・私は一応、女流作家ということになっているが、
しかし公平に見て、私はとてものことに、
そういう威厳ある肩書にふさわしい人物とは申せない。
かつ、外見も中身に見合っており、
「作家」というイメージには甚だ遠い。
どこがどうというよりも、
例えば、観光地などへ行って、
私が一人、ぶらぶらしているとすると、
必ず旗を持った引率者だとか、添乗員、
はたまた、バスガイドといった人々が、
私を見とがめ、
「もしもし、どこへ行きますか?はぐれたら困ります」
と私の肩をつつく。
びっくりしてふり返ると、
人品骨格、私にソックリという一団のおばさんたちが、
固まっている、それは多分、農協婦人部とでもいうべき団体。
私は何も、農協婦人部の人品骨格を論じているのではない。
私がもしその中へまぎれこんだら、
追っ手の刑事も見失う、という例にあげたまで。
或いはまた、
私はさる団体の会合に講演のため出かけた。
講演や座談会、迎えの車が来てくれるのもあるが、
来ぬのもあるわけである。
私はトコトコと一人で行く。
受付で入場券を買って下さい、といわれ、
「講演者なんです」というと、
講演者控室というのを、あごで教えられた。
その部屋には数人、中年の婦人ばかりの先客がいたが、
みな、ちらと私を見ただけで、熱心に話を続けた。
そこへドアがあいて婦人が一人入って来、
腕時計を見つつ、
「浜辺丁子さん遅いわねえ」
と誰にともなくいった。
「まだなの?
もし来たんなら受付でわかると思うけど」
「いま聞いたけど、来てないって」
私はここまで聞いて、やっと椅子を立った。
私はわりに用心深いほうで、
自分のことをいっているのかどうか、
ようく聞きわけてからでないと口を出せないのである。
「あらあら、先生でしたか、うっかりいたしました」
と婦人連は狼狽して、
お茶や、胸につける造花を急いで持ってきた。
要するに私は、受付で見逃されるような人種であり、
平々凡々なるたたずまいだといいたいのである。
あるいはまた、対談、座談会などで、
結構なる日本座敷へ請じられる、
相手の人や係りの記者は、
私に、どうぞどうぞ、と上座をすすめる。
私はいわれるままに床の間を背にして坐っていると、
お茶を運んできた仲居さんが私を見咎め、
相手の男性に、
「お席、いいんですか、そちらで・・・」
と不服そうにいう。
その口調には、
(女のくせに上座に坐るとは何ごとぞ)という、
けん責が感じられる。
かつ、私は世の人に顔を覚えられぬよう、
なるべくテレビにも出ないようにしている。
私の知名度は低いから、
ほとんど知られることはないのも尤もなのである。
尤も、私の名と顔を知っている所でも、
似たりよったりの扱いである。
私は以前、ある放送局へいった。
過去の文学者の文学的業績について、
ひと言、ふた言論評するべく招かれたのである。
私は締め切り前の仕事を抱えていて、
猛烈に時間が欲しかった。
私がラジオ、テレビに出ない理由の一つは、
絶対的に時間が足りないからである。
特にテレビというのは、
五分間くらいしゃべるのに、
前後五、六時間拘束される。
ものを書くという仕事は、
実に時間を食うものなので、
テレビ出演などという時間のロスには堪えられない。
しかも、いったん約束した以上は、
向こうの都合に従って、こちらがその時、
どんなに忙しくても、時間通り出向せねばならぬ。
テレビ出演の不自由さは、そこにもある。
私はそんなわけで急ぎの仕事に心残しつつ、
約束に従って放送局へ向かった。
放送局の受付へついて、
自分の名と、相手の係りの名をいう。
たいていはここで、
係りの人が受付へ迎えにきてくれる。
しかしこの時、受付嬢が電話で打ち合わせをし、
私に向いて、
「×階の右手の応接室へいらして下さい」といった。
私は上がったが、
放送局という建物の中はたいがい内部はわかりにくい。
応接室が見当たらない。
迷路のようで、用心しいしい、探し歩く。
やっと探し当てて入ってみると、
人々はすでにいて、「どうもどうも」などという。
係りの人もいたが、彼らはお茶を飲んでいるが、
私を受付まで出迎える気はないのである。
彼らはそれより、
対談の相手の某氏が来ないので心配していた。
某氏は流行作家で、
東京から新幹線で来る。
係りの人は電話で確かめて、
某氏が仕事の都合で、二時間遅れて東京を発った、
という情報をもたらした。
二時間!私は目をつぶるわけである。
私もここへ仕事を持ってくればよかった、
とひそかに思うわけである。
締切りになると、
一分一刻を争うことが多い。
そのとき係りの人は何というたか。
「作家なんつうものは大変ですなあ。
〇〇さん(某氏)は忙しい人なんですねえ」
かくして、私もまた、作家のはしくれであり、
私もまた忙しい、ということを失念しているのである。
公平にいって、これは私の、
平凡なる農協婦人部風たたずまいのせいであって、
私は、決して私を偉いさん扱いしてくれぬ、
と怒っているわけではない。
私は女流作家らしくなく、
いつの場合もそれにふさわしい扱いを受けないのを、
よいことだと安心する気持ちもある。
(次回へ)