<長からむ 心も知らず 黒髪の
みだれて今朝は ものをこそ思へ>
(あなたのお気持ちは末長く続くのかしら
どうかしら
私には確信が持てない わからないわ
ゆうべの 恋のさ中は
信じられるように思ったけれど
今朝は千々にみだれるこの黒髪のように
わたしの心もみだれずにはいられないの)
・さきの「瀬をはやみ」の歌の作者で、
崇徳院の母君・待賢門院の名を、
覚えていられるに違いない。
鳥羽天皇の中宮(皇后)であったが、
養父の白河法皇の子といわれる崇徳院を生んで、
関係者の間に奇しき愛憎と確執の種をまいた、
美しい后。
待賢門院堀河というのは、
この門院に仕えた女房の呼び名である。
中世の女性の名前は、
むつかしくて男女いずれか分からない。
この当時のならわしとて、
女性は実名をあからさまにしない。
勤務先のあるじの名をあげて、
所属をあきらかにし、
次いでその下に候名をくっつける。
その候名も父兄の官職であるとか、
住んでいる場所であるとか。
さて、この歌、
何とも品のいいエロチシズムにあふれている。
「長からむ」も「みだれて」も黒髪に絞られる。
みな「髪」の縁語である。
これは「百首歌奉りける時恋の心をよめる」
として『千載集』に出ているが、
恋歌でいう「今朝」は逢った翌朝、
後朝(きぬぎぬ)である。
ふつうの意味の朝ではなく、
恋のあとであるから、
夜は歓喜の絶頂にいただけ、
朝はそのゆりかえしがくる。
恋人の心を信じたいが、
一抹の不安がのかない。
やるせなさと恋しさに心が乱れ、
衣に乱れた黒髪の上に身を突っ伏して、
女は嘆くのである。
王朝の女の髪は長い。
この堀河は、
当時有数の女流歌人として名高かっただけに、
技巧も凝らされていて、しらべも美しい。
西行法師の『山家集』には、
この堀河との歌の贈答が出ている。
歌人同士として友情を育てていたようである。
もっとも西行は徳大寺家に仕えた人なので、
徳大寺家出身の待賢門院に心を寄せ、
親近感を持っていたから、
門院サロンの女房たちとも親しかった。
堀河は西行出家ののち、
こんな歌を贈っている。
<この世にて 語らひ置かむ ほととぎす
死出の山路の しるべともなれ>
(ほととぎすよ 生きているうちに約束しておこう
死出の山路の案内人になっておくれ)
ほととぎすは、
あの世の旅の案内人といわれる。
この歌でのほととぎすは、
出家した西行を指している。
西行の返歌は、
<ほととぎす なくなくこそは 語らはめ
死出の山路に 君しかからば>
王朝末期らしい、
陰惨でメランコリックな歌である。
堀河が黒髪の乱れに、
物思った相手の男はどんな人だったであろう。
『群書類従』にある、
『待賢門院堀河集』によると、
「ぐしたる人のなくなりたるをなげくに、
をさなき人の物語するに」
という詞書を添えられて、
<いふかたも なくこそ物は 悲しけれ
こは何事を 語るなるらむ>
とあるから、
幼い子を置いて夫は亡くなったのであろう。
彼女の黒髪を賞でて撫でた男は、
その人だったのだろうか。
永治二年(1142)二月、
待賢門院は落飾される。
その前年、
崇徳帝は皇位を逐われていられた。
薄幸なわが子に、
門院は殉じられたのかもしれない。
堀河もまた門院に殉じる。
彼女も出家してその黒髪は切られたが、
その歌は長く残った。
(次回へ)