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気分はガルパン、、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

伏見城の面影25 興聖寺本堂

2024年09月29日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 翌4月14日は快晴でした。U氏はいつもの祇園四条のカプセルホテルに連泊して祇園四条駅から京阪電車に乗り、私はその列車に清水五条駅から乗り込んで合流、宇治駅まで行きました。U氏との宇治行きは、実に10年ぶりのことでした。

 京阪宇治駅からは、おなじみの朝霧通りを歩いて宇治川の東岸を進み、観流橋を渡って上図の槇ノ尾山(御所山遺跡)が見える地点まで行きました。U氏も宇治へは何度か来ているそうで、ゆっくり歩きながら景色を楽しんでいましたので、私も歩速を落としてそれに合わせました。

 

 宇治川の流れをしばらく眺めた後、琴坂と呼ばれる上図の長い参道を進み、興聖寺の境内地に入りました。

 

 興聖寺山門付近の桜。

 

 興聖寺の山門の前にて、U氏が立ち止まり、ちらりと私を見て問いかけました。

「で、行くのか?」
「ああ」
「俺も行っていいかな?」
「もちろん」

 ということで、山門を入る前に大事な寄り道をしておきました。

 

 再び山門の前に戻りました。御覧の通りの竜宮造で、江戸期の天保十五年(1844)に改築されています。宇治市の有形文化財に指定されています。

 

 山門をくぐり、階段をあがって、寺では「中雀門」と呼んでいる江戸期弘化三年(1846)建立の薬医門をくぐると、すぐ右側に上図の石塔の笠石と相輪があります。U氏が「これって、浮島の十三重石塔のてっぺんの部分だろ」と指さしました。その通り、鎌倉期の国重要文化財の浮島十三重石塔の遺品であり、塔が明治四十一年(1908)に再建された後で宇治川から発見され、ここ興聖寺に移されて保管されています。

 

「で、あれが問題の本堂だな。前にも見てるけど、伏見城からの移築というのは知らなかったから、今あらためて見ると、いかにもそれっぽいな」
「それっぽい、じゃなくてこちらのは本物だろうと思うけどな」
「本物だとしても、伏見城にあった頃の姿とは違ってるような感じだな。屋根とかは改造されてるんと違うかね」

 U氏の言う通りでした。本堂の建物は、 慶安元年(1648年)に伏見城からの移築建築を用いて改築したといいます。伏見城合戦の東軍鳥居元忠以下の将兵の血が付いたままの床板を天井板として使っており、他の場所にもある血天井に比べると血痕の残り方が生々しいため、西賀茂正伝寺本堂の血天井と並べて有名になっているそうです。

 

 本堂の正面部分です。屋根は改造されているようですが、主屋部分は広縁と落縁の造りも含めてほとんど改変が加えられておらず、中央の石段からあがる部分も間口を広げるだけの改造にとどめています。昨日見てきた養源院本堂の客殿とよく似た構造、外観を示しており、落縁の外側に雨戸が付いている点も共通しています。
 なので、もともとは養源院本堂の客殿と繋がっていた、と推定しても違和感があまり感じられません。

 

 内部空間は、仏堂に転用する際に最低限の改造、つまり中央の間口を広げて奧室に須弥壇と厨子を入れて板敷を入れてあるほかは、書院時代のままの間取りを伝えています。

 徳川家の正史である「徳川実記」によれば、伏見城の廃城後の元和九年(1623)8月、二代将軍徳川秀忠の命により松平越中守定綱が淀藩3万5千石へ入部、淀城を幕府の援助によって築いて最初の城主となりました。築城に際して廃城となった伏見城の資材が転用され、天守は二条城より移築し、寛永二年(1625)にほぼ完成したとされています。

 その後、寛永十年(1633)に松平越中守定綱は美濃国へ移封され、代わって幕府の老中職を勤めた永井信濃守尚政が10万石で淀に入部、城郭と城下町の拡張を図り、侍屋敷の造営が行われたといいます。

 

 いまの興聖寺は、その永井信濃守尚政が慶安元年(1648年)に現在地に再興したものなので、淀城の拡張工事の際に旧伏見城の建物を新造の建物に置き換えたうえで、古い建物を興聖寺再興の際に本堂として再利用した可能性があります。

 寺では単に旧伏見城からの移築と伝えていますが、実際には淀城に移築されていた旧伏見城建築の再移築、と考えたほうが良さそうに思います。

 

 本堂に向かって右側には、上図の式台があります。これも本堂に付属する建築として旧伏見城からの系譜が推測出来そうに思われますが、間取りを見ると、むしろ奥に繋がる明治四十五年(1912)建立の大書院と共通した空間構成になっているようですので、大書院とともに付けられた式台だろうと思われます。

 大正八年(1919)に貞明皇后がここに行啓された際に大書院に逗留されたといい、その際にこの式台が玄関口として使用されたそうです。

 

 式台の破風の妻飾りもシンプルです。装飾意匠も控えめで、あまり旧伏見城建築の雰囲気が感じられません。

 

 したがって、伏見城から淀城を経て、先の老中にして淀藩主の永井信濃守尚政が慶安元年(1648年)の興聖寺再興に際して移築せしめた旧建築とは、上図の本堂部分のみ、としておくのが良さそうです。

 この本堂に関しては、寺に伝わる再興時からの記録である「宇治興聖寺文書」に何らかの記載があるのかもしれませんが、まだ閲覧の機会を得ていません。「宇治興聖寺文書」は同朋舎出版から3巻で刊行されているので、機会があればどこかの図書館で読んでみようと思います。

 

 いずれにしても、寺院の本堂にしては変わった造りの建物であることが、遠くから見るほど強く感じられます。屋根は大幅に改造されているようですが、主屋部分は城郭の御殿建築、書院建築特有の外観を呈しているからです。
 拝観料を払えば内部にも入れますが、U氏も私も過去に何度か入っているので、今回は外からの見学にとどめました。

 

 以上、興聖寺本堂でした。徳川期再建の旧伏見城からの移築建築の典型的な一例、とみておいて良いでしょう。

 寺の再建に幕閣の老中職を勤めた永井信濃守尚政が関わっており、その居城だった淀城は、旧伏見城の資材を転用して建てられ、二条城より移築したという天守も元は伏見城の天守だったそうです。つまり、永井信濃守尚政は、当時最も多くの旧伏見城移築建築を用いた城に住んでいたことになります。したがって、旧伏見城の建物を興聖寺に転用出来る権限があった、唯一の幕府重鎮であったことになります。

 その永井信濃守尚政が、興聖寺と宇治川をはさんで向かい合っている平等院にも修復寄進をしているのですが、その平等院にも伏見城からの移築と伝える門の建築が二棟あります。次は、その平等院へ向かいました。  (続く)

 

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伏見城の面影24 正行院客殿

2024年09月24日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 養源院を退出する際に、U氏が「次はどこへ行くんだ?もう一ヶ所を追加するんだろ?」と訊いてきました。そうだ、ここからバスで行くか、それとも歩いていくか、と応じると「今回は泊まりだから時間はたっぷりある、ゆっくり景色を見ながら歩いて行こうぜ」と答えてきました。

 

 それで養源院南門から南に進み、法住寺殿跡の石碑を一瞥し、上図の大きな南大門をくぐりました。いまは妙法院(蓮華王院)の管理下にありますが、もとは豊臣秀吉が建立した方広寺の南大門であったものです。両袖の築地塀も同時期の遺構で、かつての広大な方広寺境内地の規模がうかがえます。

「おい、この門から大仏殿跡までどれくらいあるかな、500メートルぐらいか?」
「いや、400メートルぐらいやないかな」
「ここが南大門だから、北の大門もあったのかね?」
「さあ、方広寺はあんまり勉強しとらんから分からんね。普通に考えたら大和大路の東側が境内地になるから五条通あたりが北限かなと思うけど、規模が広かったから北大門もあったと考えるのが自然やな」
「なるほど」

 

 それから南大門の前の塩小路通を西へ歩き、鴨川に架かる塩小路橋を渡りました。U氏が「ここからの鴨川の景色もなかなかいいね。桜並木があるし、川幅も三条や四条あたりよりは広くてゆったりしてる」と言いつつスマホで撮影していました。

 その後も塩小路通を西へ進み、高倉塩小路の交差点を渡りました。U氏が私を振り返って「おい、もうすぐ京都駅前になるんだが?場所はあってるのか?」と問いかけてきたので「次の辻を左へ曲がってくれ」と応じてその方向を指しました。

 

 次の辻で左折して南下すると、交差点があってその東南隅に上図の寺門がありました。そこだ、と教えるとU氏は「京都駅のすぐ東側じゃないか、こんな場所にお寺があるんだな」と感心したように言いました。

 

 その寺は正行院といい、猿寺の通称で親しまれています。山門脇の案内説明板です。

 

 残念ながら一般の参拝および内覧は受け付けていませんでした。いわゆる非公開寺院のひとつでした。

 

 ですが、山門から目的の建物である客殿が見えるので、充分でした。

 

「おい、あれがそうなのかね?」
「伝承では本堂が、伏見城の壊された建物を、寛永年間(1624~1644)に徳川家光が寄進して、それを改造して建てられたもの、となってるけど、それにしては建物が新しすぎるんで、どうも違うような気がする。隣のあの客殿のほうが、それっぽい外観と雰囲気を持ってるな、て思うんや・・」
「なるほど、確かに・・・」

 U氏も東隣のピカピカの本堂をチラリと見た後、バッグから双眼鏡を取り出して客殿を観察し始めました。

 

「水戸の、どう思うかね?」
「部材の彫り込み装飾は、江戸初期の形式みたいだね。それか、やや古い感じかなあ。徳川期伏見城の建物だったなら有り得る造形だな」
「やっぱり、そう見るかね・・・」

 

「しかし、葵紋とかは残ってないみたいだな。瓦は後世のものに交換したっぽいな・・・」
「あー、そんな感じやな」

 

 次に西側へ回って見ました。寺の駐車場の入口ゲート越しに、上図の軒破風の張り出し部分が見えました。
「おい、あれ改造されてるけど、元は車寄だったんじゃないかな?さっき見てきた養源院のとよく似てるな」
「うん、そんな感じだな。山門から見えたんが式台なら、こっちは車寄だったかもしれんな・・・」

 

 そして客殿の西側へ回ってみました。御覧のようにあちこちで建物がカットされたような状態で、屋根も半分をカットして二階建てに改造されていました。

「おい、これめちゃくちゃ改造されてるな、大屋根だけみると御殿っぽいな、破風の格子は外されて白壁になってるけど。カットされる前の建物をイメージすると、この寺の規模にしちゃ、大きすぎるような・・・」
「大きすぎたからあちこち切り詰めて改造したんやろうな・・・」
「徳川家光が寄進した時点で建物そのものは破却解体されてたんだから、部材とかを寄進したというのが実態かもしれんな。それを使ってそれらしく建て直して、境内地におさまるように改造した、ということかな」
「かもしれんね。客殿が二階建てというのも珍しい」
「そうだな」

 

 大屋根の残存部分をしばらく見上げました。U氏が「かなり古い部材みたいだな」と何度も言いました。

 

