・「けったいな」という語ほど、
大阪人が頻発するものはないであろう。
私もよく書くものの中に使う。
この宛字がむつかしい。
私が好きなのは「怪ッ態な」という宛字。
出版社には篤学の士多く、この宛字をすぐ朱筆をとって、
「希代な」と書き改め、ルビを振って下さる。
ところが私は「希代な」では、
その感じが出なくていやなのである。
尤も、その方が正しいのであって、
広辞苑をひもとくと「希代の促音化である」と書かれ、
大言海にも「希代の転。京畿にはキをケといふ」とあるから、
希代の方が由緒正しい。
しかし「けったいな」というのは、
怪奇な、不思議な、変な、妙な、怪しい、辻つまのあわぬ、
という意味がある。
へんてこな様子、おかしなたたずまい、腑に落ちぬありさまを指す。
怪しき状態、奇っ怪な体たらく、という意味をひびかせて、
私は「怪っ態な」と書くのであるが、
無惨に削られて「希代」になり、
書き取りの答案が戻されたごとく、
直された字を見て「ハハァ・・・」と感じ入っているのである。
・ところで「けったいな」というのは、
上の意味があるが、この使い方は実に自由自在で、
標準語で、この意味を含んだ語はみつからない。
変な、きてれつな、というより、おかしな、が近いが、
これも一つでは物足らない。
亭主がお袋の味をほめる。
「何さ、それ位、私だって作れます」と女房が作る手料理、
家風も味つけも違い、亭主はひと口食べて、内心、
(何や、けったいな味やなあ)と思う。
しかし、口には出さぬ。
女房が勝利感に顔を輝かせ、
「どお?お母さんのより美味しいでしょ」などと聞くからだ。
亭主は、
「まあ、ソコソコやなあ」と言い、
実に以て大阪弁というのは老獪なること、
家康の口約束にさも似たり。
ソコソコ、というのも、けったいな言葉で、
ほめているのかけなしているのか、
双方に取れるから、どっちも傷つかなくてよい。
「けったいな家やなあ」というのは、
多分、最新流行の尖端を行く建築家がグラビア用に建てたような家。
中へ入るとトイレをつけ忘れていたりする、ハイカラな家。
「あいつ、けったいやデ」などと職場でうわさされるのは、
初老期うつ病、ノイローゼというようなもの。
また平素、しぶちん(ケチ)な人が、
珍しくお茶をおごろうかといってくれる。
うかうかついて行くと、えらい頼まれごとをされたりで、
(な~んや道理でけったいやな、思うてん)と内心つぶやく。
若い娘さんが使うときは、
会社でストッキングを破ったりする。
用意のいい子がいつも新しいのを引き出しに入れている。
それを借りて「何ぼ?」とお金を払おうとすると、
「けったいな子やな。かめへん、それバーゲンのんやもん、ええ、て」
などと言う。
「いや、そう?おおきに」といって借りた子はまた、
バーゲンのストッキングでお返ししたりする。
この場合の「けったいな子やな」は、とんでもない、
という感じをひびかせる。
「けったいな人」と言われたら、解釈がむつかしい。
・子供の頃、
私たち大阪っ子は「ケッチ」という言葉を使っていた。
言葉は同じ「けったいな」をつぼめて言ったものが、
語尾変化したのか、尤も大阪人は何でも略していうクセがある。
私の母は、岡山から大阪へ嫁に来て、
いたくうろたえたのは、大阪人が地名を略することだったそうな。
日本橋一丁目を市電の車掌が「日本一!」と叫ぶ。
岡山人は日本一というのは桃太郎を連想するから困る。
「天六!」というのは、天神橋筋六丁目で、
「上六!」というのは上本町六丁目、
「梅新」は梅田新道、
ハッスジといわれたら心斎橋のこと。
だから「ケッチ」も語尾変化により、
短く言ったように思われる。
私が「けったいな」で一番適切、と思うのは、
かの「源氏物語」の中の末摘花の君である。
あの女性ほど「けったいな」人の典型はない。
顔からしてけったいである。
女は醜くても才気があればつくろえるが、
彼女は才気もない。さりとて悪女でもなく、
ひたすら源氏を頼っている。
人並みに贈り物もするが、
人前に出すさえ恥ずかしい時代遅れのもの、
怒りも出来ず、言ってわかる人でなし、
結局「けったいな人」というのに尽きる。
しかし、「あの二人、けったいやなあ」というのは知らない。
怪しい中、と言う場合には使わないようである。