・仏に願を立てるためなので、
歩いて行くことに決めた。
姫君は慣れないことなので、
辛く苦しかったが、
人々のすすめるままに夢中で歩いた。
(お母さま、
もう亡くなっていられるにしても、
わたくしをかわいそうと思われるなら、
いまおいでの所へお誘いくださいまし・・・
もし生きていらっしゃるなら、
お顔を見せて下さいまし・・・)
と仏に祈りながら、
しかし姫君は、幼いころに別れたので、
母君の顔さえおぼえていない。
辛うじて、椿市(つばいち)という所に、
四日目の巳の刻(午前十時)、
たどりついた。
姫君はここまで歩いて来るのがやっとで、
もう足が疲れて歩けない。
仕方なくここで休むことにした。
姫君の一行は、
頼りにする豊後の介のほかは、
弓を持った家来二人、
下人二人、童など三、四人、
女は姫君はじめ乳母たち三人に、
下女が二、三人ばかり。
人目に立たぬよう、
ひっそりした一行だった。
宿のあるじの僧が来て、
「予約してあった方を、
お泊めしようと思っていたのに、
誰をいったい泊めたのだ。
勝手なことをしおって・・・」
と叱る声が聞こえる。
一行は不快な気持ちでそれを聞いていると、
なるほど、僧のいう通り、
参詣の人々がやってきた。
これも歩いて来たらしい。
相当な身分らしい女が二人いた。
供の下人は男女とも数が多く、
馬を四、五頭曳かせていた。
目立たぬようにしているが、
かなりの家の人々であるらしく、
僧はその人々をどうしても泊めたいらしい。
僧は部屋の確保に奔走していた。
姫君の一行は気の毒とは思うものの、
今から宿を替えるのもわずらわしく、
相部屋ということになった。
その代り、
供の人々は別棟に移らせ、
姫君はじめ乳母たちだけ、
部屋の隅に残って、
幕のようなものを引きめぐらしていた。
新しい客たちが、
案内されて入ってきた。
この人々も無作法な客ではなかった。
どちらもひっそりと、
互いに双方、遠慮しあって、
物静かな相客同士である。
なんという偶然であろう。
あとから来た新しい客というのは、
常日ごろ、姫君の行方を恋い慕っている、
右近なのであった。
年月の経つにつれ、
気骨の折れる奉公にも疲れ、
また寄る辺ない身の将来をも悩み、
姫君のことも案じられ、
この初瀬寺へ、
たびたび詣でているのであった。
いつものことで慣れた旅ではあるものの、
さすがに長道を歩いた疲れは堪えがたく、
物に寄りかかって臥していると、
隣の幕で仕切られた部屋で、
男の声がする。
どうやら食べものの話であるらしい。
「これを姫君にさしあげて下さい。
御台もなくて、申し訳ありませんが」
などといっている。
右近は相客の素性に興をおぼえた。
この男の鄭重な口吻や物腰から察するに、
自分たちと同じ階級の人ではないらしい、
しかるべき身分の人であろう。
それにしては人目を忍んで、
簡素すぎる一行である。
右近はすき間からのぞいた。
その男の顔に見覚えがあるが、
誰だか思い出せない。
それは豊後の介なのだった。
右近は、
豊後の介のずっと若かった頃しか知らない。
彼も今は太って色黒く、
身なりもやつれているので、
長く逢っていない右近にはわからない。
「三條、姫君がお召しになっているよ」
と男が呼び、
そこへ来た女を見て、
右近は「アッ!」と思った。
(知っている、この人も)
たちまち思いだされた、
この三條と呼ばれた女は、
亡き夕顔の御方に長いこと仕え馴れて、
かの五條の隠れ家までつき従っていた女だ。
(夢じゃないかしら)
右近は呆然とした。
この人々が仕えているあるじが、
何びとか、それを知りたい。
(この女に聞いてみよう。
あの男も、昔、兵藤太といった人に違いない、
今は何と呼ばれているか知らないけれど、
もしかしたら、
姫君もいらっしゃるかもしれない)
と思いつくと、
もうじっとしていられなかった。
仕切り幕の内にいる、
三條を急いで呼ばせた。
「お呼びになりましたのは私ですか。
どうもわかりませんねえ。
筑紫の国に二十年ばかり暮らしました、
卑しい私どもを、
ご存じだとおっしゃる都のお人があろうとは・・・
お人違いではございませんか」
と右近のそばへにじり寄ってきた。
田舎びた紅の練絹を下に着て、
見違えるように太って老けていた。
それを見る右近も、
自分の年齢が思われて恥ずかしい。
「もっとこっちへ寄って、
よくごらんなさい。
私よ。
おぼえていない?」
と三條に顔を向けた。
「まあ、あなたでございましたか!
やれうれしや。
おお、うれしや。
どちらからここへ?
そして御方さまは?
御方さまはいらっしゃいますか?」
と大声で泣き出した。
(次回へ)