常寂光寺の本堂の前に進みました。U氏が、屋根を見上げ、その軒先を見上げながら「お寺の本堂にしては変わってる屋根だな」と言いました。画像では写っていませんが、本堂の屋根は二層形式で、上部は緩やかに盛り上がった「むくり屋根」、下部は反り返った屋根の形に造られます。
確かに、寺社建築としては大変珍しい形ですが、伝承通りの旧伏見城客殿であれば、この二層形式の屋根はむしろ一般的な城郭殿舎のそれとなります。古文献資料などで城郭関連の建物の屋根に関して「二層」とあるのを見かけますが、これは二階建てという意味ではなくて、常寂光寺本堂のように上下に屋根を重ねた形態を指すものと解釈されます。
本堂に向かって右側にある式台です。この玄関口も寺院の本堂には基本的に有り得ない施設です。城郭関連の建物で客殿だったのであれば、こうした式台は必須の要素となります。
寺伝によれば、この本堂は、慶長年間(1596~1615)に小早川秀秋の助力によって伏見城の客殿を移築した、とされています。昭和初期の大修理で本瓦葺から平瓦葺に改修されましたが、風雨の浸食により老朽化が進み、平成28年に開山日禛上人の四百年遠忌事業の一環として全面的な修理が行われ、移築当時の本瓦葺に戻されたということです。
なので、全体的に建物が真新しく見えるのも、全面的な修理が行われたことによるものです。破損していた木材は交換され、白壁は新たに塗りなおされ、屋根は殆ど新調に近い状態になっています。慶長年間(1596~1615)に小早川秀秋が移築した頃の状態がよくうかがえます。
U氏は「これは間違いなく本物だろうな」と、寺院の本堂にしては立派過ぎる構えの建物のあちこちを見て撮りつつ、小声で言いました。内部は一般公開されていませんでしたが、檀家の法要が行われていて、東と南の戸口が開かれて読経の声が聞こえていました。
それで内部の様子がある程度見えたので、その間取りや書院造の間も少し見る事が出来ました。ここの本堂となった後も内部空間は殆ど変えられていないようで、北側に上段の間があって座席も北向きに並べられているのが見えました。
この本堂は、建物の本来の正面がいまは東に向くので、現在は北側にある式台から直結する空間が上座になります。これは移築時に改造せずにそのまま活かして寺院の本堂にした結果であり、上座を北に向けて上段つまり仏壇に変更した形です。そのため、建物の向きを変えて、本来は南面していたであろう正面を東向きに変更しています。伏見城下にあった頃は現在の東側の正面が南向きだったと思われますので、いまは向きが左回りに90度変えられているわけです。
U氏はしばらく手元のコピー資料を読み、再度建物の外回りを一瞥し、「問題はいつの時期の伏見城の建物であったか、だな。小早川秀秋が関与したのであれば、慶長七年(1602)からの徳川の再建の建物ではないことになる」と言いました。その通り、小早川秀秋は慶長七年(1602)に病没しているからです。
したがって、それ以前の豊臣期に建てられた伏見城の建物であった可能性が高くなります。周知のように豊臣期の伏見城は文禄二年(1593)より本格工事が始まった指月伏見城、それが三年後の慶長伏見大地震で壊滅した後、その残余建材を木幡山に運ばせて改めて築城工事が再開されて慶長二年(1597)頃に竣工した木幡山伏見城、の二つに分かれます。
常寂光寺が現在地にひらかれたのは文禄五年(1596)といい、権大納言日野輝資の養女である延壽院が開基となり、六条堀川の本国寺の日禛(にっしん)が隠棲の地として寺を築いたといいます。常寂光寺の寺号は、日蓮宗で説かれる「永遠で絶対の浄土」を意味する常寂光土(じょうじゃっこうど)の語句に由来しています。
開山の日禛(にっしん)は、当時の日蓮宗でも清廉孤高の人として名をはせた高僧で、豊臣政権期には京都の日蓮宗の総本山であった本国寺(のち本圀寺)の第十六世住持を勤めていました。つまりは京都の日蓮宗の代表者であったわけです。
文禄四年(1595)に秀吉は方広寺大仏殿の千僧供養会に際して、諸宗派から僧の出仕を求めましたが、日禛はこれを拒否して秀吉の怒りを買いました。日蓮宗では、他宗の信者の布施を受けてはならず、また法施をしてはならないという宗の掟があったため、日禛はこれに従って受けず、施さずの「不受布施」を貫きました。
しかし、当時の京都に存在した日蓮宗の十六の本山の寺院は、秀吉の怒りを恐れて千僧供養会への出仕に応じましたので、日禛と同じく「不受布施」を貫いたのは妙覚寺第二十一世の日奥(にちおう)のみでした。秀吉の怒りを受けて二人は寺を出て、日禛は嵯峨に、日奥は丹波小泉に隠棲しました。
