引き揚げ後、すぐにでも高田さんの家族を探さねばと思っていたが、肝心の住所を聞いておらず、そう簡単に探すことはできなかった。
まだ幼い妹や弟を連れて家族で引き揚げ、食べるものもない中で一家が人生をやり直すのは容易ではなかった。
まだ10代半ばの中田さんも苦労を重ねた。
「すぐに探して遺品を持っていってあげればよかったのだけれど、46年間ずっと持っていました」
転機が訪れたのは1990年ごろ。
姉妹で鹿児島県にある知覧特攻平和会館を訪れた時だ。
ずらりと並んだ特攻隊員の顔写真の中に、高田さんの写真があった。
「するどい目でこちらを見ていました」
「まだ(遺品を)持っていっていないのかよ、って言われてるような気がしました」
「その後すぐに、遺品を預かっていることを会館の方に話し、ご家族の住所を教えてもらったんです」
46年の時を超えて、高田さんの家族に連絡することが叶った。
高田さんの故郷、富山県を遺品を持って訪れた。
高田さんが遺品を渡したかった「おふくろ」はすでに他界していたが、家族写真の中ではまだ赤ちゃんだった高田さんの弟さんに、台湾での高田さんの生活などについて話すことができた。
富山へは遺品を渡しに訪れたが、マフラーを持っていてもいいかと聞くと、快諾してくれた。
今でも大切に、家に保管している。