・私は子供のころ、祝儀、不祝儀を問わず包紙の裏に書かれる金額の、
「一金 拾圓也」の「也」の字を「や」と読んでいた。
漢字を崩してあるので平仮名の「や」に見える。
なぜ「です」と丁寧に書かないのだろう、と思っていた。
昭和十年前半の小学校では標準語が敬語になっていて、
「です」「ます」という言葉を使うように教育された。
その結果、大阪弁は下品なものと貶められた。
大阪弁にも敬語はあるが、その頃は死語になっている。
「だす」という語尾が敬語であったが、古めかしすぎる。
「ごわんな」「ごわへん」「ござります」などの丁寧語を、
大人たちは使っていたが、
昭和の子供はそんな旧幕時代の言葉は使えない。
敬語はすべて標準語に統一されるのは当然。
しかしいかなる標準語も日常の中へ入りこめない。
現在(昭和五十年代)はテレビ、ラジオ、映画の影響で、
標準語は大阪弁を蚕食しつつあるが、
どうしても染まり切れないのが語尾である。
そうであるとすると、語尾こそ大阪弁を形づくる特徴といえる。
・その中で最も耳にたつのは「や」であろう。
京都弁の「え」はいかにも優美なのに「や」は下品。
「そうえ」「お休みしたらどうえ」の大宮人のゆかしさに対し、
「そやそや」「何や、どないしたんや」のはしたなさ。
そのくせ向こう意気は強くない。
「や」はもともと「じゃ」からきたもの。
東京弁ではこれが「だ」になる。
「だ」と「や」はまるきり響きが違う。
演説の最中、サクラが「そうだっ!」と入れるとぐっと盛り上がる。
ここへ「そやそや」と入れると腰砕けも甚だしい。
むしろ、冷やかしのように聞こえ目的を果たせない。
「や」についでは「な」「ねん」「わ」がある。
東京弁の若い女の語尾は「わ」「わよ」「ね」がつくので、
東京弁で書かれた小説は男は男らしく読まれ、
読みならわされる。
しかし、私は東京弁で書かれた小説の老婦人の使う言葉が、
男か女か分からなくて味気ない思いをする。
中高年女性はたいてい、
「そうかい」「いやだねえ」「行くのかい」「いけないよ」
などと色気ない男っぽい語尾である。
「知らんわ」「こんなこと言いよんねん」
「だまって行こな」「言いたいねん」
尤も下品な言葉になると、男性だけが使うものに、
「じゃ」と「どぉ」があり、「お前、何じゃ」「はっ倒されるどぉ」
などと言い、はっ倒されるのは本人ではなく相手。
その他に「わい」がある。
「今、行くわい」
しかし「わいな」とやわらいだ「な」がつくと女も使い、
「あいつ女房(よめはん)居るねんで」
「知ってるわいな」と女が言い返す。
「知ってるけど、惚れたんやからしょうがないやないかいな、
ほっといてんか」
こうなると手がつけられない。
「居るねんで」の「で」は東京弁では「だよ」
「ぞえ」の転訛。「行くぞえ」が「行くで」になった。
これが「て」になると少し意味が違う。
「わかってる、て。ボクも子供やない、て」
というと、「子供やないで」よりぐっと軽くなる。
「わいな」に対して「かいな」もよく使われる。
「命かけた女て これかいな」「ほんまかいな」
感嘆、疑問、をひびかせ、「そんなことするかいな」
否定を強める場合もある。
・もっとも大阪弁らしきもの、「てんか」
何々してくれ、という意味。
命令にしては強さはかなり薄められる。
それから「や」
「早くしろよ」と急かしたのではケンカになるところを、
「早うしてや」では「はいはい、お待たせしまんなあ」と、
ケンカにならない。
「早う ええ板場はんになりや」
「早う、ええむこはん見つけてや」
それに比べると「てんか」は強い。
「黙れ!」「出て行け!」などのセリフ、
「黙っててんか」「出て行ってんか」では、緊張感が緩和される。