今朝5時の気温は15℃ほどと、肌寒いほど。猛暑が終わると急に冷え込んでジェットコースター並みである。それでも、今日の予報は晴れで最高気温27℃で過ごし易いようである。
今日は母の命日である。4年前の今日、97歳で老衰で亡くなった。
母は終戦の1年後、樺太真岡の真岡病院で8月27日に私を出産した。
出産予定日を1カ月間違ったらしく、7月から入院して自炊をしながら過ごしていたと言っていた。
その頃は既に南樺太はロシアのものとなり、ロシア兵が私を抱いてあやしていたという。
それから1年後に我々家族は樺太から北海道へ引き揚げて来て、網走での生活が始まった。
父が亡くなってからは母は網走で一人暮らしをしていたが、87歳のとき、新潟の我が家へ連れて来た。しかし母はひどい暑がりで、新潟で暮らすことは望んでいなかった。
私の次女が生まれたとき8月に母は新潟に一度来たことがあったが、あまりの暑さで足がピリピリ痛み外に出れなかった思い出があり、新潟へ来るのを嫌がった。しかし認知症も少し始まったようだったので、騙しだまし、何とか新潟へ連れて来た。
母の部屋にベッド、テレビと電話の子機を用意した。何時でも北海道へ電話できるようにと思い電話の子機をベッドの横に置いた。
その年の夏に母は北海道の子供たちに電話をしていた。「こちらは、それほど暑くない。そちらはどうだい?」と言っていた。涼しいのはエアコンのためだとは気づかないようだったが、新潟の夏を嫌うことが無くなったので一安心したものだ。
結局、母とは10年一緒に暮らした。この間、妻には大変苦労をかけたが、母は満足して逝っただろうと思っている。
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あって施設で長く暮らしたが 更に兄嫁と息子の
嫁の諍いがまた始まり 嫁姑の冷たい仕打ち中で
94歳で旅立ちました。
私の7人弟姉妹の助言や支援に力を尽くしたの
ですが 力のなれなかった事を申し訳ない‥と
母に今でも思っている。仲良く暮らす事が何よりも
大切‥と 生きるって難しいね~
確かに肌は綺麗でデーサービスの人にも褒められて
いたようです。
好き嫌いが無く、何でも食べてたのが良かったのでしょうか。
我が家では、母が認知症のためか、時折暴言が出ましたが、
妻は我慢してよく介護をしてくれたと思います。
北海道へ母を迎えに行ったのも妻一人で行き、車いすに母を乗せて
網走ー千歳ー新潟と連れて来てくれました。