 確かに上図の懸魚(げぎょ)などは丸く象られて江戸期よりは桃山期よりの古式を残しています。

 

 境内地の裏手、北側は広い駐車場になっていますので、そこからは客殿の北面がよく見えました。二階建ての上層部分の造りも、寺の客殿のそれにしてはあまり他にみない形です。城郭御殿のような広い柱間と大きな扉口が印象的でした。扉口は下4分の3ほどが近年の雨戸で覆われていました。

 

 しばらく見ていたU氏が「あの二階部分もさあ、もとは一階だったんじゃないかな、屋根が半分カットされてるだろ、そのカット部分の主屋を二階に上げて改造したんじゃないかな・・・」と腕組みをしつつ言いました。その発想はありませんでしたので、あ、なるほど、と思いました。その可能性もあるかもな、と考えました。

 いずれにせよ、寺が非公開で話も伺えない状態ですから、これ以上の推測は無理でした。移築伝承を裏付ける証拠、たとえば古文書があるのかどうかも分かりません。寺の建物は文化財指定を受けていませんから、その方面での報告書も無いと思います。
 なので、この正行院客殿が伏見城からの移築建築であるかどうかは、現時点では可能性の問題にしかなりません。

 かくしてこの日の巡礼は終了となり、続きは明日、ということになりました。とりあえず京都駅あたりで夕食で何か食べよう、ということで、そちらへ向かったのでした。  (続く)

 

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伏見城の面影23 養源院客殿

2024年09月19日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 客殿(本堂)に入る前に、上図の中門および番所、築地の構えを見に行きました。養源院の正門にあたりますが、普段は閉じられていて一般の拝観順路からも外れています。本堂とともに国の重要文化財になっている建物群ですので、U氏が「折角だからちょっと見ていこう」と見に行きました。私も後に続きました。

 

 寺院の正門には有り得ない番所が付く点も、徳川家の全面支援による建設の一端を示しています。現存の伽藍は元和七年(1621)の再建ですが、その発願は二代将軍徳川秀忠正室の祟源院(お江)なので、江戸幕府の公的造営ではなかったものの、幕府の直営事業として位置づけられたようです。

 そのためか、上図の中門や番所は当時の最高格式の建築として建てられており、寺院というより城郭の門や番所に近い雰囲気に仕上がっています。移築の痕跡は一切見えませんので、ここで元和七年に新造された建物であるようです。

 

 現存の建築群の建設が江戸幕府の直営事業であったことは、事業の責任者の顔ぶれを見れば分かります。養源院の正式記録である天明六年(1786)の「由緒書」には、事業の担当者として「御奉行 佐久間河内守殿、御見分 土井大炊守殿 板倉伊賀守殿」とあり、当時のトップクラスの普請事業担当者ばかりであることが知られます。

 まず、普請奉行の佐久間河内守実勝(さねかつ)は、元は豊臣秀吉の小姓でしたが、後に徳川家康から家光までの三代に仕え、慶長十四年(1609)に名古屋城築城の普請奉行を務めました。さらに寛永九年(1632)には幕府の作事奉行となっています。現代で言えば建設関係のトップにあたりますが、茶人としても知られ、宗可流の開祖にあたります。

 御見分役の土井大炊守利勝(としかつ)は、徳川家康の母方の従弟にあたり、徳川秀忠政権においては老中職にあって絶大な権勢を誇りました。徳川秀忠正室の祟徳院の再建発願を容れて事業を実質的に推進せしめた人物であろうとされていますが、当時はずっと江戸詰めでしたから、養源院再興の現場には直接的には関与していなかったようです。

 したがって、もう一人の御見分役の板倉伊賀守勝重(かつしげ)が実質的に担当していたものとみられます。徳川家康から家光までの三代に仕え、慶長六年(1601)より京都所司代を勤めていました。元和五年(1619)に京都所司代職を子の重宗(しげむね)に譲って引退していましたから、養源院再興の時点では隠居の身分でしたが、それでも幕命により御見分役を務めたようです。元和九年(1623)に従四位下に叙せられて侍従に任ぜられたのは、その功績によったのかもしれません。

 

 したがって、現存の客殿(本堂)以下の建立には、土井大炊守利勝が実質上の実行委員長として采配を振るい、普請奉行を佐久間河内守が、御見分役を板倉伊賀守勝重が務めた、という構図で理解して良いでしょう。当時の幕閣の重要なメンバーが並んでいますから、養源院の再建事業というのは、そのへんの有力寺社の再建工事とは格も中身も違っていたのだろう、と言えそうです。

 

 なので、客殿が伏見城からの移築であるとされるのも、何らかの根拠があってのことだろうと思います。既に江戸期の寛政十一年(1799)の「都林泉名勝図絵」(江戸後期の京都の寺社の名庭園を網羅したガイドブック)の養源院の項に「当院の客殿書院は伏見城の館舎を此処に引移すなり」とあり、一般的にも知られていたようです。

 そうなると、伏見城のどの時期の建物が移築されたのか、という問題が出てきますが、豊臣期までの伏見城は伏見城合戦で西軍に攻められて全ての建物が焼かれたことが史料にも記されるため、その建物を移築することは有り得ないと考えられます。
 したがって、その後に徳川氏が再建した伏見城の建物が候補となります。徳川家康が慶長六年(1601)から再建し、元和五年(1620)に廃城が決定して翌年から破却が始まり、元和九年(1623)の時点で本丸書院以外の全ての建物が解体撤去されています。元和七年の養源院再建は、伏見城の破却が進められている時期にあたりますので、解体撤去された建物を転用するというのは可能だったわけです。

 なので、養源院の客殿が伏見城からの移築であるとするならば、それは元和五年(1620)から破却が始まった徳川期伏見城の建物であった可能性が強くなります。

 

 上図は、中門を見た後で客殿の車寄の南側に回って、立ち入り禁止区域の外から見た護摩堂です。通常は非公開なので、近くまで寄ることも出来ません。

 

 護摩堂は、崇源院の五女(末娘)にあたる徳川和子(とくがわまさこ)こと東福門院(とうふくもんいん・後水尾天皇の皇后)が宮中の祈願所として併設したもので、国の重要文化財に指定されています。

 

 U氏が「いよいよ入りますかね」と言い、私も頷いて上図の車寄(くるまよせ)つまり玄関口から内部に進みました。

 

 車寄の内部です。本堂客殿との取り合い部分の構造がシンプルなので、最初から客殿とワンセットで造られていることが伺えます。つまり、客殿と同じく車寄も伏見城からの移築である可能性が考えられます。

 外見は、屋根を入母屋、妻入りとして正面中央に軒唐破風を付けますが、この形式は二条城二の丸御殿の車寄、名古屋城本丸御殿の車寄、などと共通しています。いずれも江戸幕府黎明期の主要御殿建築の車寄として評価出来るでしょう。

 

 私たちが入った時、車寄から客殿南側へ観光ツアーの団体が案内人に連れられてひしめいていましたので、U氏が反対側の北側への出入口を指差して「あっちから見よう」と言い、国重要文化財の俵屋宗達の杉戸絵を横目に見つつ入っていきました。

 上図はその北側から入ったところの、客殿西側の広縁と下間の並びの杉戸引違です。左端は落縁で、雨戸と障子が落縁の外側に付けられているのが分かります。この形式は古いもので、江戸期の書院建築では類例が稀です。私の知る限りでは、知恩院大方丈ぐらいです。
 なお、奥の杉戸が開放されている部分が下間の奥室で、寺では「牡丹の間」と呼び、秀吉の学問所であったと伝えています。

 

 その「牡丹の間」を見ました。中央に地蔵菩薩像が祀られ、奥の襖には牡丹図が描かれています。狩野山楽の筆とされます。

 

 観光ツアーの団体が北側に移動してきたので、入れ替わるようにして南側へ回りました。上図は南の広縁と三つの前室です。左の白い襖の部分が下間前室、その右奥の開かれた両折桟唐戸の部分が室中前室「松ノ間」、奥の杉戸が外されて開放されている部分が上間前室にあたります。

 上間は明治期に聖天堂に改められていて撮影禁止でしたので、その内部構造を撮れませんでしたが、一見して城郭御殿の上段の間に相当する格式の高い空間であることが分かりました。その奥室にのみ、床と棚と付書院の正規座敷飾り三点セットがみられ、上段部分の天井は最高格式の折上小組格天井となっています。

 こうした空間は、本来は高位の人物が御成りになる部屋であり、想定される人物は、徳川将軍家かその関係者、ということになります。徳川期伏見城の客殿であったのならば、当然ながら将軍家、養源院客殿においては願主の祟源院および娘の東福門院、ということになるでしょう。

 U氏が得意の身体尺による計測法で客殿の柱間寸法を測っていたので、どのくらいかと訊ねると「両側の室の寸法は16尺20寸ぐらい、中央の室中は22尺70寸・・いや75寸に近いかな」と答えました。それらを6.5という数値で割ると、両側の室の算出値は2.5、室中のそれは3.5という数値に近くなります。やっぱりな、と納得しました。

 実は、6.5というのは6.5尺のことで、室町戦国期までの柱割制の基本単位のひとつです。6.5尺を基本にして寺社の柱間寸法を決めるやり方で、建物の規模に応じて2倍、2.5倍、3倍、3.5倍と乗算して柱間を決める方式です。江戸期になると書院建築の寸法は柱割制から畳を基本単位とする畳制に移行しましたから、養源院客殿の平面規模は室町戦国期までの柱割制を踏襲していることが分かります。戦国期末期に建てられた伏見城の建物であれば、間違いなく柱割制で設計されているはずなので、この点でも移築伝承は本物である可能性が示唆されます。

 

 退出後に、しばらく玄関前の枝垂れ桜を眺めました。養源院本堂の客殿は、いまでは数少ない江戸初期の書院建築の遺構であり、色々と興味深い様相が見られて楽しめました。どう見ても考えても、客殿は伏見城からの移築であるという伝承は本物だろう、という意見にU氏も私も落ち着きました。面白かったな、と言い合いました。

 ですが、京都府や京都市の文化財調査報告書類ではこの種の移築伝承を、単なる言い伝えとするにとどめるか、または無視して顧みない傾向があるようです。
 そのために、実は本物の旧伏見城建築である可能性が高いのに、全然気付かれていなかったり、違う評価を下されて誤解されたまま、というケースがあるのだろうと思います。伝承軽視という、戦後の歴史学の悪弊は、令和になっても残り続けるのでしょうか。  (続く)

 

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伏見城の面影22 養源院へ

2024年09月14日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 長楽寺を辞して、その山門の南隣の通用門から上図の大谷祖廟(おおたにそびょう)の境内地を通りました。大谷祖廟は、真宗大谷派本山の真宗本廟(東本願寺)が所有する墓地で、浄土真宗の宗祖である親鸞の墓所です。浄土真宗では親鸞の墓所を「御廟」と呼び、大谷祖廟一帯を「東大谷」と呼ぶそうです。

 

 大谷祖廟の広い境内地と長い参道を西へと下りました。この広大なエリアももとは長楽寺の境内地であったそうですが、延享二年(1745)に、江戸幕府が1万坪の境内地を没収し、これを大谷祖廟に寄進したことにより、現在の状況になったということです。

 

