・遠くの山脈にまだ少し雪が残るのが見え、
夕方の田舎は静かである。
住職や局長もあとから来た。
私は八田氏とすこし話をした。
八田氏は、歌の話などせずに、
生まれ在所の過疎村の話をした。
八田氏はいまは妻の実家のある村で、
農業をしているが、時折、山奥の在所へもいく。
七軒あった家が去年、雪が来る前に二軒が里へ下り、
五軒になってしまった。
無人の家はすぐ雪でいたんでしまう。
過疎になる原因は、「雪と猪ですなあ」
と八田氏はいい、猪の害がいちばん大きい、
何を作ってもやられてしまうので、
もう根気がなくなる、などという話をぼつぼつした。
何のケレン味もない、いい人柄の人だ。
鯉が、まるで生きたままの姿で運ばれてきた。
薄紅をのこした刺身がきれいに並んでいて、
あたまとしっぽと骨はそのままである。
白い紙が、あたまにあててあるが、
誰かが不用意にとると、
鯉は満身の力をこめて、ぴいんと跳ね、
こん畜生!というようで、
「おお・・・」
とみんなをびっくりさせた。
私は何となく、
(ミミズにも心はあった 先が腫れ)
という句を思い出している。
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・講演から帰ってしばらくしたころ、
私に電話がかかった。
私は兵庫区の夫の家で仕事をしている。
尼崎にも仕事場はあるのだが、
だいたいは神戸で引きこもっている。
「もしもし、阿波野さんですね」
と電話の声はいい、私はそうだと答えた。
「こちらは山手の交番です」
私はすぐ、
あの時ののんびりした年輩のおまわりさんを思い出し、
電話の声に記憶がかぶさった。
「奥さんですか?」
と彼は確かめた。
「はい、そうです」
「え~と・・・え~と」
彼はしばしためらい、
電話口で絶句しているようであったが、
やがて思い切ったように、
「こんなこと、いうてエエかいなあ・・・
あのう、ご主人は、その、山手にもう一軒、
家を持っていられますなあ。
モシモシ・・・」
彼はたいそうためらっているように思われた。
「え~と、そこがこの間、泥棒に入られはって、
被害届があったんですが、聞いてはりますか?」
「ハイ、この間はどうもありがとうございました。
お世話さまでした」
と私はいった。
とたんに彼の声は打ってかわって、
歯切れよくなり、
「あ、奥さんだっか」
と晴れ晴れした。
「テレビやガウンやアイロン、
そんなん出てきました。
みつかりましたわ」
私はおまわりさんに礼をいって切ったが、
あとで気がついた。
このおまわりさんは、
あの時逢った私を、
山手の家に囲われている、
第二夫人とでも思ったにちがいない。
私はそういう配慮におまわりさんの年齢を感じた。
私は、そういう気づかいややさしみが好きである。
幕を引いて私を壇上に上がらせようとするやさしみ、
「・・・けど」と語尾につけるデリカシィが好きである。
私は、もしあるとすれば、
そういう「気づかい小説」というものを書きたいと思う。
山手の家は、掃除や泥棒の心配が負担になり、
とうとう売ってしまった。
松永君はいまも時折遊びに来て、
蔵書印を捺したり、気軽に頼んだ用をしてくれる。
もう本に写真を入れたらいいとはいわない。
(了)