むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

10、山抜けて山河あり ③

2022年12月22日 15時30分25秒 | 「浜辺先生町を行く」  田辺聖子作










・村の中を流れる揖保川は、
なだれ落ちた土砂のため堰き止められたダムになり、
対岸の家々をあっという間に流し、
川の流れが変ってしまった。

千ミリの豪雨で増水して、
手がつけられないそうである。

ただ、十四日の朝刊によると、
住民の奇蹟的な脱出が成功して、
一人の犠牲者も出ていないという。

せめてものなぐさめである。

秋月さんたちは、
少なくとも、命だけは助かったらしい。

「よかった。
一人でも誰か、知った人が亡くなってたら、
もう、あそこの村、よういかんわ」

と私はいったが、
はじめの生き埋めの三人は、
やっぱり行方不明らしかった。

新聞に、無惨に倒壊埋没した、
下三方(しもみかた)小学校の写真が出ている。

山肌は白っぽくえぐりとられ、
山裾の村や往還はただ何もなく、
ごろごろ倒れた巨木と土砂の野原である。

小学校はかわいらしい真っ白い三階建ての、
鉄筋コンクリートの建物であった。

私は何年か前、
小学校の図書室に児童名作全集を贈り、
校庭に山茶花を植えにいって、
あかるい校舎を見てまわり、
秋月さんの愛くるしい女の子が、
授業を受けているのをのぞいたり、
したことがある。

それはいま、
波のようにうねり、
苦し気にもがいたさまで、
土砂に埋もれ、正面の壁に取り付けられた時計は、
「九時四十分」をさして停まっている。

記事によれば、山津波のあと、
住民は北の下三方の中学へ避難する者、
対岸へ避難する者、さまざまで、
小字ごとに確認が急がれたが、
風雨がはげしくて、連絡が取れず、
仕事ははかどらない。

誰と誰が助かったのか、
犠牲者が出たのか出ないのか、
状況が確かめられなかったが、
やっと、山崩れから五時間もたって、
生き埋め三人のほかは、全員無事、
ということがわかった、という。

記事の中に、

「『秋月さんはどこへ行ったんやろ』
『世良さんの家はどうなった』などと、
地元の人たちと消防団が協力して確認し合った」

というくだりがあり、
私は思わないところで、友人の名をみつけた。

秋月さんは、たいそう、頼もしい存在であるから、
こういう危急の場合、人々が頼りにするにまちがいなく、
一ばん人々に連呼され、さがし求められたのは、
秋月さんにちがいない。

私にはそのさまが目に見えるようであった。

あっという間の山崩れなのに、
それでも年より子供に至るまで、
二百人もの人間が逃げ延びたというのは、
陰にきっと、
はしっこい秋月さんの指揮があったに違いない、
と思われた。

土砂は六百メートル流れ、
高さ百五十メートルの山が三分の一削られて、
土砂を押し流し、水深四メートルの揖保川を埋め、
川の流れをねじまげている。

道路は寸断され、奥の部落は孤立状態である。

自衛隊は徹夜で復旧作業をし、
ヘリコプターが救援物資を投下しているということだ。

十四日になって、やっと、
山崎のスタンドへ電話がかかった。

その店にいる人は、

「お宅の別荘は大丈夫です。
渓谷へ入る道は何ともありません」

といってくれた。

私は、私の小屋のことなど、
もう考えにも入れてなかった。

こんなにえげつない「運命」の悪意を、
思い知らされたあとは、「運命」の奴が、

「へへへへ。
別荘は助けてあげましたぜ。
これも意外やったやろ」

といっているようで、けったくそ悪い。

むしろ私は、私の小屋が助かったことを、
村の人のために喜んだ。

「あそこの家にあるもの、
お蒲団も食器も、電気製品も、
み~んな取り出してみなさんで分けて使って下さい。
何でも使って下さい」

といっておいた。

店の人は、大回りして山越えで、
明日は行ってみるという。

自衛隊が警戒して通してくれないが、
元気ではいるらしい、ということだった。

私は、福知の村の災害に、
何か私が責任あるような気がして、
ショックを受けている。

私と運命の一騎打ちに敗れたために、
こんなことになったのだ、という気がしている。

私の力及ばなかったために申し訳ない。

夫はそんな私を見て、

「ええかげんにせえ!
前からおかしい、おかしい、思うてたけど、
やっぱりどっか、おかしいのんと違うか」

とバカにした如く、いう。

あんまりそんなことばかり考えてたせいか、
福知へ行く夢を見てしまった。






          


