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戦後左翼史 その28 1965年④ 日共自主独立路線の正体

2016-07-09 17:00:48 | Weblog

明日は参議選。マイナス要因は封印し、大衆の俗情におもねるアへは選挙巧者だ。僕も真の争点は憲法改悪だと思うが、9条については安保法制が通ってしまった時点で、必要が無くなった。おそらくアへが出してくるのは、緊急事態条項の追加による私権の制限ではないだろうか。周辺国の脅威に対して国民の生命を守るため一時的に権利を制限すると言われれば、日共も含めて(人を殺すための予算発言を処分した影響は大きいぞ!)挙国一致になるのではないか。僕は、常々野党は外交に活路を求めよと言ってきたが、鳩山さん以外全くドメスティックだ。

 

戦後左翼史 その28 1965年④ 日共自主独立路線の正体

以下、■はインドネシア関係、★印は中ソ対立関係、▼はベトナム戦争関係である。

★1965.11.3道新 モスクワの反響 AAへの浸透積極化 中国:浮きあがった存在

★1965.11.6道新夕刊 北京のソ連革命記念集会 中ソ対立浮き彫り

▼1965.11.8道新 ポリャンスキーソ連第1副首相が演説 革命記念日の前夜祭 7か年計画 農業政策を大幅改善 工業では超過遂行 ベトナム 米の敗北は必至 中ソ和解は中国側にかかる 

1965.11.8道新 赤の広場でソ連革命記念式典 地球ロケットも参加

★1965.11.8道新 人民日報 社説で協調 両国民の団結は永遠 中国共産党 政府首脳が祝電

★1965.11.9道新 中国首脳“暖かい祝電” 中ソ関係が好転か

★1965.11.11道新 人民日報 ソ連の反中国論特集 “修正主義の姿暴露” ソ連非難 再び公開論争展開 本格的な対ソ対立へ

▼1965.11.11道新 ソ連 米のベトナム戦非難 米ソ関係改善問題外 

★1965.11.11道新夕刊 中共論文 モスクワの観測 世界党会議へ反撃

▼1965.11.11道新夕刊 人民日報と紅旗が共同論文 対ソ論争に第2弾 ベトナム問題で米と“取り引き”を非難 共同行動を拒否 

1965.11.11道新夕刊 新華社報道 米機が中国の商船攻撃

1965.11.15道新夕刊 ソ連 生産刺激を計画 報奨金制を考慮

▼1965.11.15道新夕刊 英紙 中ソの“ベトナム覚え書き”発表 「北」に対米和平交渉要請 ソ連の動きは事実

★1965.11.17道新 プラウダ 中国論文に反論 根拠のない中傷と挑発

★1965.11.19道新 ソ連 中国と絶縁決意か 新政権以来の方針転換 もはや論争避けぬ

■1965.11.22道新夕刊 インドネシアクーデター ウントン中佐自供 反共将軍の集団殺害 

★1965.11.22道新夕刊 ソ連 共同行動に訴える “公開論争”に応えず

1965.11.23道新 ハンガリー経済管理制度を改革 私企業に活動の機会

★1965.11.29道新 ソ連 中国との公開論争再開 プラウダ 共同行動批判に反論 “努力無視し中傷”

▼1965.11.29道新 世界各地でベトナム反戦デモ ワシントン約4万人が行進 北爆中止、停戦など要求 英国デモ隊11人逮捕 イタリア4千人が参加 交通一時マヒ スウェーデン米大使館に決議文手渡す

★1965.11.30道新 プラウダ論文 さらに悪化した中ソ関係 “ベトナム共闘”を断念 分裂の非難に先手

1965.12.1道新 ポーランド工場経営に新方式 利潤で価値を判断

1965.12.3道新 世界党会議 ソ連権威筋言明 近く開催説否定

1965.12.7道新 ソ連共産党中央委総会開く 経済面でフ路線手直し 「人民統制委」に取組

1965.12.8道新 ソ連最高会議開く バイバコフ議長 明年度経済計画報告 工業生産6.7%増に 国防費は5%増額

1965.12.9道新社説 ソ連の新年度国家計画の意義

1965.12.10道新 ソ連最高会議幹部会議長ミコヤン氏辞任 後任ボドゴールヌイ氏 新設の人民統制委員会 代表にコウノフ氏 シュレーピン氏の解任発表(党国家統制委員会議長)党務に専念のため→党内2位の地位へ

▼1965.12.10道新 ソ連最高会議 「ベトナム」で特別声明 米へ侵略中止働きかけ 各国議会に要請 グロムイコ外相演説 ベトナム情勢 国連に重大な陰影

▼1965.12.11道新 ソ連新体制と対米外交 “静”から“動”へ転換 平和共存に警告 ベトナムなど国際的指導権確保へ 長期安定政権に自信

★1965.12.13道新 プラウダ重ねて中共非難 ベトナム協力拒否 

▼1965.12.13道新 北ベトナム労働党機関紙 正規軍南下認める? “南北軍民が徹底抗戦” ハノイ放送 ラスク書簡(米国防相)を公表 北爆停止はペテン

■1965.12.14、15道新 インドネシアの現状 決断迫られるスカルノ ①軍部の圧力に押される 共産党“解散”で対立 インドネシア共産党300万人(シンパを含めた動員力2,000万人) ②経済力回復も緊急課題 軍の発言どう反映

1965.12.15道新 ソ連 後進国への影響力強化へ 明年初めハバナ会議 3大陸の進歩勢力を結集

1965.12.18道新 ソ連誌 海外の批判に反論 米帝国主義と

1965.12.21道新夕刊 人民日報 海外の批判に反論 利潤方式は資本主義への逆行か エル・レオンチェフ(ソ連アカデミー通信員)「経済的“夢物語”への反論」

★1965.12.24道新 新華社 人民日報 ソ連誌に反論 対ベトナム援助物資は無料で輸送

1965.12.24道新 ソ連 ハバナ会議に力入れる 反帝勢力結集へ

1965.12.25道新 チェコ 中国非難文書を発表

▼1965.12.25道新 廖承志氏(中日友好協会会長)明年の見通し語る ベトナム人民の抵抗高まろう 米和平工作は失敗 アイジット(インドネシア共産長)については、何も聞いていない   

▼1965.12.27道新 プラウダ ベトナムについて米を強く非難 中国参加呼びかけ

★1965.12.27道新夕刊 人民日報 国連総会を批判 米ソ取引きの場

*(*は僕の考え)1950年代後半からの日共の歴史を振り返ると、排除(除名)の連続であることがわかる。トロツキスト、構造改革派、ソ連派、そして今回はインドネシア共産党の壊滅にビビって中共派の除名。1960年代後半から自主独立路線を唱えることになるが、その内実は、出自からしてコミンテルン(共産主義インターナショナル)日本支部、以来外国依存体質できたが、ここに来て頼るべき相手がいなくなったというだけのことである。党内に存在していた多様な考え方を人材とともに流出させた末に残った「空っぽ=カス=自主独立路線」だ。

 

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