<夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるを
雲のいづこに 月宿るらむ>
(夏の夜の短さよ
まだ宵のうちと思っていたのに
はや 白々と明けそめた
月は山の端に入るひまもなく
雲のどのあたりに
宿っていることやら)
・『古今集』巻三・夏の歌に、
「月のおもしろかりける夜、暁がたよめる」
として出ている。
夏の歌は、藤の花からはじまり、
(太陰暦の四月)、
ほととぎす、花たちばなの五月、さみだれ(梅雨)、
卯の花ときて、六月の短夜、蓮の花、
そして旧暦六月が終れば、立秋である。
深養父の歌は六月晦日の歌二首めにあるので、
旧暦六月下旬ごろ、
この頃は下弦の月で、月の出は遅い。
そのくせ夜明けは早く、
日が出ているのに月はまだ中天にある風情、
「まだ宵ながら明けぬるを」は、
いまも私たちが目にする実景スケッチである。
清原深養父の詳しい生涯はわからない。
十世紀前半の人、官吏としては人生は不遇だったが、
勅撰集には四十一首も入っていて、
歌人としての名を永久にとどめた。
尤も深養父は藤原公任の三十六歌仙には洩れている。
公任には認められなかったらしい。
しかし深養父は三百年ほど後になって、
俊成に認められ『古来風躰抄』にこの歌が採られている。
歌のほかにも彼の名は残った。
かの『枕草子』を書いた清少納言の曽祖父としてである。
清少納言の父、元輔は深養父の孫にあたる。
清少納言は由緒ある歌人の家柄に生まれた女であった。
だからかえって気楽に歌が詠めない。
お仕えする一条天皇の中宮定子のサロンで歌合わせがあっても、
仲間に入らない。
中宮に、
「元輔が後裔といはるる、君しもや、
今宵の歌に はづれてはをる」
とからかわれる始末。
清少納言はすぐに、
「その人の のちといはれぬ身なりせば、
今宵の歌を まづぞ詠ままし」
(歌人の娘、といわれぬ身でしたら、
今宵の歌もまっ先に詠んでお目にかけるのでございますが)
と返した。
しかし歌はともかく、散文の分野で、
清少納言は父祖の名と家柄を恥ずかしめぬ仕事を残した。
(次回へ)