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10、山抜けて山河あり ②

2022年12月21日 09時28分51秒 | 「浜辺先生町を行く」  田辺聖子作










・私は、私の好きな、私の愛する人々のことを、
折にふれていつも考えていて、
元気で、うまいこといってほしい、
(それは人生でも仕事でも)
そうしていつまでも私と仲よしでいてほしい、
と思っているが、
長生きするにつれてだんだん、
そういう人たちが増え「運命」に対して、
守備範囲が広くなってきて、
近年、少し、手薄になった個所もあったかもしれない。

しかし、まさか、
あの山間の小さな村までやられるとは、
思ってもみなかった。

いちばん、無防御の部分をつかれた感じである。

私は、新聞とテレビのニュースで知って、
う~ん、と唸ってしまった。

この勝負、私と「運命」氏との勝負は、
まさしく私の完敗である。

(そういう手があったか)
と、私はまたもや唸ってしまった。

考えてみると、生まれて四十なん年、
私は「運命」氏とのたたかいにくたびれ果て、
いつもいつも、そういってきたような気がする。

私がトシとって、
老獪になってきたのに比例して、
「運命」氏も、同じように老巧になってきた。

だから、両者の差は、少しもちぢまらない。

昭和五十一年の九月十三日、
居座り続けた台風十七号のもたらした長雨で、
村の背後の山が崩れ、一村四十戸、
山津波に吞まれてしまった。

兵庫県の地図を見ると、
私のいう、「運命」氏の悪意がよくわかる。

姫路から鳥取へゆく国道二十九号線を、
曲里(まがり)という所で捨てて、
三方川に沿って北上してゆく。

文字通り、山また山の谷川道である。

広い兵庫県の地図の西、
茶色に塗られた山地である。

文字は小さくほそく、
あるかなきかになって、
虫メガネで見なければならない。

たんねんに、村や字の名をたどってゆくと、
やっと「福知」という字が捉えられる。

ほんとに、
針の先の一点で突いたような小村である。

そういう極微な一点に、
日本でもきわめて珍しい、
「基岩崩壊」がおこり、
史上まれな大規模な山くずれになるというのは、
どういうことだろう。

「広い日本の、
おまけにどこにも無人の山や谷はたくさんあるやないの、
そこで起ったらええのに、
なんで福知の村で、起らんならんか、
それが、私には腹立つ」

と私は叫ぶが、夫は、
何いうとんねん、という顔で取り合わず、

「そら、しゃあない」

と一言で片づけた。

でも私は、それ故に「運命」の悪意を感じる。

たまたま私の友人のいる村に起った悲劇、
というのではなく、
私の友人がいるから、「運命」が悪だくみをした、
という気がして、ならない。

「あ。
やっぱりちょっと、いかれとるのんちゃうかなあ。
ノイローゼやで」

と夫は相手にしない。

しかし、そのうち、
テレビのニュースに何べんも報道され、
私の友人からも、電話がかかりだして、
私はその応対やら、
福知の人々の安否をたしかめるのに追われた。

十三日の早朝だ。

福知の山よりの民家が一軒、
山崩れに会い、一家六人が生き埋めになった、
というニュースが入った。

私の知らない人たちだったが、
助けにいっている消防団や青年団の中には、
秋月さんや局長、センセも入っているにちがいなかった。

夕方になって、
福知の村に大きい山津波が襲った、
というニュースを耳にした。

連絡は途絶して、
様子はかいもくわからない。

私の家へは、
友人や私の家族、
別荘の小屋へ行ったことのある人々が、
次々電話をかけてきた。

秋月さんやその家族の安否もわからない。

秋月さんは、南の方の山崎という町にも、
ガソリンスタンドを経営しているので、
そこへ電話してみたが、
かからなかった。

テレビのニュースでは、
自衛隊が入っている、ということである。

私は仕事もあったのだが、
何も手につかなくて、新聞を待っている。

十四日の朝刊に、
大きな記事が載っている。

いちばんくわしく、
また迫力あるのは、
目の前で山崩れを見た、
神戸新聞の記者が書いた記事である。

早朝の一家六人の生き埋めを救助するために、
村の男たちは総出であたり、
女たちは炊き出しに狩り出されていた。

六人のうち、三人まで救出し、
怪我はしているが元気だったので、
病院へ運ぶ手配をしていた。

救出されたのは主婦と二人の子供である。
老夫婦と主人はまだ埋まったままで、
