むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

2、ミミズの心 ⑨

2022年10月30日 08時33分25秒 | 「浜辺先生町を行く」  田辺聖子作










・遠くの山脈にまだ少し雪が残るのが見え、
夕方の田舎は静かである。

住職や局長もあとから来た。
私は八田氏とすこし話をした。

八田氏は、歌の話などせずに、
生まれ在所の過疎村の話をした。

八田氏はいまは妻の実家のある村で、
農業をしているが、時折、山奥の在所へもいく。

七軒あった家が去年、雪が来る前に二軒が里へ下り、
五軒になってしまった。

無人の家はすぐ雪でいたんでしまう。
過疎になる原因は、「雪と猪ですなあ」
と八田氏はいい、猪の害がいちばん大きい、
何を作ってもやられてしまうので、
もう根気がなくなる、などという話をぼつぼつした。

何のケレン味もない、いい人柄の人だ。

鯉が、まるで生きたままの姿で運ばれてきた。
薄紅をのこした刺身がきれいに並んでいて、
あたまとしっぽと骨はそのままである。

白い紙が、あたまにあててあるが、
誰かが不用意にとると、
鯉は満身の力をこめて、ぴいんと跳ね、
こん畜生!というようで、

「おお・・・」

とみんなをびっくりさせた。

私は何となく、
(ミミズにも心はあった 先が腫れ)
という句を思い出している。


~~~


・講演から帰ってしばらくしたころ、
私に電話がかかった。

私は兵庫区の夫の家で仕事をしている。
尼崎にも仕事場はあるのだが、
だいたいは神戸で引きこもっている。

「もしもし、阿波野さんですね」

と電話の声はいい、私はそうだと答えた。

「こちらは山手の交番です」

私はすぐ、
あの時ののんびりした年輩のおまわりさんを思い出し、
電話の声に記憶がかぶさった。

「奥さんですか?」

と彼は確かめた。

「はい、そうです」

「え~と・・・え~と」

彼はしばしためらい、
電話口で絶句しているようであったが、
やがて思い切ったように、

「こんなこと、いうてエエかいなあ・・・
あのう、ご主人は、その、山手にもう一軒、
家を持っていられますなあ。
モシモシ・・・」

彼はたいそうためらっているように思われた。

「え~と、そこがこの間、泥棒に入られはって、
被害届があったんですが、聞いてはりますか?」

「ハイ、この間はどうもありがとうございました。
お世話さまでした」

と私はいった。

とたんに彼の声は打ってかわって、
歯切れよくなり、

「あ、奥さんだっか」

と晴れ晴れした。

「テレビやガウンやアイロン、
そんなん出てきました。
みつかりましたわ」

私はおまわりさんに礼をいって切ったが、
あとで気がついた。

このおまわりさんは、
あの時逢った私を、
山手の家に囲われている、
第二夫人とでも思ったにちがいない。

私はそういう配慮におまわりさんの年齢を感じた。
私は、そういう気づかいややさしみが好きである。

幕を引いて私を壇上に上がらせようとするやさしみ、
「・・・けど」と語尾につけるデリカシィが好きである。

私は、もしあるとすれば、
そういう「気づかい小説」というものを書きたいと思う。

山手の家は、掃除や泥棒の心配が負担になり、
とうとう売ってしまった。

松永君はいまも時折遊びに来て、
蔵書印を捺したり、気軽に頼んだ用をしてくれる。

もう本に写真を入れたらいいとはいわない。






          


(了)

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