、湖面の眺望が良いだろうな、と思いました。

 上図の分岐で右に行くと、湖畔東岸ルートに行きます。今回は湖畔西岸ルートなので左に進みました。

 

 再び緩やかな登り坂になりました。樺とみられる林の下の千島笹の群生地のなかを登りました。普段はなかなか見られない、標高1500メートル台の高海抜地ならばでの植物相の景観が新鮮なものとして目に映りました。

 

 途中で見かけた湖畔西岸歩道の標識。富士見峠から0.5キロの地点でした。右の「ビジターセンター」とは今回目指している野反湖キャンプ場のビジターセンターのことで、ここから4.5キロ先となっていました。

 

 道は緩やかに右へ曲がり、持参した方位磁石の針がさっきまで西寄りだったのが、次第に北西、北北西へと転じました。左右の千島笹はだんだん背が高くなってきましたが、空を覆う樺の林は変わらない高さで弁天山の北東麓の斜面を覆っていました。

 

 北北西に登ると道は上図のように真っすぐなまま、僅かな下り坂に転じました。方位磁石と共に持参したハンディGPSの高度計は1528メートルを示していました。

 奈良県に住んでいた頃、県内の中世戦国期の数多くの山城跡を訪ね歩いていた時期に使用していた方位磁石とハンディGPSですが、十数年ぶりの使用にもかかわらず、正確に作動し測定値を表示し続けていました。それに励まされるように、枯れ笹が積み重なった柔らかい山道を歩きました。

 

 それから登り坂になりましたが、程なくピークに達してしばらくは平坦になり、右手の雑木林が無くなって上図のように野反湖の青い湖面が見えるようになりました。

 

 右下に湖岸線が小さく入り江ふうに屈曲しているのが見え、そこからは上図のように千島笹の群生も背が低くなって、湖面の眺望が開けてきました。雑木林が帯状に無くなっているので、戦前および戦後に伐採が行われたのはこのあたりかな、と考えました。

 

 上図の標識を見ました。この場所一帯が「どじょう小屋沢」と呼ばれ、富士見峠から1キロの地点にあたります。

 この辺りに、明治時代末にドジョウやコイを放流、養殖するための笹小屋(ドジョウ小屋)が建てられ、初夏から秋まで泊まり込みでドジョウを取り、近くの草津温泉の旅館に販売していたといいます。
 笹小屋は戦後間もなくの昭和26年頃まで続いたそうですが、全て廃止撤去され、いまではどこにも痕跡すらとどめていません。「どじょう小屋沢」の地名だけが残っています。  (続く)

 

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