生きているのか死んでいるのかもわからない。

区長が、救助作業員の昼の炊き出しを指図するため、
小学校へもどってきた。

ふと山を見ると、
「抜山(ぬけやま)」と名づけられた、
村の背後の山が、崩れかかっている。

「山が抜けるぞ!逃げろ!」

と携帯マイクで絶叫した。

町の助役が救助作業を見舞いに来ていたが、
これも急いで小学校の放送室に飛び込み、

「山が抜ける、みなさん、早く逃げて下さい!」

住民は三方へ逃げた。

県道を南へ、北へ逃げる者、
揖保川にかかる西深橋を渡る者、
記者は「クモの子を散らすように」逃げた、
といっている。

人々は家へとって返し、
寝たきりの老人、赤ん坊、子供を担ぎ、
背負って逃げるのが精いっぱいだったそうである。

住民二百人、
ほかから手伝いにきていた消防団二百人、
奇蹟的に逃げ終わった直後、
抜山は真っ二つに割れ、
土砂は、
「火山が噴き上げた溶岩のようにドロドロ流れた」
という。

「樹齢五十年以上の杉やヒノキの大木も、
マッチ棒のように山すそに折れ、重なった。
映画『日本沈没』を地でいくような悪夢の三十分だった」

と記者は報道している。

まだ現場には山崩れが断続的に起り、
近づくこともできないそうである。






          


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10、山抜けて山河あり ①

2022年12月20日 09時20分55秒 | 「浜辺先生町を行く」  田辺聖子作










・私は小さいときから、
運命というものを一個の人格のように考えていた。

運命はたいそうイタズラ者である。
そうして底意地のわるい所がある。

こっちの思惑を巧みにはぐらかすこと、
天才的なものがある。

ああか、こうか、考えられる限りの幾通りもの、
予想を用意しておく、と必ず運命は、
その網の目をくぐって、
とんでもない所に顔を出し、

「や~い、ここまでおいで、甘酒進上」

なんて手を拍(う)ってはやしたてる。

少女時代、
私は自分が生まれ育った家が、
どういう形で変化してゆくか、
漠然とした好奇心を持っていた。

やたらにだだっ広く大きくて、
人がごろごろしていて、
不思議な間取りで、
渡り廊下やかくし階段や、
日の射さない路地、
二つある暗室、
(私のうちは写真館であった)
物置きやらその向こうのもう一つある押し入れ、
不思議なものがいっぱいあるこの家を、
私は半分、人のもののように、
何か自分の身につかない借り家のように思っていた。

そしてそれを、

1、私はやがて上級学校へ入って、
  寮か下宿住まいをするから、
  この家と別れる。

2、今は信じられないが、
  お嫁さんになってこの家を出てゆく。

そんな予感があるから、
年をとるまでこの不思議な家に居つく私が、
想像できないのであろう、
と考えていた。

そのくせ、
屋根の低い、大阪商家風のこの家の二階を、
なつかしく、いつもしみじみした気持ちで過ごしていた。

私は文学少女だったから、
この部屋で小説や詩を書き、
水彩画を描いて、
一人の午後をたのしむのだった。

そんなとき、
言葉としてはヘンだけど、
何かこの家は(添い遂げられない、なつかしさ)
みたいなものを感ずるのだった。

そのくせ、どう考えても、
上の二つの場合のほか、
私がこの家と別れることは、
ないように思われた。

ところが、それが空襲で炎上したのである。
私が十七歳、終戦二ヵ月前であった。

あの古ぼけたなつかしい家は、
私の記憶の中にしか、残らなくなった。

そういう形で別れることは思いもかけなかった。
私は、

(ヒヒヒヒ、こういう手があるのだぞ)

とカードを示して嗤っている、
運命の悪意を感じた。

なぜか私は、運命に好意を感じたことはない。
しかく、意表を衝く、ということは、
ある種の悪意である。

私はその生まれ育った家に関する限り、
テレパシーがあったと信じている。

ただそれが弱いものだったため、
空襲という異常な場合を想定出来なかっただけである。

もし強い人ならば、
きっと(この家は焼け落ちるが、ただの火事ではない)
などと予知していたかもしれない。

だから、底意地わるい運命というのはまちがいで、
本当は、運命は意地がわるいのではなく、
いろいろな現象によって、
本人に事前に知らそうとしているのに、
こちらが鈍くて、それを察知し得ず、
意表を衝かれたと思い込んでいるのかもしれない。