 それから祇園のバス停へ行って市バス206系統に乗り、博物館三十三間堂前で下車し、三十三間堂の東の道を南下して上図の養源院南門前に着きました。

 

 門前には上図の巨大な「血天井」の立札が建っています。
 U氏が「こういうの、遊園地のお化け屋敷の看板みたいな俗っぽい感じでダメだな、血天井見たいか?見たいなら入って来い、て誘ってる安っぽさがダメだな、な、思うだろ・・・」と話していました。

 

 こちらは養源院の正式な説明文。伏見城の遺構を用いて再建された、とあり、何らかの史料もしくは関連資料が伝わっているのかもしれません。U氏も「ここの建物は徳川家の全面支援で再建してるから、伏見城の遺構ってのも本物なんだろうねえ」と期待感を示していました。

 

 養源院は、豊臣秀吉の側室であった淀殿が、父の浅井長政の追善を願って、長政の二十一回忌にあたる文禄三年(1594)に建立し、長政の戒名の養源院をもって寺号としたのに始まります。

 その後、元和五年(1619)に落雷で焼失しましたが、二年後の元和七年(1621)に淀殿の妹で二代将軍徳川秀忠公正室の崇源院(お江)が再建を切望、徳川家の菩提所として歴代将軍の位牌をまつる寺院として再出発しました。
 現在の寺観は再建以来のもので、平成二十八年に本堂(客殿)、護摩堂、中門、鐘楼堂、南門の5棟が国の重要文化財に指定されています。そのうちの本堂(客殿)は旧伏見城の遺構を用いて再建されたといい、伏見城の戦いで鳥居元忠以下が自刃したの廊下の板の間を供養のために天井となしています。

 南門からは緩やかな登りの石畳参道が、あおあおと空をも覆う若葉の下を本堂式台まで続いていました。

 

 本堂式台の前庭には、桜が咲いていました。U氏が「うん、いい景色だ。徳川葵の御紋も見えるし、まさに徳川家の聖域のひとつ、って雰囲気だな」と満足げに呟きました。水戸藩28万4千石の末裔ですから、江戸幕府黎明期の姿を伝える養源院の歴史的空間に感動しているようでした。

 

 「で、あれが本堂の客殿か。旧伏見城の建物か。なかなか立派な屋根の妻飾りだな」
 「そうやな」
 「周りの木が大きく育ってるので、建物の全容がいまいち見えないな」
 「そうやな」

 

 そこで式台に向かって左側の、あまり見学客が行かない場所へ回ってみました。寺務所が奥にあるのか、関係者の車らしいのが数台停めてありました。
 そこからは、客殿とその北に伸びる部分がよく見えました。

 

 縁側の下に近寄ってみました。高い柱、深い軒先、客殿の北側は屋根が一段低くて扉も蔀戸とし、客殿部分の板戸障子との区別が図られています。書院造の客殿とそれに繋がる副殿の典型的な外観が示されています。寺院の客殿はもっと屋根が低くて間口も狭いのが普通なので、この建築は寺院よりも寸法を大きくとる御殿建築の典型的な様相を伝えていると言う事が出来ます。

 

 客殿の主屋部分の外観です。周縁が無く、戸口を障子戸で統一する点は、慶長八年(1603)に徳川家が築造した二条城の二の丸御殿の大広間や黒書院と共通しますが、雨戸が付く点や長押の上の壁を板張りとする点は古式です。

 なので、徳川期再建伏見城の建物を移築したものであれば、その建設時期が慶長六年から慶長七年まででありますから、現存の二条城御殿とは一年しか違わない、ほぼ同時期の建物であることになります。

 

 したがって、この養源院本堂が正しく旧伏見城建築であるかどうかは、二条城御殿を参考にして比較すれば分かると思います。見ればみるほど、よく似ています。相違点を探すほうが難しいです。同時期に徳川家が建設した御殿建築ですから、似ていて当たり前だと思います。

 

 ですが、上図の花頭窓(かとうまど)の古そうな枠が外された状態で縁の下に置かれているのには、ちょっと違和感を覚えました。U氏も同じように頭を傾げていて、「これもかつての建築の部材なのかね?」と言いました。

「こういう花頭窓って、城郭の御殿や客殿には付いてるものなのかね?」
「うーん、現存してる掛川、川越、高知の御殿には無かったと思うな。二条城の二の丸御殿にも無かったと思うが」
「だよな、寺院の書院になら付くだろうけど、ここの本堂はもとは城郭御殿だからな、本来は無かったんじゃないかな。この枠はどこかで後世に追加したものを、修理工事の時に撤去したんと違うかね?報告書とかも出てるんじゃないのか?」

 U氏の推測は当たっているかもしれません。養源院本堂は、昭和六十一年(1986)に京都府指定文化財に指定されており、その建造物群に関する報告書が平成二十七年に京都伝統建築技術協会より刊行されています。機会があれば、その報告書を読んでみたいものです。  (続く)

 

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伏見城の面影21 長楽寺後山墓地

2024年09月09日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 長楽寺仏殿と建礼門院塔を見た後は、上図の文化財収蔵庫に入って国重要文化財の木造時宗祖師像七躯を見学しました。時宗の開祖としても有名な智真(一遍)の立像も安置されています。室町期の応永二十七年(1420)2月に慶派仏師の康秀が製作した旨の銘文があることで知られます。あとの六躯も同じ室町期に相次いで製作されており、おそらくは七躯をセットで順番に造立していったものともられます。

 

 その後、U氏がいう「水戸藩28万4千石の赫奕たる歴々の勇士たちの鎮まる聖域」へ向かいました。長楽寺の裏山に位置して一般的には後山墓地と呼ばれますが、U氏は正式名称の「尊攘苑」のほうで通していました。

 

 5分ほど山道を登ると、上図の「尊攘苑」入口に着きました。道が二手に分かれて下段の墓地と階段の上の墓地へと通じていました。

 

 入口脇に立つ墓地の全体図です。かなりの規模であることが分かります。私は思わずU氏に問いかけました。

「この墓地全体が、水戸藩関連の墓地になってるのか?」
「いや、正確には三割ぐらい、かな。あとの七割ぐらいは寺の檀家や信者の墓だな」

 

 墓地全体図の右下に25人の氏名が列記されています。私は再び問いかけました。

「1番の高城都雀、2番の能勢春臣、ってのも水戸藩のゆかりの人なのかね?」
「いや、違うと思う。聞いた事ないからな・・・。寺の檀家や信者のほうじゃないかな・・・」

 後日調べてみたら、高城都雀(たかぎとじゃく)は江戸期の俳人、能勢春臣(のせはるおみ)は幕末の歌人で古筆刀剣の鑑定も行った文化人、であり、いずれも水戸藩とは関連が無さそうでした。

 

 下段の墓地の中央辺りに、ひときわ大きくて目立つ頼山陽(らいさんよう)の墓碑がありました。江戸期の歴史家および思想家として有名で、主著の「日本外史」は幕末から明治にかけて広く読まれ、尊王倒幕の志士にも影響を与えたとされています。
 U氏によれば、水戸藩でも「日本外史」はかなり知られたようで、水戸光圀が始めた「大日本史」と共に参考書として読まれたそうです。

 

 下段の墓地を一周してから上段の墓地への階段を登りました。その後に上図の石碑を見ました。碑の上部に「尊攘」の太字が刻まれていることから、尊攘碑と呼ばれます。

 

 傍らの説明板。

 

 その左隣には、水戸藩兵留名碑がありました。U氏が姿勢を正して恭しく一礼しましたので、氏の言う「赫奕たる歴々の勇士たち」の顕彰碑なのだろうな、と察してこちらも頭を下げました。

 

 水戸藩兵留名碑の説明板。

 

 上段の墓地の最高所には、上図の徳川余四麿昭訓の墓所がありますが、私たちが訪れた時には墓石の改修工事中で、墓碑が一時撤去されていました。

 U氏は最初、墓石が無くなっているので驚き、動揺し、左右を見回して頭を抱え、「しゃっ、一大事である、昭訓公の墓石が無くなってる、これは何としたことか」と騒いでいましたが、参道手前にある「改修工事につき・・」の貼り紙を見つけて「なんと・・・」と安堵の声を発していました。

 

 徳川余四麿昭訓の墓所の説明板。兄の水戸藩主徳川慶篤を支えて上京し京都御所の守衛や海防の任務に努めましたが、僅か十六歳にて病没、弟の昭武公が跡を継いで最後の水戸藩主となったことが分かります。

 

 U氏と並んで場所に一礼しました。

 

 それから、登ってきた山道を引き返して下り、仏殿の背後へ回りました。来た道とは反対側のルートでしたが、こちらが後山墓地への正規の参拝路であるそうです。

 

 長楽寺仏殿の横から出て南へと回りました。

 

 かくして長楽寺においては、その仏殿が、伝承にいう旧伏見城建築とは無関係で、旧地の正伝寺にて江戸期に新造された建物であったことを確認出来ました。

 旧伏見城からの移築建築と伝える建物は、京都市内だけでもあちこちにありますが、それらが本物なのか違うのかをこれまで誰も考察、検証していません。ネット上でも、伝承をうのみにして列挙している記事が殆どで、建築や遺構をきちんと見学して考証している方は、これまで見かけたことがありません。

 それで二年前、2022年の4月にU氏が「そういう伏見城移築の建物を回って記事にしたらどうかな、単なる伝承の建物は外して、確かな建物だけをリストアップして順に紹介したら面白いんじゃないかな」と言い出し(当時のレポートはこちら)、「君がやってみたらいいじゃないか」と私にけしかけて以来、今回で四度目を数える旧伏見城移築建築巡りが続いているわけですが、いざ回ってみますと、面白くて興味深い学びや気づきが豊富に得られます。京都の歴史散策の新たなステージ、フィールドが広がってゆくのを実感させられます。  (続く)

 

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伏見城の面影20 長楽寺仏殿

2024年09月04日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 長楽寺の表門をくぐり、境内に入りました。山裾の傾斜地に寺域があるため、参道はほとんど階段となっています。その左右に客殿、庫裏、拝観所、受付などの建物が並びますが、左手の庫裏と拝観所と受付はリニューアル工事のため解体されていて、右手の客殿に臨時の受付が設けられていました。

 

 臨時の受付へ行く手前の左手に置いてあった手水鉢の石盤。大正の頃に当時の住職夫妻が設置したもので、表面には富岡鉄斎の書が彫られています。

 

 その説明板。例によって真剣に三度読みするU氏でした。その背中に向かって問いかけました。

「水戸の、ここには何度も来てるんやろ?この説明文もよく知ってるんじゃないのかね?」
「いや、これは初めて見るんだ。前回は五年ぐらい前に来たんだけどさ、そのときはこの説明文は無かったんだよ」
「そうなのか」
「この手水石盤も、もとは別の場所にあったような気がするんだけどな・・・」

 

 首を傾げつつも、石盤に彫られた書を一字一字、声を発しないで口だけを動かして暗読するU氏でした。

 

