・当節は「・・・する会」や、
「・・・研究所」「・・・文化の会」などと、
看板が多くてよくわからない。
私の友人は、以前、大阪キタの裏通りを歩いていて、
こわれかけた古いビルの一階に、
「上方文化研究所」という看板がかかげてあるのに気づき、
のこのこ入っていって、
「松鶴の落語集おまへんか」と聞いた。
彼はある雑誌の発行所と間違えたのだった。
そこには青年が二、三人いたが、
じっと友人を見て、まじめに、
「ウチにはありませんけど」
と断ったそうである。
しばらくたって、
友人が何心なくテレビを見ていたら、
そこが警官や刑事の捜査を受けていて、
過激派グループのアジトだとわかった。
「よう鉄パイプでなぐられへんかったこっちゃ」
と彼はいっていたが、
私はアジトの青年がいったという、
「・・・けど」という言葉に注目した。
「ありません」というより、
何がしかの接尾語がつくのは、やさしく聞こえる。
もし本当に、そう青年がいったのなら、
当節の娘たちより、やさしい心情の青年である。
私はそういうやさしさが好きだ。
そして大阪弁の語法には、
本来、そういうやさしみがある。
商売人は縁をつなぐのが生命であり、
「けど」というのは、
(ご期待に副えなくてまことに遺憾であるが、
またその内、縁があったらよろしく・・・)
という縁つなぎの拒絶である。
私は過激派グループの青年が使ったとしたら、
ちょっといいな、と思った。
さて、その松永君とは、
彼が出した手紙によって縁ができ、
ちょいちょい遊びに来るようになったが、
あるとき、講演を依頼してきた。
私は講演がきらいで、引き受けたことがない。
よくせきの事情でもあれば別、
人前でモノをいうのはさらし者になるようで苦痛である。
その上、書けば何でもないことが、
しゃべるとなると、とたんに思うに任せない。
所詮、私は内弁慶。
相応に自己顕示欲もあるのだが、
何も見ないで一時間視線を宙に据えてしゃべる苦痛には、
堪えられない。
私は、私の話を一時間も固い椅子に坐って、
聞く人間があるということを、信じられない。
私の夫は、私のいうことを半分も聞かず、
さえぎって反発し、家政婦は私の言葉を、
半分上の空で聞き流すではないか。
それでも無理して講演をするとする。
はじめの頃は上がってしまって立ち往生する。
やがてちょっと落ち着いてみると、
人の顔が視線に入ってくる。
こうなると、途中で席をたった人もみなわかる。
何人たったかわかるのも、いいかげん切ない。
いつもいつも同じ話をするのも切ない。
新しいのを用意しても、忘れてしまう。
それやこれやで講演はみな断ることにしているのだが、
松永君は残念そうに、
「そうですかねえ、
実はこれ、僕の田舎の伯父に頼まれたのです。
郷里の村では一年にいっぺん、
文化大講演会を催します。
何しろ辺陬の地ですから、
そんな催しが唯一の文化事業なんです。
ただ役場から出る予算が少ないので、
伯父達は身銭を切って接待しています。
汚い寺ですが泊って頂いて、
近くには鯉料理の店もあるので、
鯉の生け作りなど、といっていますが」
私が少し心動いたのは、
鯉の生け作りのせいではなく、
松永青年の伯父上が身銭を切ってつとめる、
という点である。
「それは、やはり、郷土の文化向上に資するなら、と。
伯父は村の貧乏寺の住職ですが、
当然のことでしょう」
松永君は、その伯父は、
県下の短歌結社「氷魚」の同人であるともいった。
そのままだったら、
あるいは私も講演にいっていなかったかもしれないが、
そのあと松永君と私は、短歌の話をしていた。
松永君は若い頃、少し歌をやった、といい、
数首披露してくれた。
<愛されしこともなかりき
恋したる人にも遇わず
わが青春(はる)おわる>
「わが青春おわる」って、いくつなの?
というと、二十三です、と彼はいった。
むろん彼も「わが青春おわる」とは思っていないが、
口調をととのえる上から、
そうしたのであるらしい。
短歌とはわりに融通性のあるものだな、
と私は思った。
そんな話をしているとき、電話が鳴った。
(次回へ)