むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

20、玉蔓 ④

2023年12月03日 11時24分40秒 | 「新源氏物語」田辺聖子訳










・仏に願を立てるためなので、
歩いて行くことに決めた。

姫君は慣れないことなので、
辛く苦しかったが、
人々のすすめるままに夢中で歩いた。

(お母さま、
もう亡くなっていられるにしても、
わたくしをかわいそうと思われるなら、
いまおいでの所へお誘いくださいまし・・・
もし生きていらっしゃるなら、
お顔を見せて下さいまし・・・)

と仏に祈りながら、
しかし姫君は、幼いころに別れたので、
母君の顔さえおぼえていない。

辛うじて、椿市(つばいち)という所に、
四日目の巳の刻(午前十時)、
たどりついた。

姫君はここまで歩いて来るのがやっとで、
もう足が疲れて歩けない。

仕方なくここで休むことにした。

姫君の一行は、
頼りにする豊後の介のほかは、
弓を持った家来二人、
下人二人、童など三、四人、
女は姫君はじめ乳母たち三人に、
下女が二、三人ばかり。

人目に立たぬよう、
ひっそりした一行だった。

宿のあるじの僧が来て、

「予約してあった方を、
お泊めしようと思っていたのに、
誰をいったい泊めたのだ。
勝手なことをしおって・・・」

と叱る声が聞こえる。

一行は不快な気持ちでそれを聞いていると、
なるほど、僧のいう通り、
参詣の人々がやってきた。

これも歩いて来たらしい。

相当な身分らしい女が二人いた。

供の下人は男女とも数が多く、
馬を四、五頭曳かせていた。

目立たぬようにしているが、
かなりの家の人々であるらしく、
僧はその人々をどうしても泊めたいらしい。

僧は部屋の確保に奔走していた。

姫君の一行は気の毒とは思うものの、
今から宿を替えるのもわずらわしく、
相部屋ということになった。

その代り、
供の人々は別棟に移らせ、
姫君はじめ乳母たちだけ、
部屋の隅に残って、
幕のようなものを引きめぐらしていた。

新しい客たちが、
案内されて入ってきた。

この人々も無作法な客ではなかった。

どちらもひっそりと、
互いに双方、遠慮しあって、
物静かな相客同士である。

なんという偶然であろう。

あとから来た新しい客というのは、
常日ごろ、姫君の行方を恋い慕っている、
右近なのであった。

年月の経つにつれ、
気骨の折れる奉公にも疲れ、
また寄る辺ない身の将来をも悩み、
姫君のことも案じられ、
この初瀬寺へ、
たびたび詣でているのであった。

いつものことで慣れた旅ではあるものの、
さすがに長道を歩いた疲れは堪えがたく、
物に寄りかかって臥していると、

隣の幕で仕切られた部屋で、
男の声がする。

どうやら食べものの話であるらしい。

「これを姫君にさしあげて下さい。
御台もなくて、申し訳ありませんが」

などといっている。

右近は相客の素性に興をおぼえた。

この男の鄭重な口吻や物腰から察するに、
自分たちと同じ階級の人ではないらしい、
しかるべき身分の人であろう。

それにしては人目を忍んで、
簡素すぎる一行である。

右近はすき間からのぞいた。

その男の顔に見覚えがあるが、
誰だか思い出せない。

それは豊後の介なのだった。

右近は、
豊後の介のずっと若かった頃しか知らない。

彼も今は太って色黒く、
身なりもやつれているので、
長く逢っていない右近にはわからない。

「三條、姫君がお召しになっているよ」

と男が呼び、
そこへ来た女を見て、
右近は「アッ!」と思った。

(知っている、この人も)

たちまち思いだされた、
この三條と呼ばれた女は、
亡き夕顔の御方に長いこと仕え馴れて、
かの五條の隠れ家までつき従っていた女だ。

(夢じゃないかしら)

右近は呆然とした。

この人々が仕えているあるじが、
何びとか、それを知りたい。

(この女に聞いてみよう。
あの男も、昔、兵藤太といった人に違いない、
今は何と呼ばれているか知らないけれど、
もしかしたら、
姫君もいらっしゃるかもしれない)

と思いつくと、
もうじっとしていられなかった。

仕切り幕の内にいる、
三條を急いで呼ばせた。

「お呼びになりましたのは私ですか。
どうもわかりませんねえ。
筑紫の国に二十年ばかり暮らしました、
卑しい私どもを、
ご存じだとおっしゃる都のお人があろうとは・・・
お人違いではございませんか」

と右近のそばへにじり寄ってきた。

田舎びた紅の練絹を下に着て、
見違えるように太って老けていた。

それを見る右近も、
自分の年齢が思われて恥ずかしい。

「もっとこっちへ寄って、
よくごらんなさい。
私よ。
おぼえていない?」

と三條に顔を向けた。

「まあ、あなたでございましたか!
やれうれしや。
おお、うれしや。
どちらからここへ?
そして御方さまは?
御方さまはいらっしゃいますか?」

と大声で泣き出した。






          


(次回へ)

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