これから書く話しは個人を攻撃したり非難するためではなく、心の不思議さを考えてみて結論が出ないままに悩んでいる気持ちの整理の為です。
戦争の爪痕がまだ残る昭和30年代に、共通の趣味の場であったダンスホールで出逢い、恋に落ちそして夫婦となる。夫は家族の為にと外国に長期出稼ぎし大金を稼ぐも、悪意の人に全てだまし取られたり、家を失ったり、苦しい事も沢山あったが、ふたりで乗り越える。幸せな事に子供にも恵まれ大きな事故も無く、無事成長した彼らは独り立ちする。孫も出来、さあこれから幸せな老後を夫婦で過ごすだけだねと思っていた矢先に夫が病に蝕まれる。
アルツハイマーは少しずつ進行し、夫の記憶が砂山を崩すようにゆっくりと失われていく。始めは在宅看護ができたのだけど、病の進行と比例し日々意思の疎通が困難となり、同時に看護する妻の負担、日によってはいきなり暴れ出す夫による暴力の危険など、もう手におえないし看護する妻もすでに老齢。
生活保護を受ける身であるが、独立した子供達おのおのの生活が有り援助を求めることは出来ない。仕方なく病院へ預ける事としたが、最低料金のいわゆる姥捨て山、家庭内外を徘徊した夫は入院後みるみる衰弱し寝たきりとなる。
共に人生を送り愛し合っていたばずの夫の事がこの頃から鬱陶しくなり、今では心の底で早い死を願うようになるのか。今では一人暮らし、たまに会う親戚に「あの人は昔から文句が多くて嫌だった」とか、「年を重ねるごとに難しくなった」と愚痴り「それは違う」とたしなめられたりする。
ハチ公の意見=もう、失われてしまうと諦めていて(覚悟して)、自己防衛本能で心の傷を少しでも小さくする為「私が失うものはそんなにたいしたものではない」と思いたいから冷酷に振る舞っているのではないか?
同居人の意見=元々親の愛情の薄い環境で育った人だから、貰った分の少しの愛情しか与える事が出来ないかも?
う~解りません。あなたどう思いますか?愛する人の死に直面し、どう振る舞えばいいのか? えっ、そんなもんはその時でないと解らんって、そうかもしれませんね。
「世界で一番大切な人を失ってもご飯は食べる我々」と言った人がいますが解ります。
落語は人間の業の肯定である BY 立川談志
人間は業を背負って生きる
そんな業まみれのワタシが大好きです。自己肯定でケロヨ~ン。
って、このケースの夫婦愛について、やっぱり結論は出ませんね。次回持越し。