バーボン飲み過ぎでダウン

2017年11月06日 | フィリピン永住生活、、天国か地獄かな
バーボン飲み過ぎでダウン


酷い二日酔いで2日ダウンだ。


3日めの今朝、漸く動けるようになった。


加えて糞カワサキのクラッチなど壊れたので<<妻にパーツ買い出しを頼んだが良くやってくれた>>

総額8000ペソ修理!!

担当に焼きをくれたが<<金曜日に焼きをくれた>>後、そいつの妻から首にしないでくれなどと電話が何回もあるので<<入金時に足りなかった銭を払えば仕事させると>>返事した。

今朝バカが来て銭を払った。

更に<<修理代の半分を分割で払え>>で0k.


当分酒は飲まない!!!!!!!

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日産とスバル 法令順守は日本の敵

2017年11月06日 | モーターサイクルメーカーなど
日産とスバル 法令順守は日本の敵
11/6(月) 6:33配信 ITmedia ビジネスオンライン
日産とスバル 法令順守は日本の敵
完成検査の問題で揺れている日産自動車とスバル
 完成検査問題で日本の自動車産業が揺れている。日産自動車では不祥事を受けて2週間をめどに国内市場向けの車両出荷を停止した。各ディーラー店頭にある流通在庫を含め115万台がリコール対象となり、影響は100億円とも試算されている状態だ。スバルでも同様の問題が指摘された。

メーカーでの品質チェックの様子

 問題となっているのは、生産の最終過程において、国土交通省の指定する完成検査が無資格者によって行われていたことである。法令順守の問題だ。「法律を破ってはいけない」。そこには明確にアウトとセーフの判定基準があるので、とても分かりやすく、批判もしやすい。完全な思考停止をしていても「悪いことです」と言えてしまうからだ。さらに「安全をないがしろにするのですか?」とでも言い足せば反論も封殺できる。非常に簡単である。

●アップデートされない規制

 しかしながら、世の中には笑ってしまうような法律もある。国内でよく話題になるのは「軽犯罪法第1条20項」。ここには「公衆の目に触れるような場所で公衆にけん悪の情を催させるような仕方でしり、ももその他身体の一部をみだりに露出した者」とある。法令順守の観点から言えば、誰か1人でも「はしたない」と思えば、体の一部である太ももを露出するミニスカートは違法ということになる。

 制定された1948年(昭和23年)の秩序としてはそうだったかもしれないが、平成の世も30年になろうとしている今、それは滑稽でしかない。無駄で無意味な規制だ。ある日、ミニスカートが出荷停止になり、出荷済みのスカートを膝丈に改修する作業をメーカーが行なったら、それは誰が見ても異様に感じるだろう。

 だが、自動車の場合、同じ苔の生えた古いルールにも関わらず、そうはなっていない。メディアがこぞって「太ももの露出する服を売るのはコンプライアンス違反で、日本のものづくり神話は崩壊した」と叫んでいるのである。神話時代から連綿と続くカビ臭い法律を大事にするという意味では、なかなか風刺の効いたコントである。余談だが、道路運送車両法の制定は51年(昭和26年)である。後ろに挙げる項目を見ればそれが実感できるだろう。

 さて、となると筆者はここで「ゼロ回目の車検」となる完成検査が、いかにポンコツで古臭く、無意味なルールであるかを説明しなくてはならない。

●完成検査の実態

 バカバカしいその内容を書き出してみよう。項目数だけは多いので、冗長にならないように抜き出すが、それでも法律のほうが冗長なのは筆者の責ではない。なお、抜き出す際には、できるだけまともなものを選ぶようにする。つまり、抜き出されてないものはこれよりバカバカしい。

車検証と実車の同一性確認

(厳密には車検証ではなく完成検査証)

車体番号

エンジンの型式

車体寸法

エンジンルーム内の検査

潤滑装置の油漏れ

プレーキ配管の緩みや液漏れ

冷却装置の水漏れ

パワステベルトの緩み

キャブレターなどの燃料漏れ

排ガス減少装置の取り付け状態

バッテリーの取り付け

外観の検査

バックミラーの視野と取り付け

警報機(クラクション)の音量

ランプ類の性能・取り付け・光軸

最低地上高

ワイパーの取り付け

車体の傾きと突起物の有無

窓ガラスの透明度や歪み

タイヤやホイールの歪みや損傷

車室内の検査

ハンドルの遊びとガタ

ペダル類の遊びとガタ

メーター類の取り付けの有無と状態

座席の寸法と間隙

ヘッドレストの有無

検査機器による検査項目

ブレーキの効き

スピードメーターの誤差

サイドスリップの量

排気騒音

ランプの光軸と光度

排気ガスの濃度

 と、まあこんな感じで、他にどうでもいいから省いたものがどんなものか例を挙げておくと「サンバイザーの取り付け」とか「ウィンカーの点滅速度」とか無限にある。ざっと見渡して一番に感じるのはバランスの悪さだ。特定の部品を散発的に取り上げて取り付けの確認を曖昧に指定しているに過ぎず。相当原始的なクルマが想定されている感じを強く受ける。エンジンや車両制御に用いられるコントロールユニットなどの電子部品に関する記述がほぼない。日本では1970年代から取り入れられてきた部品である。

 工業高校の授業で生徒が作ってみたクルマだとか、ユーザー車検の時に注意する項目だというならまあ分からないでもないが、世界で戦う自動車メーカーの製品をチェックするに際してこの項目のバカにしたようなレベルの低さはどうだろう?