まして、私の運命人格論などは、
むしろ夫の当惑を買う。

ひらたくいえば、夫は私が本物の阿呆か、
分裂病ではないかと疑っている。

私はヤッキになって、

「ほんまやから。
・・・事実が予想してたことと外れるとするね、
すると必ず私には、
(や~い、こうなってたんや、知らなんだか、まぬけ)
という声が聞こえるのやから」

というと、
夫はまた疑わしげな一べつを、私に向けた。

運命の神が、いつも思いがけない手を見せて、
こっちをびっくりさせるという悪い趣味を持っているのを、
私はつねづね、ヒシヒシと感じているのだが、
それをほかの人に知ってもらうことはむつかしい。

私は「運命」の悪意から、
私や、私の親しい人を守るべく、
いろんな場合を想定している。

お袋や私の弟妹、そのつれあい、子供、
夫や夫のきょうだいやその一族、
私の友人知己、大好きな人々、
要するに私をとりまく世界の、
私が大切だと思う人たちの不幸、
彼ら彼女らと死別生別するときの辛苦、
そんな場合をいろいろ想定して、
もう何があってもおどろかない、
と思うように自分を訓練しているのである。

仲良くしていればしているほど、
死別生別の想像も強くなってゆく、というが、
私にとっては、必然的なことなのである。

そうしてその考えは夫にどんなに嗤われても、
「運命」が、悪意ある超自然の存在である以上、
私も対抗上、自衛しておかなくてはならぬのであった。

しかしながらやっぱり、「運命」にはかなわない。
一枚、役者が上手である。

こんどは思いがけないところをやられた。

私が小さな小さな別荘を持っている村の、
仲良くしている青年団長の秋月さんをふくめた、
一村四十戸が、山津波に押し流され、
村ごと埋没してしまったのである。






          


(次回へ)

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9、なま栗をたべる ⑦

2022年12月19日 09時10分33秒 | 「浜辺先生町を行く」  田辺聖子作










・「医者の卵け」

「そうです」

「キャンプはええけど、
川原で寝よると蛇が来るぞ。
細(こ)まい蛇で毒はないけどな」

学生はすくみあがり、
ついで、なさけなさそうな声で、

「あのう、
お金払いますから、
何か食うもんないでしょうか」

「めし持って来てないのか」

「縄文ごっこをやっているんですが、
川の魚は釣れないし、
山には何も食うもんなくて」

学生は半ば、涙声になっていた。

この青年は、夏休みに友人に誘われ、
縄文ごっこを試みようと思い立ったそうである。

全く、見知らぬ土地で、何も身につけず、
縄文人さながらの原始生活をやろうと、
意気込んでいたのだが、
夕べは何とか、
持ち込んだ乾パンと水で飢えをしのいだものの、
魚も釣れず、山菜もなく、
二日目はもう食べるものもなくなり、