嵯峨に隠棲した日禛には、多くの帰依者が居ました。京都の町衆はもとより、秀吉の姉の瑞龍院日秀(ずいりゅういんにっしゅう)、その夫の三好吉房(みよしよしふさ)、北政所の兄の木下勝俊、その弟の小早川秀秋など、豊臣家の人々も含まれました。さらに加藤清正、小出秀政など、秀吉の家臣の多くが帰依していました。
それで秀吉も日禛の出仕拒否に激怒したものの、瑞龍院日秀や北政所や小早川秀秋らの懇願説得もあり、それ以上の処罰には至りませんでした。
その日禛に、文禄五年(1596)にかねて親交のあった嵯峨の豪商、角倉了以(すみのくらりょうい)とその岳父の栄可(えいか)が小倉山麓の土地を寄進しました。その地域は藤原定家や西行ゆかりの場所でもあったため、和歌にも造詣の深かった日禛はことのほか喜び、ここに寺を建てて隠遁の地としました。その寺がいまの常寂光寺です。
常寂光寺の創建に際して、小早川秀秋が慶長年間(1596~1615)に伏見城の客殿を移築して寄進し、本堂としました。小早川秀秋は慶長七年(1602)に病没しているので、本堂の移築の時期は慶長七年以前となります。
そうなると、本堂の建物は、慶長七年以前に伏見城内に存在したことになります。したがって慶長七年(1602)から再建が始まった徳川期伏見城の建物は対象外となります。
豊臣氏一族の小早川秀秋が移築に関与したとされる以上、その伏見城とは、慶長伏見大地震で壊滅した指月伏見城、およびその建材を用いて文禄五年(1596)より建設が進められ、慶長二年(1597)頃に竣工した木幡山伏見城以外にはあり得ません。要するに豊臣期の伏見城です。
U氏は、指月伏見城が地震で壊滅して建材を木幡山に移し始めたのが文禄五年(1596)であることに注目し、同じ年に常寂光寺が創建されている点を指摘したうえで、伏見城の客殿を移築するには絶好の機会だろう、との推測を話しました。
その推測はたぶん当たっているだろう、と考えます。指月伏見城が地震で壊滅した時点で残っていた建物は、当時の記録である「慶長記」や「当代記」によれば、台所御殿のみだったらしく、秀吉が地震直後の夜をそこで過ごした経緯が知られています。
ただ、火災が発生していなかったため、崩壊した天守以下の諸建築群の大部分の建材が再利用可能で、すぐに木幡山への運搬が地震の二日後に指示されています。それで木幡山に改めて伏見城の建物が築かれていったわけですから、小早川秀秋が客殿の建物を移築するならば、このタイミング以外に有り得ない、と思います。
しかも常寂光寺の創建の時期と一致しており、その文禄五年は10月に改元となって慶長元年に転じましたから、慶長年間(1596~1615)に小早川秀秋が移築したとする寺伝とも符合します。おそらく、客殿の移築は慶長元年ぐらいになされたのだろう、と推測しています。木幡山伏見城は慶長二年(1597)5月に天守閣が完成してほぼ竣工しているからです。
U氏はさらにもうひとつの可能性を述べました。木幡山伏見城が竣工した翌年に秀吉が亡くなる、その後に何らかの理由で客殿を小早川秀秋が貰い受けて常寂光寺へ寄進移築するというのは、可能なんだろうか、と。
私は「可能かもしれないけれど、ちょっと難しい。たった二年しかないし、内府(徳川家康)が絡むだろうからな」と答えました。
秀吉の死後、慶長四年(1599)に伏見城へ、徳川家康が豊臣秀頼の代理を務めて留守居役として入城していますが、半年足らずで秀頼の大坂城に移っています。翌慶長五年(1600)6月には東西手切れとなり、徳川家康に代わって鳥居元忠が預かる伏見城へ、小早川秀秋、島津義弘らの西軍が攻め寄せて合戦となり、城は炎上し落ちました。
このときの石田三成の報告で「城内悉火をかけやけうちにいたし候」とあるように、伏見城内の建物をことごとく焼き払ったことが分かります。つまり、秀吉時代の主要建築はすべて焼亡したものと見なされるわけです。
このように、秀吉の没後の伏見城は、徳川家康が留守居として預かり、さらに鳥居元忠が家康の命令によって城代として入っていますから、伏見城合戦で炎上落城するまでずっと徳川家の管理下にあったことが理解されます。
そのような時期に小早川秀秋が客殿を貰い受けて常寂光寺へ移築寄進する、というのはちょっと考えにくいです。時期的にも符合性がありません。
その時期に客殿を移築するのであれば、所有者である豊臣秀頼や留守居管理者の徳川家康の許可承認が必要となるでしょうし、そうなったらそうなったで、常寂光寺側の記録にも移築寄進の関与者として豊臣秀頼または徳川家康の名が付記される筈ですが、実際には「小早川秀秋の助力により」となっています。
以上の事柄をふまえて、私自身はこの本堂の移築時期を、慶長元年ぐらい、と推測しています。最終的にはU氏も「それが妥当だな、いや、それ以外に有り得んな」と同意しましたが、つまりは二人ともこの常寂光寺本堂を豊臣期伏見城の建築遺構と見なすことで一致したわけです。