 それから臨時受付に行って拝観料を支払い、参道から上図の仏殿を見上げました。
 受付に住職が居られたので、U氏が「西賀茂の正伝寺からこちらに移築されたという仏殿を拝見したく参りました」と挨拶し、「ああ、正伝寺ね・・・、その仏殿はあれですよ」と指さして教えられた際に、「もとは伏見城から移築した建物だと聞きましたが」と尋ねました。住職はなぜか苦笑気味に「まあ、そういうことになっとりますがね、建物はその後に建て直されてますんでね・・・」と応じられました。私たちは思わず顔を見合わせました。

 

 とりあえず仏殿に行こう、と階段を登りました。仏殿の全容が木立の間に表れてくるにつれ、U氏が私を振り返りました。
「右京大夫、どう見ても典型的な禅宗様の仏殿にみえるが」
「うん、同感や」
「俺はここに三度来てるんだけどさ、今回で四度目か・・・、この仏殿が伏見城からの移築と聞いてちょっとびっくりしたんだよ、だってそんなふうな建物には見えなかったしな、今改めて見ても、伏見城移築には見えない」
「うん、御住職も、建て直されてます、言うてはったな・・・」

 

 その「建て直されてます」の意味が、仏殿の前に立てられた上図の説明文によって明らかになりました。要約すると、この仏殿の建物は正伝寺にて江戸期の寛文六年(1666)に造営されたのを、明治二十三年(1890)に現在地へ移築したもの、ということです。つまりは江戸期に新造された建築であったわけです。

 これによって、伏見城からの移築とする伝承は、ただの誤伝に過ぎない事が判明しました。伏見城から南禅寺金地院を経由して正伝寺に移されたと伝わる御成殿と御前殿の二つの建物のうち、本堂の方丈に転用された御成殿のほうは現在も残っていますが、御前殿を転用した法堂は、何らかの事情によって江戸期の寛文六年に新たに建て直された、ということになります。
 それを明治期に正伝寺が長楽寺に譲渡して、いまに至っているわけです。

 

 かくして、伏見城からの移築建築ではないことが判明した、長楽寺の仏殿です。U氏が納得したように言いました。
「そもそも城郭の建物をお寺の仏堂に転用するってのがさ、ちょっと無理があったんと違うかね?城郭と寺院じゃ建物の造りがまるで違うしな・・・、客殿は書院造りだから、書院造りも入ってる方丈の建物には転用出来るだろうけど、御前殿ってのは要するに玄関口の建物だろ、そんなのをどうやって仏殿に使えるんだろう、って思うな」

 そういうことやな、と私も頷きました。江戸期に正式な禅宗様の仏殿を新築して置き換えたのも、色々と仏殿に似つかわしくない構造と外見であったからかもしれません。
 または、単に老朽化したため、という可能性もあります。慶長年間の伏見城の建物であったとすれば、寛文六年の時点では六十年余りを経ていることになるからです。

 

 正面はもちろん、側面を見ても典型的な禅宗様の裳階付き仏殿です。城郭建築の要素は全くありませんでした。

「ちょっと残念だったな・・・」
「いや、意味は大きい。旧伏見城建築でないことが確定したんやから・・・」
「なるほど、有るのを確かめるのと同じく、無いのを確かめるのも重要、ってわけだな、うん」

 

 それで仏殿の見学は終わりとなり、左隣に建つ上図の十三重石塔の前に降りました。寺では「建礼門院御塔」と伝えています。 建礼門院平徳子は平家滅亡後にここ長楽寺で出家したといい、その縁で遺髪が埋められているとされています。

 

 「建礼門院御塔」の前から仏殿を見ました。境内地の平坦面がそんなに広くないので、仏殿と「建礼門院御塔」は窮屈なほどに隣接しています。かつての長楽寺は広大な境内地を誇り、現在の円山公園の大部分や真宗の大谷祖廟(東大谷)の大半の境内地が含まれていたといいますから、相当な規模でした。現在の境内地は、もとは山麓の奥之院であった地域だそうです。

 

 かつての奥之院であったことは、上図の遊行滝の施設があることからも伺えます。かつての時宗の行者たちの修業の場であったのでしょう。

 

 「建礼門院御塔」の斜め向かいの参道脇に上図の長澤芦雪(ながさわろせつ)の供養碑とみられる石碑がありました。他にも色々な人の碑が建っていますが、U氏は小声で「芦雪を殺す・・・」と言いながらこの石碑に近寄り、一礼しました。

 「芦雪を殺す」とは周知のように司馬遼太郎が長澤芦雪を主人公として描いた歴史小説の題です。私も文庫本「最後の伊賀者」を持っていたので、それに収録されている「芦雪を殺す」も何度か読みましたが、ああいう破天荒な画家であったのかな、という疑問は少なからずあります。若くして夭折しているためか、暗殺されたという伝承がやたらに流布しているようですが、それも本当かな、と思います。

 

 石碑の横に立てられていた説明文です。列挙されている障壁画作品の幾つかは実際に拝見したことがありますが、なかでも印象に残っているのは、和歌山県東牟婁郡串本町の無量寺の「虎図」および「唐子琴棋書画図」(国重要文化財)です。あと、説明文にはありませんでしたが、兵庫県美方郡香美町の大乗寺の「群猿図」(国重要文化財)も素晴らしいものでした。  (続く)

 

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伏見城の面影19 長楽寺へ

2024年08月30日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 2024年4月8日の夕方、水戸の友人U氏から電話がありました。
「右京大夫、京の桜は咲き始めた?」
「ああ」
「では、今度の土日に一泊二日で行く」
「合流場所は?」
「地下鉄東山駅の出入口に8時」
「承知」

 かくして4月13日の朝、いつもの祇園四条のカプセルホテルに前泊してバスで東山三条までやってきたU氏と、上図の地下鉄東山駅前で合流しました。2月に続いて三度目の旧伏見城移築建築巡りがスタートしました。

 

 東山駅前から三条通を少し東へ進み、U氏が「ちょっと路地裏歩きがしたいね」というので上図の五軒町の路地道を歩いてやや遠回りし、神宮道へと向かいました。

 

 神宮道に出て右折し、ゆるやかな登り坂をたどっていくと、左手に上図の青蓮院門跡の表門が見えました。

「あの泰然とした、雅な佇まいはいつ見ても変わらんなあ、かつては内紛とかゴタゴタだらけだったのが嘘みたいだなあ」
「水戸の、その内紛やゴタゴタってのは、左翼や総評(日本労働組合総評議会)のスト騒動や中核派の放火事件のことかね?」
「それもあるが、一番大きかったのは先の門主が世襲制を入れようとして天台宗と揉めた件だな。天台宗は住職の世襲を認めてなかったからな・・・。次いで多数の文化財が青蓮院の所有から離れてる件があるが、これも先の門主のときだったんで、どういう経緯があったのかと国会でも問題になってたよ」
「ふーん、そんなことがあったんか、先の門主ってヤバイ人物だったのかね?」
「なんだ、星野が知らんのは意外だな・・・、ヤバかったのは間違いないが、旧皇族だぞ。香淳皇后の弟だからな」
「えっ」
「だから、いまの上皇陛下は甥、今上陛下は大甥にあたられる」
「・・・香淳皇后の弟、ていうと、久邇宮(くにのみや)家やな、それが青蓮院の先の門主やったのか・・・」
「そう、久邇宮家の三男で、東伏見宮家に入って、戦後に青蓮院門主になってる。東伏見慈洽(ひがしふしみじごう)を名乗ってるけれど、あれもおかしいんだよな。皇室典範じゃ皇族の養子は認めてなかったし、宮内省も認めてなかったのに、臣籍降下で華族になって改めて「東伏見」の苗字を賜ったということになってる」
「ふーん、それが世襲制を入れようとして天台宗と揉めたってのは、自分の子に青蓮院門主を継がせようとしたわけか」
「そう、現にそうなってる。旧皇族の権威に天台宗が屈服させられてな、いまの門主は息子の東伏見慈晃(ひがしふしみじこう)だし、今度はその長男が次の門主になるらしい」
「ふーん、そうやったのか、天台宗の名門青蓮院が東伏見の一族に完全に乗っ取られた感じになるわけか・・・」
「そういうことだ。伝統ある由緒正しき名刹の歴史も、住職に誰がなるかで左右されちゃうわけ。旧皇族であったとしても、天台宗の三門跡寺院の格式にふさわしい人物かどうかとなれば、また別の問題だよな・・・」

 

 話しながら歩いているうちに、知恩院の裏門にあたる上図の黒門の前を通りました。

「この門を細かく見ていたのも、もう二年前になったか」(当時のレポートはこちら
「月日の経つのは早いもんやな。僕も京都に凱旋移住してからもう五年が過ぎた」
「そうか。で、あの門は、豊臣秀吉期の木幡山伏見城の城下町の門の建築遺構、という可能性で考えていいんだよな」
「ああ」
「それにしても不思議だよな。いま現存してる旧伏見城の建物ってさ、殆どが徳川家に関連する寺社に残ってるんだよな。徳川家の伏見城の建物ならともかく、豊臣期の建物なんて破壊しちゃいそうなもんなのにな」
「そうやな。徳川政権が豊臣政権の次に国政を預かる事を明白にならしめる意味で、前政権の遺品をまとめて管理するという意味合いもあったかもしれん。全てを破壊していなかったところをみると、良い建物は良いと認めて後世に残そうととする配慮はあったのかもな」
「なるほど、そういうことかもしれんな・・・」

 

 やがて上図の知恩院の三門の前を過ぎました。

「やっぱり京都の徳川家の菩提寺だけのことはあるねえ、建物も敷地の石垣の構えも、見る者を圧倒してくるような規模で意図的に造られてる気がするな」
「そりゃそうやろう、德川家は京都に二条城を構えてるけど、二条城は実質的には御殿とか迎賓館クラスの施設なんで、あれだけでは有事の際に拠点として使えない。だいいち、囲まれたら終わりや。やっぱり、防御戦に有利な山を抱える場所とか、堅固な要塞みたいな丘上の寺院でないと軍事作戦が有利に展開出来ないからな」
「うん、そういうことだな」

 

 知恩院の南門をくぐって、円山公園に入りました。

 

 円山公園の奥の高所に立つ、上図の坂本竜馬および中岡慎太郎の銅像。

「この歴史人物の片方、坂本竜馬はさ、最近の研究によって色々と史観が変わりつつあるようだな。司馬遼太郎の小説のイメージが定着しすぎて超有名人になってしまったため、史実とはかけ離れてしまってたのが是正されつつあるのかも」
「それはあるな。でもこの二人を揃えて幕末維新の二偉人とするのは、そんなに間違ってないと思うな」
「それ、筑前福岡藩の早川養敬の証言だったかな、坂本龍馬は青写真が秀逸だったけれど、中岡慎太郎を語らずしてそれは成り立たず、とかな」
「うん、そう。薩長和解の斡旋かて竜馬の功績みたいに言われてるけど、あれも慎太郎の内助の功というか、水面下での働きがすごく影響してるはずやね」
「それは竜馬本人も認めてるもんな。ええと、手紙だったっけ、確か「「我中岡と事を謀る往々論旨相協はざるを憂う。然れども之と謀らざれば、また他に謀るべきものなし」って書いてるよな」
「ええコンビやったと思うで。当時の人々もそう捉えていたやろうし」
「だから、敵対勢力から見たら最大のターゲットになるわけだな。二人揃ってるところを襲撃して暗殺してるのは、ちょっと話がうますぎるよなあ」
「当時もそういうふうに言われてたみたいやけど、よくピンポイントで暗殺出来たもんやな・・・」
「そりゃ実行犯がそれだけ優秀だったわけだろ。諸説あるけど、京都見廻組の可能性が高いというのも納得出来るな」
「新撰組は関与してなかったんかね?」
「どうだろうなあ、あっちは所詮私兵の集まりだ。京都見廻組は幕府の一種の警察組織だから情報収集能力も組織のパワーで綿密に抜かりなくやる筈。攘夷運動の2トップを一挙にやる、ってのも組織の合理的思考からくる作戦だったんだろうな」
「なるほど・・・」