「いま、友人が川原でトカゲ焼いてますが、
僕はどうしても食う気がしません・・・」

「何、トカゲ。
あらうまいもんやぞ。
あれが食えんなら、
縄文ごっこも大したことでけん・・・
それより、どこで火たいとる」

秋月さんは、
学生らが飢えようが飢えまいが、
知ったこっちゃないが、
山火事でも起されてはどんならん、
という気があるらしかった。

我々の家のつい近くの川原に、
青年がたき火をしていた。

「こんなところで燃やされてはどんならんがな。
家が近いのに」

と秋月さんは文句をいったが、
不親切なわけではない。

私をふり返って、

「めし、残りもんでもやりまほか」

ときいた。

魚も山菜も、まだ残っている。
私は、この二人の縄文人にさし上げてもよいといった。

「あない、いうたはる。
ほんならよばれなさい。
ほんで、寝るのは、
食堂のコッテージ借りたらええやろ」

「すみません」

「どうも」

と青年たちは息を吹き返したようについてきた。

宮本さんは、たき火を踏み消し、
ついでに「よう焼けとる」といいながら、
トカゲを食べてしまった。

青年の一人は、
たまらないように家に入るが早いか、
煙草を吸った。

もう一人の青年は、
眼鏡をかけていないが、
しかしやはり背がひょろひょろと高く、
どこかたよりなげな体つきである。

彼の方は、
お酒と、焼き魚に、
たまらなくなったのか手を出した。

「いい匂いが流れてくるので、
つい辛抱できませんでした。
一杯いただきます」

「ああ、どうぞ」

夫は酒をついでやった。

「縄文時代には、酒も煙草もないやろが」

秋月さんは意地悪をいっている。

「いや、ちょっと今だけ、現代にかえります」

「都合のええ遊びやのう」

「しかし、意外に、
戸外では食べものがないもんですね」

青年二人は、
私が作ったにぎりめしをぱくつき、
酒を飲み、ヤマメを食べたせいで、
とみに元気を盛り返している。

「手ぶらで自然の中で生活する、
なんてことは出来るもんではないですねえ」

「そんなもん、慣れたもんでないとそら、でけんわ。
魚釣りにしろ、素人が釣ってすぐヤマメが上がったら、
誰が苦労するか。
山に生えとる草、食べられるもんと食べられへんもんと、
見分けがつくか、
そんなチエのない人間は赤児と同じやさけ、
赤児を山の中へ抛りだしたかて、
飢え死にするのと一緒や。
あんたらに、縄文ごっこやたら、
できるはずがない」

「何しろ、そういう生活のチエは、
大学では教えてもらえないからなあ。
東大医学部では」

とまた眼鏡の青年はいい、夫は、

「なん吐(か)しけっかんねん」

といって、奥の間へ入って、
センセや宮本さんと飲みはじめた。

夫は自己顕示欲の強い人間に、
拒否反応をおこすほうである。

でも、この青年が「東大医学部」を連呼したって、
私も別にホンモノかニセモノか、
確かめる気もしないが、
しかし、それ故にこそ、
私にはホンモノのように思えた。

ニセモノなら、
もっと奥ゆかしく振る舞うかもしれない。

秋月さんは東大だろうが、医学部だろうが、
何を聞いても屁とも思わないという顔で、

「あんたらみたいなもん、そら無理やで。
なま栗食べて、あけび食べて、
マムシ捕って焼いて食うようでないと、
縄文ごっこやたら、野宿やたら、
そら、無理、ちゅうもんやわ」

といってきかしていた。

青年たちは今は、
秋月さんの言葉も耳に入らず、
食事をむさぼっているようであった。






          


(了)

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9、なま栗を食べる ⑥

2022年12月18日 13時14分14秒 | 「浜辺先生町を行く」  田辺聖子作










・しかし、秋月さんは、
全く、昔のままというのではなかった。

「指落いて腹立つのは、
テレビで歌手が歌うているのを見るときですなあ」

といっていた。
なんでや、というと、

「あいつら、マイクを、粋がって持って、
二本指ではさんだり、
三本指でちょいとひっかけたり、してまっしゃろ。
あれを見たら腹立ってなあ。
そんなことしたら拇指、可哀そうやないか、
ちゃんと持て!いうて、テレビに怒鳴ったんねん」

宴が果てて、みんな帰ってしまうと、
寒気が急にきびしく感じられた。

何しろ、
花を活けた花瓶の水も凍ってしまう所である。

秋月さんは、
私たちの持ち込んだ石油ストーブのほかに、
もう一つ、自宅のストーブを持ってきて、

「二つ、つけっ放しにしときなはれ、
そうでないと凍死しはるかもしれん」

とコマゴマ注意を与えて帰った。

そうして電気こたつにもぐりこむように、
布団を敷いて寝ろ、と注意した。

それでも、なお寒気はきびしく、
どことなく、しんしんと寒さが骨を噛むようであった。

川の水も凍りそうだった。
その代わり、
星のすさまじいばかりの美しさといったらない。

翌朝、布団も片づけないうちに、

「お早うございます!」

と秋月さんは元気よく、やってきた。

「いや、石油が切れとらへんかと思うて、
夜中にストーブの石油が切れて、
凍えはったらいかんというので、
女房(よめはん)が、早う行ったげなさい、
とせかすもんやさけ」

