・心というものについて、
あらたまって考えたことはない。
私は小説を書くことが一応、
たてまえとしては本職になっているから、
人間の心のことばかり四六時中考えすぎて、
それが普通の状態であるから、
心とは何ぞや、と思うと、
びっくりして、居住まいを正して、
改めて考え直さなければならぬようになってしまう。
私は人の心を洞察する力は充分でない。
観察力も貧弱で、経験も浅いから、
人間のすべてを把握する力があるとは申せぬ。
よって私が小説でいろんな男や女を書くのは、
大体自分が下敷きになる。
つまり心について考えるとき、
私は、私の心とつきあっているのである。
この間、テレビを見ていたら、
幼児のIQがどうのという番組があった。
知能テストを四つ五つの子供にほどこして、
それでもって何をするかというと、
「幼稚園に入る目安とします」
というのである。
IQが高ければ程度の高い、
(というのはよい小学校へ入る資格の得やすい)
幼稚園へ入れる、ということで、
よい小学校は、よい中学、高校へ入りやすいこと、
よい中学、高校はよい大学へ入りやすいということらしい。
幸い、よい幼稚園へ入れても、
よい小学校は校区が違うので、
来春には引っ越しをして、
その学校の学区へ移ります、
と明言した母親まであって、
私は大いにびっくりした。
私はそういうことを本気でいうとは信じられず、
冗談だと思っていたが、
母親は大真面目なのである。
私はその真意を理解するのに、
あたまが禿げるほど考えて苦しんだ。
どうして、それほどよい幼稚園が必要なのか、
さっぱりわからぬ。
人間にとっては、
あたまの程度より心が大切なのであって、
もし心のテストができるものなら、
この子は、少し薄情な点が見えるから、
それに気をつけて育てようとか、
少々わがままだからここは直さなければとか、
形にあらわれてわかれば、
大変よろしい具合なのである。
しかし、心や性格はつかみにくいし、
等級をつけにくい。
どれが上、下ということがない。
千差万別の心がある。
そういう複雑微妙なものは数字になりにくい。
それだけ高尚なのである。
それに比べれば、
あたまの出来、不出来なぞは、
下等な地位にあるのであるから、
数字で等級をつけやすい。
そんなものにふりまわされてる人を見ると、
私は何とも言いようのない気がする。
いい大学を出たって、
どうしようもない人間はいっぱいいるのだ。
あんまりそういうことにこだわってほしくないのである。
社会に出ればわかるけど、
あたまはいいが虫の好かぬ奴、
というので人に敬遠され、
あまり幸せな人生を送らない人間もいる。
いい大学を出て落ちぶれて身を持ち崩す人間もいるだろうし、
あたまがよいくせに、することなすことスカタンで、
とどのつまり、窮死する奴もいるだろう。
私は、人間、バカよりも賢いのがいいけれど、
やっぱり、心次第だと思う。
そうして、せめて私の書く小説や、
私のつきあう、ごく狭い範囲の人間だけでも、
いい心の持ち主の人を集めたいと思う。
そんなわけで、私は人間を見るとき、
あんまり頭の出来不出来は気にしない。
よっぽど愚かなのは困るけれど、
普通の人間ならさして高低があろうはずはない。
(次回へ)