この私たちの推測は、重要なポイントです。豊臣期伏見城の建築遺構は京都市内においてはまず残っていないと思われるなかで、稀な同時期の建築遺構が見いだされた形であるからです。しかも文禄五年という年次によって、地震で崩壊した指月伏見城の建物であった可能性も浮上するからです。
つまり、文禄五年の慶長伏見地震で壊滅した指月伏見城の建物の建材を木幡山へ運び移して新たに城郭を築くさなかに、客殿の建材を、小早川秀秋が心の師とも仰ぐ日禛に寄進し、常寂光寺の本堂となした経緯がひとつのストーリーとして浮かび上がるわけです。史実かどうかは分かりませんが、当時の情勢を考えれば充分に有り得る話です。
この推測に立つ場合、常寂光寺への客殿の寄進移築に関して、伏見城のあるじの秀吉の許可は得られたのか、という問題が生じます。先に述べたように、方広寺大仏殿の千僧供養会への出仕を拒否した日禛に対して秀吉は激怒しましたが、日禛に帰依していた姉の瑞龍院日秀や北政所、小早川秀秋ら豊臣一族の懇願説得もあり、それ以上の処罰には至りませんでした。
なので、常寂光寺への客殿の寄進移築は、秀吉の日禛への「詫び料」であった可能性が考えられます。小早川秀秋は秀吉の義弟であり、当時は秀吉の養子になって北政所が養育し、猶子となっていましたから、小早川秀秋が客殿の寄進移築をするというのも、秀吉の意を受けての代行であっただろう、と考えられます。第一、客殿という伏見城内でも格式の高い重要な建物を他へ移すというのも、秀吉の許可が無いと出来ない筈です。
だから常寂光寺の寺伝にて「小早川秀秋の助力にて」と、あたかも秀秋がサポート役であったかのように書かれ、実の寄進者が別に居たことを暗示しています。おそらく秀吉その人だったでしょう。
おそらく、秀吉としては、豊臣一族も帰依している京都法華宗トップの日禛に対して、方広寺出仕拒否の件で怒ってしまったが、日禛は宗の掟を忠実に守ったので罪は無い、非は怒った自分のほうにある、それで日禛が本国寺を退いて嵯峨に隠棲してしまったのも自分のせいだ、と反省していたのでしょう。
そして角倉了以らの土地寄進による常寂光寺開創のことを聞き、それならばこちらもお詫びして支援しよう、と思いつき、たまたま工事中だった伏見城の建物の一つを寄進することに決めたものの、怒鳴りつけた相手の所へ自分が出向くのは恥ずかしく情けないから、猶子の小早川秀秋に代行させた、ということではなかったかな、と思います。
U氏も同じ推測をもって、常寂光寺本堂の本当の寄進者は秀吉だろう、と話していましたから、小早川秀秋を代理として詫びを入れるしるしに、京都法華宗トップだった日禛に相応しい建物として、伏見城内では最高の格式を持つ客殿を「馳走」したのだろうとする私の推考にも「そういうことだろうな、秀吉らしいやり方じゃないか」と同意してくれました。
それでいい、その推測が真実に最も近いようだ、と言わんばかりの満足げな表情でした。それをみて私も満足でした。
本堂の前庭からは、東に眺望が開けて嵯峨の里、遠くの京都市街が広く望まれました。その景色を、二人とも大満足の気分でしばらく眺めました。
さて、次に行くか、とU氏が上図の石段を降りかけて、あっ、帰りは北からだな、と気付いて北側からの斜めに下る石段をたどりました。
再び仁王門のところまで来ました。もとは六条堀川の本国寺客殿の南門であったものを、開山日禛上人の晩年の元和二年(1616)に移して、寺の整備が完了したということのようです。その翌年に日禛は入滅しています。
その三年後の元和六年(1620)に多宝塔(国重要文化財)が、京都の大呉服商の辻藤兵衛(つじとうべえ)によって寄進されました。
この辻藤兵衛は、かつて日禛とともに方広寺大仏殿の千僧供養会への出仕を拒否して「不受布施」を貫き通した妙覚寺の日奥(にちおう)の父親であったといいます。かつて秀吉の怒りを買った二人の日蓮宗の高僧の縁は、ずっと途切れないままであったのでした。
参道脇にいわくありげな祠があるので、そこへ行って境内散策をしめくくりました。祠の前からは、仁王門が上図のように見えました。
U氏が、ここ常寂光寺は、歴史的にけっこう深みがある穴場だな、印象に残る寺の一つになりそうだ、と言いました。私にも似たような感慨があり、豊臣期伏見城の建築遺構の可能性を間近に見られたのも大きな成果でした。
日蓮宗のお寺は京都にも数多いですが、常寂光寺のような豊かな四季の樹木に囲まれた、日蓮宗で説かれる「永遠で絶対の浄土」を意味する常寂光土(じょうじゃっこうど)をそのままうつしたような自然環境に包まれる寺は稀だと思います。 (続く)