秋月さんは、
せっせと石油をつぎ足しながらそういう。

そしてガラス戸を開けようとして、
カーテンが凍ってガラスにくっついているのを見、

「お、お。
カーテンがくっついとるわ。
さすが川上は寒いな。
下のワシらのとこは、
これほどでもないが・・・」

そこへ局長らがまたまた、

「お早う!」と来たので、

「これ、見いや。
カーテンが凍りついとる」

と示して、興味深げだった。


~~~


・しかし、夫はそのあと、
しばらく渓谷の小屋へ行かなかった。

秋月さんが、指を飛ばして、
いろいろ考えたり苦労したり、
腹立てたり、やっさもっさして、
一人苦しんで一人解決をみつけたりしているのを、
見るのが辛い、という。

「あの歌手のマイクの話しよったやろ、
あれはやっぱり、ノイローゼやなあ。
本人気ぃつかへんけど」

と夫はいった。

しかし、私は、秋月さんが夫婦仲のいい人なので、
救われる思いである。

奥さんは小柄なかわいらしい人で、
秋月さんと同じように、
よく働く気の利いた人だが、
秋月さんの事故を聞いたときは、
卒倒した、といっていた。

私は、秋月さんの野性味が、
その事故によってそこなわれるのが遺憾であった。

身体障害者の不自由に目覚め、
障害者の無料洗車を志したり、
習字の練習に打ち込む、
そのこと自体はいいが、
何だか、たいそう立派な一日一善でもしそうに見えて、
もうターザンや冒険ダン吉のように、
体一つあれば自然の中で生きてゆく、
原始人間の野蛮な生命力を失ってしまいはしないかと、
淋しかった。

ことに「なま栗」の皮を爪で剥くことは、
文字通り出来なくなってしまったんだし・・・

しかし、秋月さんはやっぱり秋月さんだった。

「天然の鮎を食べにおいでなはい。
養殖もんのばっかり食べていると、
匂いも何も分からんで」

という電話をもらって、
夏になってから出かけてみると、
もうすっかり、秋月さんは元気になっていた。

包帯も取り、
何だか右手の感じはむくむくとして見える。

私は怖がりなのと、
失礼に当たってはいけないという配慮で、
まだ正視したことはない。

しかし秋月さんは四本の指で、
ものを持ち上げたりハンドルをとったり、
煙草を吸ったり、生まれた時からそうだったような、
傍若無人なさまでふるまっていた。

事実、
何か所もガソリンスタンドを経営する秋月さんにしてみたら、
指の一本二本落としたからといって、
じっと正座して、来し方行く末を考えてるひまなぞ、
ないのであろう。

その日は早めに風呂に入り、
またまた、鱒の刺身や、鮎とヤマメの塩焼きで、
酒を飲んだ。

谷間のご馳走は、海魚こそないけれど、
川魚は豊富だ。

そうして鮎の天然ものときたら、
白い魚肉もハラワタもみな、
ぷ~んと香りが立つようである。

これは宮本さんが釣ってくれたものだった。

いい気持で歌が出て、
楽しくやっていると、
とっぷり暮れたころ、

「こんばんわ。こんばんわ」

と男の声が玄関で聞こえる。

ここは隣家といっても、
四百メートルも離れている山中の一軒家であるが、
夜、このへんの川上まで遡ってくるハイカーはいない。

男たちは歌と手拍子をやめ、
秋月さんがすぐ立っていった。

「何ですか?」

「あのう、すみませんが、煙草を分けて下さい」

という声は若い男である。

「サラの煙草はないから。これを上げる」

と秋月さんは持っている煙草を与えた。

「お金払います」

「いや、飲みさしやからあげるよ。
しかし、あんた、どこに泊っているのや。
車の音もせなんだが、歩いて来たのか?
渓谷食堂に泊っているなら、
煙草の買い置きがあるやろうに」

秋月さんはさっそく、
好奇心を出して聞いていた。

男は東京弁である。

「いえ、あのう、野宿しています」

「キャンプ張ってるんか」

「どういうかな、ムシロかぶって寝てるんです」

「ヒッピーか、お前ら。
この村にややこしいもん入られてはこまるなあ。
そのためにワシら、札束で頬っぺた張られても、
川筋の土地は売らんように見張っとるのやさけ」

秋月さんは怒っているのではなく、
好奇心を持って聞いているのである。

私たちは、玄関へ出てみた。

体格の貧弱な、眼鏡をかけた若い男である。

男は、どやどやと中年男女が出て来たのに、
少しびっくりしたようであったが、

「あのう、別に怪しいもんじゃないです。
友人と二人、川原で泊ってるんです。
ヒッピーなんかじゃありません。
僕は東大医学部に在学中のものです」






          


(次回へ)

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