 

 色々と話しているうちに、最初の目的地である長楽寺の参道に着きました。前回の京都巡りにてU氏が「次に行こうぜ」とリクエストしていた時宗の古刹です。

 

 参道入り口の右脇に立つ案内板です。この種の案内板の前でU氏は必ず立ち止まり、真剣な目つきで三度読みます。内容的に正しいかどうかの判断はいったん横に置いて、まずは書かれてある情報を仕入れておく、というスタンスです。

 

 それから参道を登って上図の山門の前に至り、二人で並んで一礼しました。その後にU氏が門の右側の立札を指差しましたので、つられて視線を向けました。

 

 U氏が指差した立札です。

「お、寺の後山に水戸藩士の墓地がある、と話していたんはこれのことか・・・」
「さよう、われらが水戸藩28万4千石の、赫奕たる歴々の勇士が静かに眠る清浄の聖地である」
 わざと低い声音で重々しく答えるU氏でした。

 

 それから山門をくぐりました。

 

 この時期、春季特別展が「建礼門院秘宝展」と題して開かれていました。そのためか、拝観料が追加されて千円になっていました。

「なんと、千円も取るとはこれ如何に。水戸藩28万4千石の光輝なる尊王精神を何と心得ておるのか・・・」
 今度は声高に周囲に聞こえるように誰も居ない境内に言い、憤慨するU氏でした。  (続く)

 

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嵯峨野観光鉄道に行きました 下

2024年08月26日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 11時2分発のトロッコ列車の案内アナウンスが流れたので改札口に行きました。嫁さんが係員にスマホの予約画面を提示すると、改札口前に列が5つ出来ているうちの中央、3列目に案内されました。我々の乗る車輌が3号車だからでした。

 トロッコ列車は客車が5輌あって、1号車から5号車まであります。席は全部が予約制なので、あらかじめオンラインまたは窓口で購入します。乗車前にホームへ案内されますが、列ごとに順番にホームの指定位置へと誘導されます。

 

 ホームのすぐ隣がJR山陰線つまり嵯峨野線の駅でした。山陰線の新旧の線路の位置関係がよく分かります。嵯峨野観光鉄道の路線は、旧山陰線の線路を活用していますが、駅を出てすぐの箇所で、現山陰線の一部を通ります。

 

 10時57分、トロッコ列車がホームに近づいてきました。後ろに並んでいた嫁さんが小声で「わー」と言い、私の背中を軽くつついて、良いアングルの写真撮ってね、と催促してきました。言われるまでもなく、既に私のデジカメは連写モードに入っていました。

 

 ホームに入ってきた列車の先頭はディーゼル機関車のDE-10形でした。「嵯峨野」のエンブレムが渋い感じでした。嫁さんが「あれと同じ機関車が梅小路機関区にもあるんですよ、予備機だとか聞きました」と後ろで言いました。

 なるほど、予備機があるのか、この嵯峨野観光鉄道が西日本旅客鉄道(JR西日本)の完全子会社である関係で、車輌はJR西日本の車輌でも使用出来るようになっているわけか、と理解しました。

 

 私たちが乗った客車3号車の車内です。SK100形といい、JR西日本から譲受したトキ25000形貨車の改造車であるそうです。貨車を客車に改造して観光列車用に供している点は、大井川鐡道井川線の客車と同じでした。が、こちらは客席が木製でクッションが全くありませんので、嫁さんが「痛くならないかなあ」と不安げに話していました。

 

 そしてトロッコ亀岡駅までの全線を往復で乗り、トロッコ嵯峨駅に戻ってきたのが11時56分でした。途中の保津渓谷の景色は嫁さんがスマホとタブレットでドンドン撮っていましたので、私がデジカメで撮ったのは上図の1枚だけでした。

 

 11時56分にトロッコ嵯峨駅に戻って下車した直後に、ディーゼル機関車のDE-10形の横を通って改札口へ行くので、横から機関車を何枚か撮りました。

 

 ディーゼル機関車のDE-10形です。こんな近くで撮るのは初めてでした。

 

 「嵯峨野」のエンブレム。1991年つまり平成3年の開業であることが分かります。

 

 製造元の日本車輌の銘板。昭和46年といえば、私は5歳で、当時の父は日本車輌の技術者で名古屋製作所に勤務していたと記録にあります。当時の名古屋製作所では機関車の製造を行なっていたそうですから、このDE-10形1104号機の製造に父も関わっていたのかもしれません。

 

 その父は既に故人となりましたが、その勤務現場で製造されたDE-10形1104号機は、いまも現役です。

 

 嫁さんが「ね、あれもスロープロウですか?」と小声で訊いてきました。そうだよ、と頷いておきました。

 

 改札口のすぐ手前に、このDE-10形1104号機の先頭が位置していましたが、明らかに観光客へのサービスのためでしょう。大抵の乗客はこの機関車を撮ったり記念撮影したりするので、撮り易い位置に停めているのだと思います。

 嫁さんが「これのNゲージ欲しいなあ」と言うので、君はDE-10形を持ってるやないか、と返したら「え?持ってましたっけ?」と首を傾げつつ、改札口を通っていきました。
 去年の夏に初めてNゲージの線路買いに河原町のポチへ行ったやろ、あのとき川さんに案内して貰ったやろ、そのときに動力不良の中古機関車を500円ぐらいで買ったろ、と説明すると、「あー、あれですか、茶色の機関車。あれDE-10やったんですか」と思い当った表情になり、「持ってるんなら、買う必要無いですねー」と納得していました。

 

 かくして嵯峨野観光鉄道のトロッコ列車往復を楽しみました。場所が嵐山だけに、これからどうする?と訊きましたが、嫁さんはもう大満足だったようで、「帰りましょう、帰ってランチ食べましょう」と言うのでした。

 

 それでまっすぐJR嵯峨嵐山駅に入ってホームで帰りの列車を待ちました。次のトロッコ列車が発車していくのが見えました。それを見ていた嫁さんが「いま気付いたんですけど、あのトロッコ列車って、あれ1編成だけで他に無いんですね、あの1編成でがんばって毎日往復して運行してるんですねえー」と感心していました。

 嵯峨野観光鉄道の路線は片道7キロちょっとしかありませんから、往復でも15キロ未満で所要時間が1時間未満です。機関車の整備は梅小路機関区で行なっているうえ、予備機もあります。だから平成3年の開業以来の機関車と客車の1編成だけで充分なのでしょう。  (了)

 

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嵯峨野観光鉄道に行きました 中

2024年08月22日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 「ジオラマJAPAN」にてNゲージジオラマを見物した後、隣の上図の「19世紀ホール」に行きました。

 

 館内には蒸気機関車が並んでいました。わあー、黒光りしてるのがカッコいいー、とスマホを向けて撮影し始める嫁さんでした。

 

 向かって右には、C58形48号機。1938年に川崎重工兵庫工場で製造され、広島、大分、山口などで活躍したのち北海道に移り釧路で1974年に廃車となりました。それを大阪の共永興業が引き取って保管していたのを、2001年に嵯峨野駅前に移して展示、2003年の「19世紀ホール」開館にともない、現在の状態に落ち着いています。

 

「するとこの機関車は、山陰線では走ってないんですねえ・・・」
「C58形はローカル線用の客貨兼用の機関車やからね。あと都市部の入換用とかに使われてたらしい。山陰線を走ってたんはC51形やC57形やからね」
「そうなんですかー」

 

「この三角形の刃みたいなの、何ですか?」
「スノープロウやね。除雪用のスカートや。この機関車は北海道で働いていたから雪対策の装備は必須やったんやな」
「蒸気機関車って、雪が高く積もっても力強く押しのけて進みそうですね」
「そういうイメージは確かにあるな、でも豪雪地帯では流石に動けなくなって運休も多かったらしい」

 

「動輪、C57やC62のと比べると小さいですねえ」
「ああ、C58形の動輪はC11形と同じ1520ミリ径やからね、高速運転に適していたし、動きが軽快やったらしい」
「C11って、大井川鐡道で走ってる機関車ですよね?」
「ああ」
「C58は大井川鐡道では走っていなかったんですか?」
「聞いた事ないなあ、天竜浜名湖鉄道の前身の国鉄二俣線では主力機関車だったけどな」
「あ、天浜線のほうで走ってたんですか・・・」
「うん、確か、掛川駅と天竜二俣駅の近くにC58が静態展示されとるよ」

 

 後ろに回って炭水車の背面を見ました。

 

「これ、この前ヤフオクでカトーのNゲージ落札しましたよね、模型も良かったけど、こっちの迫力にはやっぱりかなわないですよね」
「そりゃそうや。こっちは本物なんやからな・・・」

 

 向かって真ん中に位置している、D51形603号機。1941年に日立製作所笠戸工場で製造され、東京、宇都宮、高崎で働いた後、山口、岡山、姫路、敦賀、金沢、福井などで働き、1975年に夕張で最後の運転をなして廃車となりました。
 その後は国立博物館に展示される予定となって追分機関区に保管されていましたが、機関区の火災で炎上し、その後共永興業に引き取られて保管され、2001年に嵯峨野駅前に移されて展示、2003の「19世紀ホール」開館にともない、現在の状態に落ち着いています。

 

 このD51形603号機は、追分機関区での火災で車体の大半が失われたそうで、その後このようにカットモデルとして整備されて保管されていたそうです。蒸気機関車のボイラーの内部構造がよく分かるようになっています。

「D51は山陰線でも走っていたんですね、Nゲージもちゃんと買いましたもん」
「園部や福知山の車両区に配属されてた、いうからね。亀岡駅とかで旅客列車や貨物列車引いてる写真見たよな」
「はい、見ましたね、いずれジオラマ作って再現したいですよね」
「ジオラマって、亀岡駅のか?」
「ええ、でも園部の車両区とかも作ってみたいかなあ、と」

 

 向かって左には、C56形98号機。1937年に日本車輛名古屋工場で製造され、北海道に配属されて活躍したのち、新潟を経て浜田にて1974年に廃車となりました。それを大阪の共永興業が引き取って保管していたのを、2001年に嵯峨野駅前に移して展示、2003年の「19世紀ホール」開館にともない、現在の状態に落ち着いています。

 

「これは山陰線の西の方で走ってたんですよね」
「出雲とか浜田とかね。浜田駅では入換用に活躍してる写真見たな」
「大井川鐡道にもありますよね。最近に兵庫の加東から譲り受けてレストアしてるんですよね」
「うん、クラウドファンディングにも参加したもんな」
「大井川鐡道には、C56は2輌あるんですよね」
「うん、44号機がいまは千頭駅でジェームスに扮してる。レストアしてるんは135号機やな」