 プロの料理人に包丁の持ち方やコンロの着火方法のテストを受けさせるようなもので、全部できているのは最低以前の条件である。そんなものを有資格者が検査しなくてはならないとする規定そのものがアホ臭い。小泉構造改革で規制緩和が叫ばれてから17年。こんな規制が残っているから数十年の時が失われているのだ。

●メーカーの品質担保手法

 現実はどうか? メーカーの生産現場へ取材に行ったことがあるが、すべての部品の組み付け段階で、厳密なチェックが行われている。

 必要な部品が部品トレーから取り出されたか、その部品を取り付けるために適正な工具は作動したか、組み付けに油脂類が必要なら、その油脂のフィラーはホルダーから取り上げられたか。そして組み付け段階が終わるとロボットアームに取り付けられたカメラがグルグルと周囲全方位から撮影し、リアルタイム画像チェックによって部品の位置と角度が適正かどうかが判別される。それもすべての工程ごとにリアルタイムでチェックされ、異常があればラインは止まる。

 生産効率が高い工場であればあるほど、ミスが起きたら、瞬時に察知してラインを止めないと膨大な量の不良品を作ってしまう。それは死活レベルでメーカーの首を絞める。だから万全の体制を持って厳しい検査が行われている。その精度と細かさは役所の指定するチェック項目の比ではない。21世紀の現在、そんな低レベルのことができていなければとっくにメーカーはつぶれている。

 そもそも世界の国々では日本のようなバカバカしく厳しい車検制度がない。米国などは定期的な排ガス検査しか行わないので、完成検査をクリアしていなくてもリコールにはならない。役所のお墨付きなどなくてもメーカーの検査を当たり前に信頼して製品を買っているわけだ。

 法令を順守しなかったことは悪くないとは言わない。しかしケースとしては実害が発生しない単純に形式的な違反である。神戸製鋼のケースとは次元が違う。これほどまでに社会を揺るがす問題にする必要があるだろうか? 元はと言えば形骸化したルールが安全に貢献するかのように語っていることの方が問題で、完成検査も購入後の車検も無駄にクルマの維持コストを増大させている。被害者はユーザーである。安全は常に手間も含むコストとのバランスで考えるべきで、「命がかかっているから」という理由で、通勤電車に航空機並みの手荷物検査をできるかどうかを考えてみれば分かるだろう。厳重であることを必ずしも是とはできないのだ。ましてや実際の安全に寄与しない検査など、ユーザーに無駄に負担コストを掛けるだけである。

●2つの悲劇

 今、日本には2つの悲劇が起きようとしている。まずは1度決まったら、時代に合わせてアップデートする気がまったくない規制。そして「コンプライアンスとは単純に法令順守のことである」という誤解である。

 これについては弁護士の郷原信郎氏が2007年に表した名著『「法令順守」が日本を滅ぼす』(新潮新書)で10年も前に喝破していた話である。郷原氏は、「コンプライアンスとは単に法を守ることではない。それは法を守ってさえいれば良いという誤解を世間にまん延させ、この国の根幹を深く着実に蝕んでいる」とまで言う。

 こうした表面的な法令順守の圧力が強まれば、経営者はひたすら法令順守に躍起になり、現場の従業員は新たな試みを敬遠する圧力になる。どちらも事なかれ主義の思考停止に向かうのだ。ダイナミックに変化し続ける世界経済の中で日本企業が戦っていく中で、老朽化した規制は足を引っ張ることにしかならない。

 こうした問題に際しての日本の特殊性として、特に問題なのは、客観的な安全性よりも消費者や監督官庁との信頼関係の喪失問題に主眼が置かれてしまう点だ。今回の無資格者による完成検査は、より厳しいメーカー規定による検査をクリアしている以上、安全性に問題が起きているとは到底思えない。単純に、法令順守をしなかった点について「ルールを破った信頼できないメーカー」という烙印が押されていることになる。

 もちろんメーカーはそうしたステークホルダーから信頼されることは重要なことだ。そこに際して外野であるメディアが、完成検査の内容も知らずに「コンプライアンス違反」と騒ぎ立て、その結果、日本企業が信頼を失っていくとしたら、日本のものづくり神話を崩壊させているのは果たして誰なのだろうか?

 なお、書き添えておけば、許認可権を握る監督官庁(国交省)が怖くて、バカバカしいと思いつつ、こんな旧弊な規制の緩和を進めるべく努力しなかったメーカーの側にも責任はないとは言えない。力関係を考えると少し酷な言い方だとは思うけれど。

 では、本来的なコンプライアンスとはどうあるべきかについて、郷原氏はこう言う。「本来のコンプライアンスとは、組織に向けられた社会的要請に応えて、しなやかに鋭敏に反応し、目的を実現していくこと」。そのために必要なのが「社会的要請に対する鋭敏さ」と、「目的実現に向けての協働関係」であると言う。

 つまり、日本企業が世界で勝ち抜いていくためには、役所もまた「社会的要請に対する鋭敏さ」と、「目的実現に向けての協働関係」を強く自覚し、新時代の要請に向けて企業の真のパートナーとして規制をアップデートしていかなくてはならない。サンバイザーの取り付けに権力を振り回している場合ではないのだ。

 願わくばこれを読まれた読者が問題の本質を理解し、真のコンプライアンス時代が一歩ずつ進んでいくことに力を貸していただけることを。

(池田直渡)
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