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<ほととぎす 鳴きつる方を ながむれば
ただ有明の 月ぞ残れる>
(ほととぎすが一声鳴いてゆく
声のした空を見上げれば
ほととぎすの姿はみえず
夢かうつつのようにはかない
有明の月一輪)
・平明な歌で、品もよく、
古来から人々に愛誦されてきた歌。
この歌は『千載集』夏の部に、
「暁に聞く郭公といへる心を詠み侍りける 右大臣」
として出ている。
後徳大寺左大臣とは、
藤原実定(さねさだ)のこと。
祖父の実能(さねよし)が、
徳大寺左大臣と呼ばれていたので、
実定を後徳大寺と呼んで区別する。
建久二年(1191)五十三歳で死去。
この歌を詠んだ右大臣のときは五十歳前後。
五十でこの歌をよむまでに、
実定はどんな人生を過ごしてきたのだろう。
彼が二十歳前後のころ、
保元・平治の乱があった。
やがて平氏が興り、
清盛一門がわが世の春と奢った。
古い家柄の貴族たちは、
誇りだけを抱いて不遇だった。
中には平家と結んで栄える貴族もいたが、
実定はつかず離れず、適当に身を処していた。
公家世界の常で、
権勢のあり場所には敏感だったが、
そして官位昇進の野心も人並みに強かったが、
世故にたけて、バランス感覚のあり実定は、
じつにうまく立ち回って、
敵を作っていない。
政治家というより、
文化人として印象づけようとしていた。
彼は俊成の甥にあたり、
定家のいとこである。
もっとも実定の歌は、
歌人というより、
文化人のたしなみといった、
ゆったりと品のいい匂いがある。
そのうち、平家一門は福原に遷都し、
幼帝の安徳帝はじめ、
後白河法皇、高倉上皇、宮廷人はみな、
新都に移らねばならなかった。
実定もむろん従ったが、
中秋名月の月をぜひとも京で見たくなり、
清盛にことわってから京へ出かけた。
京は早くも寂れ、
「門前草深く 庭上露しげし」と、
『平家物語』にはある。
実定が訪れたのは、
近衛河原の大宮御所で、
彼の異母妹にあたる大宮多子が住んでいられた。
徳大寺家は美女系らしく、
多子も美貌をうたわれ、
近衛・二条、両帝の后に立ち、
世に「二代の后」とはやされた人である。
しかしそれも二十年も前のことになってしまった。
大宮も四十を越していられたろう。
両帝に死に後れられた淋しい境遇であるが、
大宮のもとには風流を解する女房たちが仕えている。
「京の月が見たくて福原より参りました」
実定が参上すると、
大宮はなつかしんで、
しみじみ来しかた行く末を物語られる。
折しも有明の月が出た。
実定は即興の今様を歌った。
<古き都にきてみれば
浅茅が原とぞ荒れにける
月の光は隈なくて
秋風のみぞ身にはしむ>
大宮も女房たちも涙を浮かべた。
京に愛着のある都びとは、
荒れる京がいとおしくてたまらなかった。
そういう世人の無言の反発に負けたように、
命運尽きた平氏は西海へ落ちていった。
そしてあれほど奢り栄えた一門が、
海の藻屑と消えた。
都はまた京へ戻った。
平家の代わりに木曽義仲が権勢をふるったが、
まもなく源義経に追われ、
その義経もまた兄・頼朝にほろぼされた。
そのさまを後白河法皇はじめ、
宮廷貴族はじっと眺め生き抜いてきた。
その中に、いまは内大臣となった実定もいた。
西海で救われ、
京へ送られて落飾された建礼門院を、
法皇が大原へ訪ねられたのは、
文治二年(1186)の春。
四十八歳の実定も従った。
尼姿の女院を見ることは、
さながら人生の転変を目のあたり見る思いであった。
折からほととぎすが鳴いて過ぎた。
<いざさらば 涙くらべむ ほととぎす
われも憂き世に 音のみぞなく>
女院は詠まれ、
実定は庵室の柱に書きつけた。
<いにしへは 月にたとへし 君なれど
その光なき 深山辺の里>
五十になった実定は、
ひとり思う。
生涯は、戦乱ばかりではない、
治承元年の大火、元暦元年の大地震も経験し、
この世の地獄も見つくした気がする。
「ただ有明の月ぞ残れる」
うつろいやすいこの世に、
残ったものは何だろうか。
自分にとっての月というのは、
何を指すのだろうか、と。
しかし、京のお公卿さんは、
しぶとう、したたかに生き抜く。
関東の源氏なんか三代で亡んでしまっている。
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(次回へ)