 

「小型の機関車なので、ちょっとC11みたいな雰囲気がありますよね」
「C11の準同型車にC12があってな、そのC12をタンク式からテンダー式に設計し直したんがC56や。C11みたいな雰囲気があるのも、部品とかは殆ど共通になってるからやな」
「そうなんですかー」

 

「そういえば、私たちのNゲージにC56ってありましたっけ?」
「まだ買ってないやろ、大井川鐡道の135号機がレストアを完了して営業運転に復帰したらな、記念にカトーかマイクロエースあたりがその姿のNゲージを出すんじゃないかな、て思うので、買うならそっちを買いたいな」
「じゃ、そうして下さい」

 

 そしてD51のカットモデルの後ろには上図のコッペル機関車の「見習機関車」若鷹号があります。1921年にプロイセン王国のオーレンシュタイン・ウント・コッペルで製造され、日本に輸入されて阿波鉄道で活躍、1936年に廃車となって後は国鉄鷹取工場に保管され、改造を受けて現在の姿になりました。
 その後は鷹取工場の教習用に使用され、2000年にトロッコ嵯峨駅前に移設され、2003年の「19世紀ホール」開館にともない、現在の状態に落ち着いています。


「動輪が2つだけですよー、小っちゃくて可愛い機関車ですね」
「日本が明治期以降に輸入した機関車は、みんなこんな感じの小型が多かったんで、動輪2つか3つだけのタイプが殆どみたいやね。各地で静態展示されてるのも多いし、大井川鐡道にも保存されてるな」
「あー、新金谷のプラザロコに入ってる機関車ですねー、確か1275号機でしたね」
「よく憶えてるなあ」
「記憶力だけはええんですよ、フフ・・」

 

 若鷹号の運転室内も外から見ることが出来ました。意外にシンプルな造りです。

 

 館内の反対側には、上図の人車のレプリカが展示されていました。マネキン人形が妙にリアルなので、嫁さんが「ちょっとあれ怖いな・・・」と呟いていました。

 かつては全国各地にトロッコの一種としての人力車軌道があったそうですが、京都府にはあまり無かったようです。もちろん嵯峨野観光鉄道とも無関係ですが、なぜか、上図の車体の中央には嵯の字をデザインした社紋が付いています。

 

 人車の説明板です。  (続く)

 

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嵯峨野観光鉄道に行きました 上

2024年08月18日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 2024年8月12日の朝食時に、嫁さんが「嵯峨野観光鉄道に乗りに行きましょう」と言い出しました。去る10日の大和鉄道まつりの嵯峨野観光鉄道の出展ブースで嫁さんが乗り方などを色々聞いて資料も貰っていたので、いずれ乗りに行くんだろうな、とは予想していましたが、その二日後に行くとは思いもよりませんでした。

 嫁さんも私も盆休みの期間中でしたので「行くなら今でしょ、暑すぎるから観光客も少ないほうだと思うからチャンスかも」というのが嫁さんの言い分でした。それに抗うだけの度胸も気力も無かったので、言われるままにお供しました。朝食後に支度して出発、地下鉄で二条まで行き、JR嵯峨野線に乗り換えて上図の嵯峨嵐山駅で降りました。家から約40分で着きました。

 

 二条駅から乗って来た普通列車の223系です。最近は鉄道ファンになっている嫁さんですから、しっかりスマホで撮って車番もメモし、行先表示もチェックしていました。

 去年の6月から私がNゲージにも熱中し出したのに合わせるように、嫁さんも8月ぐらいからハマり出して、自身の故郷である丹波の山陰線をジオラマで作ると言い出して「山陰線Nゲージ計画」なるものを立ち上げ、ものすごく綿密な計画表と車輌リストを作成し、それに沿って数日前からヤフオクで該当車輌を検索してはガンガン安値で落札しまくっていましたが、そのなかにこの223系のセットも含まれていました。

 

 JR嵯峨嵐山駅の西に隣接する、嵯峨野観光鉄道の本社社屋でもあるトロッコ嵯峨駅のレンガ造りの駅舎です。

 

 その看板を嫁さんが指差して「英語の下に中国語の表記が二つも並んでるんですけど・・・」と私を振り返りました。中国語には、若い人や子供が覚えやすいように漢字の画数を減らして簡略化した「簡体字」の文体もあって、本来の表記と並べて「簡体字」の文体を表記するケースが本国でも一般的になっているから・・・と説明しておきました。

 昔、昭和62年に中国に留学していた頃はまだ「簡体字」が教育現場でも普及していなかったようで、「簡体字」で書いても話が通じなかった経験がしょっちゅうでしたが、今では「簡体字」のほうを中国人も用いるようになっていると聞きます。京都市内の観光施設などで見かける中国語表記の大半も「簡体字」で示されています。

 

 切符は嫁さんがあらかじめネットで予約していたので、受付の係員にスマホの予約画面を見せて確認するだけで事足りました。改札口を通る際にスマホの画面を提示して下さい、との事でした。

 我々が乗るトロッコ列車の時刻は11時2分でしたが、それまでに50分の待ち時間があったので、それまで付属施設の「ジオラマJAPAN」と「19世紀ホール」を見て回りましょう、となりました。

 「ジオラマJAPAN」は駅舎内の西側にあり、内部にはHOゲージの日本最大級のジオラマがあって運転体験も出来るということでしたが、私たちはNゲージ派なので、「ジオラマJAPAN」へは入らず、その前に置いてあるNゲージのジオラマを見に行きました。

 

 そのNゲージのジオラマです。なかなか大きなもので、お金を入れて運転体験も出来ます。数人の子供たちがめいめいにコントローラーにかじりついていましたが、私たちはジオラマの各所の造りを観察するほうに興味がありました。

 

 嫁さんが「こういうの、こういう駅とか街並みが作りたいんですよ」と指さしていた、古い駅舎と町並みの部分です。説明によると昭和の山陰線の景色をイメージしているそうで、嫁さんの「山陰線Nゲージ計画」の参考資料としてはピッタリでした。

 駅には貨物用の側線が一本ついていて、似たようなレイアウトの駅としては八木駅が挙げられます。駅舎や駅前の町並みの雰囲気は千代川駅に似ています。嫁さんは生まれが園部で、小学校入学前に亀岡に引っ越し、最寄の駅は並河駅であったそうですが、「山陰線Nゲージ計画」で作りたいメインの駅は亀岡駅だそうです。

 

 次いで注目していたのが、上図の川の表現でした。「大堰川も、こんな感じで作ったらよいのかな」とスマホを近づけていました。嫁さんが並河に住んでいた頃は、部屋の窓から大堰川の流れが見えたそうです。

 

「この山の部分、木とか挿してないですねー」
「これはプランツとかスポンジをちぎって山肌に貼り付けてる感じやね」
「木の幹とか並ぶって景色じゃないですねえ、モコモコとしてる感じ」
「そうやね」

 

 ジオラマの三分の一は上図のように都会風に作ってあって建物もビルが殆どでした。京都市内がモデルなのでしょうか。
「こういう景色作ろうと思ったら、高いストラクチャーいっぱい買わないとあきませんねー」と嫁さん。

 

 「街並み作るなら、こういう感じの古いタイプの民家が立ち並ぶ景色のほうがいいですね」と嫁さん。この種の古民家などの建物のストラクチャーはプラ製だけでなく木製やペーパーのキットも色々出ていますので、色々な素材でチャレンジングに作りたいという嫁さんには向いているのかもしれません。

 私のほうは大井川鐡道や天竜浜名湖鉄道の田舎や山林内の景色がメインになるので、ストラクチャーはあまり必要がありませんが、木や植物の素材のほうが膨大な量で必要になるでしょう。  (続く)

 

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伏見城の面影18 七本松観音寺の山門

2024年07月30日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 洛翠園不明門を辞して南禅寺永観堂道バス停より市バス5系統に乗って四条烏丸へ行き、そこで昼食をとった後、52系統に乗って上図の七本松出水バス停で降りました。

 U氏が「このへんは初めて来たな」と言い、私も「僕もや」と応じました。
「で、どこなんだ」
「すぐそこや、見えるやろ」

 

 バス停の南約30メートルに、上図の門が建っていました。観音寺の山門です。
「ほう、小さな門だな、通用門クラスかな」
「そうやろな」

 

 門の左脇に立つ案内板です。U氏が早速読み始め、いつものように三度読んでいましたが、最後に冒頭の「慶長一二年」を指して「これはアリかもな」と言いました。私も頷きました。

 慶長十二年(1607)といえば、徳川家康が伏見城の作事を停止して、建物や屋敷、器材などを駿府城へ運ばせ始めた年です。家康は慶長十一年(1606)に居城を伏見城から駿府城へ移しており、慶長十二年からは家康の異父弟の松平定勝が伏見城の城代に任ぜられています。そして伏見城の規模や機能の縮小が徐々に行われたとされており、幾つかの建物が不要となっていったようです。

 

 「伝えによれば、山門は旧桃山城の牢獄の門を移建したものといわれ」と書いてあります。U氏が「牢獄だと?」と呟いて私を振り返り、「伏見城に牢獄ってあったのかね?」と訊いてきました。

「そりゃあ、あれや、城郭も生活空間の一種やし、城兵がなんか悪事とかやらかしたら裁いて罪に問うことにはなるやろうし、牢獄ぐらいあっただろうな。例えばさ、黒田官兵衛も荒木村重に監禁されて有岡城の牢獄に押し込められたからな」
「そうか、なるほど」

 

 門の扉を見ました。U氏が言いました。
「この板とか、なんかものすごく古い感じだな。隙間が出来るぐらいに縮んでるし。下半分は修理したんだろうが継ぎ接ぎになってるし。枠のほうがちょっと新しい感じに見えるが」

 

 反対側の門扉も同様でした。こちらのほうが、下半分の板の継ぎ足しが無いので、オリジナルに近い感じがします。

 

 門をくぐって内側斜めから見ました。典型的な棟門の形式ですが、主柱や貫、屋根などは後世の材で造られているようで、木肌の色や雰囲気が門扉部分のボロボロの板とは違いました。

 

 やはり門扉の板と内側の閂がやたらに古い感じでした。ボロボロになっても張り替えなかった事自体、それなりの由緒があって残し伝えないといけなかった経緯を示唆しているのでしょうか。

 

 主柱や貫、屋根などは、何度見ても細部を観察しても、木肌の感じ、製材痕などが綺麗に見えました。やっぱり後世の材で造られているな、とU氏も言いました。

「本当に牢獄の門だったのであるとすれば、こういう棟門じゃなくてさ、簡単な冠木門の形式だったかもしれん。冠木門だったなら、いまの棟門に直した場合に主材はだいたい交換するだろうから、残るのは門扉ぐらいになるかもしれんな」

 そのU氏の推測は、なかなかいい線をいってるな、という気がしました。確かに冠木門から棟門に改造されたのであれば、主柱や貫、屋根などが後世の材で造られているように見えてもおかしくありません。

 

 だとすれば、この柱の木製の根巻飾りも江戸期の移築後に付けられたものと考えられます。安土桃山期の建築ではこういった根巻飾りは金属板で打たれて金箔押しになっているケースが多いからです。

 

 屋根裏の造作も完全に新しいものに見えます。蟇股の目玉部分がほとんど造形されておらず、脚の両端が雲形に象られているあたりも江戸期の造りによくみられる特色です。

 

 屋根全体を後世の追加と推測するならば、上図の妻飾りも同様になります。

 

 風雨の影響を受けやすかったためか、かなり風食朽損が進んでいます。紋章が打たれた痕跡も見えません。

 

 総じて、江戸期に建てられた門という雰囲気が強いです。門扉の板だけが妙に古めかしくみえますが、普通は交換されていてしかるべき部材ですので、ボロボロになってもそのままになっているのが不思議です。

 U氏が「あえてボロボロの板を残してるってことは、それがもとの伏見城の門の板だったから、ということかもしれんな。だいたい寺の創建が慶長十二年ってのが、伏見城の作事停止、駿府城への移築で建物の解体が始まった年だからな、そのときに牢獄の門だったか、こういう通用門クラスの門を何らかの形で譲り受けて移築する、ってのは可能性としてはアリだな。案内板の寺伝はただの伝承じゃないんだろう、何かの記録とかが残ってるのかもしれんな」と言いました。

 その言葉通り、いまの観音寺山門が旧伏見城からの移築である可能性は否定出来ません。ただ、いまの門は柱も屋根も全部江戸期のものに見えますので、妙にボロボロになっているのに今も現役の門扉だけが、旧伏見城から移されてきた部材かもしれない、と推測しておくほうがよさそうに思います。

 時計を見ると14時47分でした。それで京都駅まで移動して新幹線ホームまで行ってU氏を見送りました。別れ際に「次は桜の頃に行くから、例の長楽寺とか養源院とか行こうぜ」と言われました。

「次は日帰りなのか?」
「いや、一泊二日で行こうかと思ってる。伏見城の移築建築、まだ他にあるのかね?」
「京都市内はもう無いと思う。あとは宇治市やな」
「いいじゃないか、宇治市は久し振りに行きたいな。平等院とかさ」
「なら、一日目は長楽寺と養源院、二日目は宇治方面、でええかな」
「いいよ、あとは右京大夫に任せる」
「承知」

 ということで、次は桜の時期に伏見城移築建築巡りを行なうことになりました。  (続く)

 

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伏見城の面影17 洛翠園の門

2024年07月26日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 南禅寺中門の見学後に上図の勅使門を見ましたが、こちらは旧京都御所の門なので、今回のテーマである「旧伏見城建築遺構めぐり」の対象には含まれませんでした。U氏もさらりと一瞥したのみでした。

 

 改めて中門の全景を見、撮りつつ「京五山の別格筆頭たる南禅寺に寄進されたからこそ、今日まで残ったわけだな」となにか満足げに呟くU氏でした。

 

 南禅寺の境内地から北への路地を進み、上図の扇ダム放水路沿いの歩道を西へたどりました。U氏が言いました。

「次はどこかね」
「そこの表通り、白川通に出たらすぐ右にあるよ」
「どういう建物かね?」
「よく分からんね、言うなれば、判じ物やな」
「なに判じ物・・・、水戸藩28万4千石の面目にかけても、解いてつかわそう」
「御意」

 

 その建物の前に着きました。白川通に面した松下美術苑真々庵の隣の庭園、洛翠園の西端に位置し、現地では不明門(あかずのもん)と呼ばれる建物です。

 U氏は初めて見るらしく、「うわ、変わった建物だなあ」と驚きと感嘆と不審の入り混じった声を上げました。

 

「門扉の家紋は、もしかして菊紋・・・いや違うな、別の花かな・・・」
「水戸の、菊紋で正しいで」
「あんな菊紋があるのかね」
「八重菊紋や」
「ふーん、初めて聞いたな。この建物がもと伏見城の門なのかね」
「横の説明板にそう書いてあるよ」
「あ、あれか」

 

 脇の説明板を例によって三度読みした後で、うーむと腕組みしつつ、上図の軒下の造作を見上げるU氏でした。垂木は疎垂木で放射状に配されていますが、城郭関連の建物にはあまり見かけない形式です。寺社の小建築に多い建て方です。

 

 御覧のように門口の上の貫の上に直接屋根が架かっています。門口の上辺材の左右には彩色の痕跡が白っぽく残っています。胡粉でしょうか。

 

「おい、内部は門というより部屋みたいになってるぞ」
「うん、内側に障子戸みたいなのが張ってあるな、庭園を眺める東屋みたいになってる。待合が設えてあるんかもな」
「待合があるんなら、門としては使ってないということか」

 待合(まちあい)とは、待ち合わせや会合のための場所または座席を指します。庭園内の東屋や観覧所などに多く設けられる施設ですが、常設のものではなく、場合によっては取り外したりします。ここの建物の場合は門であるので、門として使う場合には待合を外して通路空間を確保したのでしょう。

 

「見ろ、あの上の虹梁みたいなのは、破風の板と違うかね」
「言われてみれば確かに・・・破風やな。虹梁とは全然違う。真ん中に繰り下げがついとる」
「そのうえに丸い穴が開いてるだろ、あれ家紋を打ってた跡と違うかね」
「水戸の、あれが破風板なら真ん中に家紋は打たないよ、釘隠しの飾りなら打つけどね」
「ああ、確かに」
「しかし、破風板をあんなふうに構造材に転用してるの初めてみたな。もとは破風付きの門だったのを改造したようにも見える」

 

 もしあれが破風板ならば、門に破風を付けるのは、唐門形式であれば前後、妻門形式であれば左右、の一対になりますから、二枚あることになります。が、反対側へ回ってみたら破風板はありませんでした。

 

 そのことは、ネットで探して見つけた、上図の不明門の内部画像によっても確かめられます。破風板は上の一枚のみで、向こう側には付いていません。他の建物の部材を持ってきたのかもしれませんが、門の左側だけに付いているのも妙です。

 さらに、天井には龍が描かれています。門の天井に龍を描く事例は初めて見た気がします。昔からの絵ではなくて、現在地に移築後に新たに描かれた可能性も考えられます。

 全体としては、門のように見えるが門としての体裁にはなっていない、庭園内の東屋のような位置にあるという、よく分からない建物です。複数の部材を寄せ集めてこしらえたような、変わった造りも他に例をみません。伏見城からの移築とされていますが、史実なのか、伝承なのかは分かりません。

 U氏が「さっき判じ物と言われたけどさ、これは判じ物以上だな、さっぱり分からんぞ」とボヤいていました。

 

 この不明門が建つ庭園は、もとは南禅寺の境内地に含まれていましたが、明治になって政府の所轄地となり、1909年に実業家の藤田小太郎の私邸が建てられました。その際に庭園が新たに小川治兵衛によって造られましたが、それがそのまま今に伝わって洛翠園と呼ばれています。
 戦後には旧郵政省の所有となって宿泊施設が置かれ、庭園も公開されていましたが、2009年に閉鎖となって売却されました。そのまま企業の所有となって現在に至っており、ここ十数年にわたって非公開のままであると聞きます。

 

 U氏が再び門扉の菊紋を見ながら、「これも現在地に移築してから付けたんだろうな」と言いました。門扉に家紋を貼るのは皇族か貴族、もしくは明治以降の富豪や政治家や財界人に限られます。武家の門に家紋を表す場合はたいてい妻飾りか瓦に付けます。

 なので、旧伏見城の建物の門扉では有り得ません。U氏の推測通り、菊紋を含めた門扉そのものが、昔からのものではなくて現在地に建ててからの追加であると思われます。不明門そのものも、旧伏見城の建物であるかどうかは確証がないようです。  (続く)

 

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伏見城の面影16 南禅寺中門

2024年07月22日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 南禅寺の主参道に建つ上図の門は、現在は中門と呼ばれますが、江戸期までは脇門と呼ばれていました。左隣に建つ勅使門が、寛永十八年(1641)に明正天皇より京都御所の「日の御門」を拝領して移築されるまでは、この門が勅使門とされていました。

 この中門は、もとは慶長六年(1601)に細川家家老の松井佐渡守康之が伏見城内の自邸の門を寄進して勅使門としたものであり、「日の御門」の拝領移築にともなって現在地に移されています。

 

 したがって、この中門は二度場所を変えていることになります。一回目は伏見城下から南禅寺勅使門の位置へ、二回目は勅使門の位置から現在地へ、です。上図は中門の右側に隣接する番所です。早速、U氏が指さしました。

「この番所って、武家屋敷の門の番所だよな、南禅寺の門の横には有り得ない建物だな、これももと伏見城下松井屋敷の門の付属だろうな」
 うん、そうやと思う、と私も頷きました。

 

 「見ろ、門の脇戸の側面に築地塀の側板が残ってるけど、築地塀そのものは無くなってるな」
 「勅使門だった時は両袖に築地塀がついてたんやろうけど、右側に寄せて移築した際に塀だけ撤去されたんやろうな」
 「すると番所も移動してるのかな」
 「移動してるんやないかな?いまは参道端の水路の上に基礎構えてるし」
 「ああ、本当だ」

 

 中門をくぐって内側から現在の勅使門との位置関係を見ました。奥に見えるのがかつての京都御所の「日の御門」です。いまの中門がもとその位置に建っていたわけです。20メートルぐらいしか離れていません。

 

 移築後は門も番所も参道の右端に寄せられて、結果的に番所は参道端の水路の上という、有り得ない位置に建っています。そうまでしても残したかったのでしょう。この建物の由緒を南禅寺でも重くみて維持を図った歴史が感じられます。

 ちなみに、南禅寺には他にも伏見城からの移築と伝わる建物があります。いま国宝に指定されている方丈の大小のうちの小方丈が、寛永年間(1624~1645)に建てられた伏見城の小書院とされています。
 しかし、伏見城は元和五年(1619)に廃城となって翌年から城割りが始まっているので、その数年後に小書院を建てたというのは辻褄があいません。それで小方丈のほうは旧伏見城建築であるかどうかは疑問視されています。

 

 ですが、こちらの旧松井屋敷門のほうは本物とみられます。御覧のように寺社の門とは異なる武骨で簡素な造りに武家の門の特色が顕著です。

 この門を南禅寺に寄進した松井佐渡守康之は、はじめ室町幕府の奉公衆として足利将軍家に仕え、ついで細川藤孝の家臣として織田信長に仕えました。後に細川家の家老職を任せられ、細川忠興を支えて江戸期は中津藩および小倉藩の家老を勤めています。豊臣秀吉の治世期には伏見城下に屋敷を構えていましたが、その屋敷門を南禅寺に寄進したものが現存しているわけです。

 

 屋根裏の造作も簡素で最低限の木組みとなっています。中世戦国期の武家屋敷というのは、戦乱期にあっては焼かれたり破壊されたり、もしくは移築移転が多かったりで長期の維持がなされない前提で建てられるケースが多かったため、あまり堅牢かつ重厚な造りにはならないのが常であったようで、現存する建築の多くが簡易簡素の造りを示しています。

 

 それでいて外観だけは、武門の誇りを示すべく豪壮に造られ、形式に則って脇戸または潜り戸が設けられます。この中門でも元は潜り戸があったようで、向かって左側の上図の潜り戸部分はいまは板で塞がれています。これは南禅寺に寄進されてからの改造部分の一つでしょう。

 

 U氏が「城郭の大手門とかの城門を簡易化、小型化したような木組み、構造だなあ」といい、木組みや貫をあちこち見ては「実用本位の門だねえ、装飾とかなんにも無いな」と感心したように言いました。

 安土桃山期の武家屋敷の門構えというのは、規模の違いこそあれ、建物そのものは武家の建築形式でその型も一つか二つぐらいしか無かったようです。江戸期の武家屋敷の門が、全国どこへ行っても似たような長屋門や棟門の姿に造られているのも、安土桃山期の武家屋敷の門構えを受け継いでいるからだと思われます。
 なので、伏見城下に建ち並んでいた全国の諸大名の武家屋敷の門も、ほとんど似たり寄ったりの姿だったのだろうと思われます。

 

 「この門扉も当時のままなんだろうかね」
 「さあ」
 「なんか、枠とかは新しく取り替えたみたいになってるが」
 「そうやろうね。門扉ってのは消耗品やからね、寺でも屋敷でも毎日開閉するから痛むのも早いやろな」
 「でも武家建築の門の扉だな。お寺の門の扉って雰囲気じゃない」
 「せやな」

 

 ということで、この南禅寺中門が旧伏見城下の建築遺構であることは、まず間違いないだろうと思われます。

 この門が寄進された慶長六年(1601)は、関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康が伏見城に入城した年です。当時の伏見城は前年の伏見城合戦で小早川秀秋、島津義弘ら西軍に攻められて炎上落城して廃墟同然であったため、翌慶長七年(1602)6月に藤堂高虎を普請奉行に任じて再建にとりかかっています。

 なので、この門は豊臣期の伏見城下の松井屋敷の門であったわけで、徳川家康の再建事業に際して撤去され寄進されるに至ったのでしょう。数少ない豊臣期の門遺構として、知恩院の黒門とともに記憶されるべき貴重な建物です。  (続く)

 

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伏見城の面影15 南禅寺金地院大方丈から

2024年07月18日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 南禅寺金地院の本堂にあたる大方丈の横へ回りました。U氏が「やっぱり規模が大きすぎるな。伏見城の縄張図で規模を調べてきたんだが、本丸や二の丸って今の二条城よりも狭いのな。それなのにこの建物は二条城の書院建築より大きいな」と言いました。

 確かにその通りかもしれません。加えて、上図の外観の建築様式は完全に江戸期のそれでしたから、江戸期に現地で新たに造営された建物だろうと思います。近年の研究では、寛永四年(1627)に以心崇伝によって建立されたものとみられていますが、それが正解でしょう。

 なので、この大方丈が伏見城からの移築とする寺伝は、ただの伝承にすぎないか、もしくは、移築の計画だけで終わったか、移築されたが規模が小さかったために現在の大方丈に建て直された、のいずれかの経緯を反映しているのかもしれません。

 

 大方丈の右側には中興開基の以心崇伝を祀る上図の開山堂があります。江戸期において開山の像は方丈内部の仏間に安置される形式が一般的ですが、金地院の場合はこのように開山堂が別に建てられており、鎌倉期以来の禅寺の古いスタイルが踏襲されています。また、かつては大方丈の他に小方丈もあって、その小方丈がいま正伝寺に移築されて今に伝わりますが、この大方丈と小方丈の併置も古いスタイルです。

 金地院は、もとは室町幕府第4代将軍足利義持が応永年間(1394~1428)に、南禅寺第68世の大業徳基を開山として洛北の鷹ケ峯に創建したと伝えており、それを江戸初期に以心崇伝が中興して現在地に移した経緯があります。いまの金地院が示す古いスタイルは、鷹ケ峯に創建された前身寺院の構えを受け継いでいるのかもしれません。

 

 大方丈の前面に庭園「鶴亀の庭」の白砂が広がります。 寛永九年(1632)に以心崇伝が徳川家光を迎えるために小堀遠州政一に作庭させたものであり、造営時には全国の大名からたくさんの名石が寄進されたといいます。

 小堀遠州は周知のように江戸期を代表する作庭家で、全国各地に小堀遠州の作と伝える庭園がたくさんありますが、大部分は伝承に過ぎず、ここ金地院庭園のように史料のうえで小堀遠州の作庭であることが確かめられる事例は唯一であるそうです。

 

 大方丈の内部を見学しました。上図の前縁部以外は撮影禁止でした。桁行十一間、梁間七間の大きな規模ですが、平面形式は典型的な禅院方丈の六間取りとなっています。前列中央の奥が仏間で、本尊の地蔵菩薩像を安置しています。

 東側の奥にある「富貴の間」は、奥を一段高めて上段を設け、床および違棚、付書院を設け、帳台構を付して天井を折上げ格天井としています。各室の襖や障子腰板の障壁画に狩野派の作です。格式の高い部屋であり、葵紋をあしらった飾金具が使用されていて、武家御殿の大広間を彷彿とさせる室空間になっています。
 このような「富貴の間」がある点も、禅院方丈としては極めて異例の造りですが、おそらくは徳川将軍家の御成を迎えるためであったのでしょう。

 

「要するにだ、ここ金地院は京都における徳川家の重要拠点でもあったわけだ、神君家康公の遺言による三ヶ所の東照宮の一つがここだし、それを遥拝する仏殿としての機能も併せ持った方丈は、将軍家の御成があっても良いように高い格式で造られてる。庭園は小堀遠州、障壁画は狩野探幽、当代一流の名人による仕事だ。最初の頃は伏見城の書院を移して使ったかもしれんが、徳川家の菩提寺となった知恩院の壮大さに比べりゃ、小さかったんだろうな、そこで寛永四年に新たに大きな建物を造営した、と、こういう流れかもしれんぞ」

 U氏がそう話しましたが、それで合っているのではないかと思います。ここに伽藍を建設し始めた時には伏見城からの移築による大小の方丈があったのかもしれませんが、徳川家の拠点に相応しい大方丈を新たに造営するにあたって両方とも撤去、小方丈のみが正伝寺に移された、と考えれば、金地院方丈が伏見城からの移築とされる寺伝とも符合します。

 

 大方丈を出て、拝観順路を進んで明智門へと向かいました。これで金地院境内を一巡したことになります。

 

 近づいてくる明智門を見つつ、U氏が言いました。

「そういえば、徳川家の拠点である金地院の中門が、明智光秀の寄進門というのも、なんか不思議な組み合わせだな」
「あれはもとの門が豊国神社へ移されたんで、明治期に大徳寺から買い取って移したものやからな」
「あっ、そうか、そうだった。この前見てきたあの唐門がここにあったわけか」
「せや」
「それもなんかすげえ景色だったのと違うかね。国宝の三大唐門のひとつだぞ」
「せやな」

 

 金地院を辞して、参道を北へ進んで上図の門をくぐりました。南禅寺主参道に面するこの門も金地院の建物で、下乗門と呼ばれます。金地院一山の総門にあたり、参詣者はここで馬や輿から降りて門をくぐる習わしでした。

 

 金地院下乗門から右に曲がって南禅寺主参道に進むと、やがて上図の門が見えてきました。U氏が「よし、あれだな」と気合を入れ直していました。かつて伏見城内にあった武家屋敷の門であったもので、慶長六年(1601)に南禅寺に寄進移築されたものです。  (続く)

 

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伏見城の面影14 南禅寺金地院東照宮から大方丈へ

2024年07月14日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 金地院東照宮の拝殿の縁側に置かれていた案内文の立札です。U氏はいつものように三度くりかえして読んでいました。

 

 そして拝殿の軒下を見上げつつ、「疎垂木(まばらだるき)だな」と言いました。神社建築の垂木形式としては簡素のほうに属しますが、ここの建物では簡素化というよりも、総黒漆塗りの黒い外観に独特のアクセントをつけるために意図的に採用されているように思われます。

 

 貫の上の黒い板壁には円環形の浮彫レリーフが懸けてありますが、もとは金泥の下地に彩色を施していましたから、黒漆の上では夜空の月のように輝いて見えたことでしょう。

 

 モチーフは鳳凰のようです。かなり剥落していますが、もとは色とりどりに塗られて鮮やかな姿であったと思われます。徳川政権の初期にて庇護した社寺の建築装飾はだいたいこのようなタイプです。日光東照宮しかり、妙義神社しかり、三峰神社しかり、です。

 

 ですが、徳川政権の関与した社寺建築においても、この拝殿のような漆黒の建物は稀です。背後の石の間や本殿が極彩色であるのとは対照的です。何らかの意図があったものと推測されますが、基本的には神仏習合期の神社の仏教的な建物形式になっていることに着目すべきでしょう。

 

 背後の石の間や本殿は、御覧のように朱柱の一般的な社殿建築の姿を示しています。拝殿と同じく寛永五年(1628)の建立で、国の重要文化財に指定されています。

 

 石の間を見ました。このように、拝殿と本殿の間の石の間を建物として構成し、拝殿と本殿とに繋いで造る形式を「石の間造り」といいます。石の間自体は本来は土間であって、平安期には既にみられたようですが、建物がつく形式となったのは安土桃山期からのようです。慶長四年(1599)に京都阿弥陀ヶ峰に建てられた豊国神社が「石の間造り」の古い例であったとされています。

 京都で似たような「石の間造り」の現存例を挙げるとすれば、北野天満宮社殿が思い浮かびます。

 

 続いて本殿を見ました。拝観順路からはちょっと離れているので、双眼鏡で見たりしましたが、典型的な江戸初期の極彩色の社殿建築です。桃山期の流行をそのまま踏襲しているように見えますが、意匠的には形式化の兆しがほの見えます。木組みなどに施された彩色の基本デザインは、平安期以来の伝統的な繧繝(うんげん)の系譜上にあります。

 

 本殿の横から土塀の小さな出入口を抜けて下へ石段を降りると、正面に開山堂の側面部が迫ってきますが、その右手に視線を向けると上図の大方丈が見えてきました。

 

 U氏が立ち止まり、私を振り返って問いかけてきました。

 「右京大夫、あの大方丈が、もと伏見城の書院だったと寺では伝えてるわけだが、どう思う?」
 「どうも、違うんじゃないかな・・・」
 「やっぱり、そう思うか」
 「ああ、規模的には大きすぎるんじゃないかって気がする。桃山期までの書院造はだいたい複数の建物を連ねるからね、二条城二の丸御殿みたいに。伏見城の書院も幾つか並んでたタイプだから、個々の建物は小さかったと思うんで・・・。でもあの大方丈は、規模が大きいし屋根も高い、あれで空間的には一つの書院として完結してる。江戸期の禅寺の一般的な方丈のタイプやな・・・」
 「俺もあれは一個の書院方丈で、江戸期の新造の建物かなと思う。この前見てきた正伝寺の方丈な、もとはここにあったんだろ?それを正伝寺へ移築したのは、あの大方丈を建てるためだったんじゃないかと思う」
 「そう、そう」

 意見が一致したところで、再び歩き出して、大方丈へと歩み寄りました。  (続く)

 

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