むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

2、ミミズの心 ③

2022年10月24日 08時26分39秒 | 「浜辺先生町を行く」  田辺聖子作










・電話の主は、
わが家が別宅として持っている、
山手の家のお隣の黄さんである。

別宅の裏木戸があいて、バタンバタンしています、
と知らせてくれたのだった。

ここは普段行かないのでよく泥棒が入り、
その度に黄さんから、
窓があいてますの、ガラスが壊れてますの、
と電話を頂いた。

夫はこの家をうるさがり、売れ売れというのだが、
私は古びたこの異人館が好きで手離す決心がつかない。

結婚のはじめは忙しく別居していて、
双方からここへ来て落ち合っていた。

目の下に中突堤が見え、
ポートタワーがあり、
座敷に寝ていても海が見えた。

とても美しい環境である。

やたら大きい家で、
二階と一階の鎧戸をみんな開け放しているうちに、
もう帰る時間になるというような家だった。

それでも、ここで生活したこともあるので、
絨毯やカーテンもととのえ、
家財道具、洗濯機、テレビ、応接セットと、
日常生活に不自由なくそろえてある。

私がもう夫の家で暮らすようになってからは、
無駄な二重生活なのだが、
いつでも海の見える異人館へ行けるという、
ロマンチックなたのしみを、
私は捨てる気にならないのだ。

しかし、泥棒だけは全く、うんざりする。

山のてっぺんで不用心なので、
コソ泥がよく侵入する。

その度、怒る夫を拝み倒して、行ってもらう。

「だから売れというのに」と毎度、叱られる。

夫はロマンチックとか夢とかを、
あまり高く評価しない男である。

私が、夜、灯のいっぱいついた船が、
霧笛とともに中突堤の桟橋を離れていく、
それを見る喜びのために家を手放さないのを、
怒っている。

うしろの背山にくるうぐいす、ひよどり、
山側の日当たりのいいところに咲く、桃、えにしだ、
谷から生えているハンノキ、
そういうものが大好きなために、
このお化けの出そうな異人館を売らない、
そんな私の気持ちがさっぱりわからぬ男である。

どうせ夫にいうと、
それみたことか、と言われるので、

「松永君、一緒に行って」と頼んだ。

泥棒に入られたらしいときは、
誰か屈強の男を同伴しないと、
まだひそんでいるかもしれない。

松永君は、いいですよ、と腰をあげてくれた。

「日本をよくする会」は、
当面のところ、時間はある団体らしい。

別宅は町なかだが、
かなり坂道や階段をのぼらなければならない。

物資を注文通り運んでくれるのは、
酒屋と米屋だけで、石油缶は配達してくれない。

神戸の特徴で、山手にかけて家が建て込んでいるが、
あんまり山のてっぺんに家があると、
モノを運び込むときが不便である。

「えらい坂ですなあ、
これはしかし、一杯飲んで夜帰るときは辛いですな」

と松永君も若いくせに音をあげていた。

道は稲妻型に曲がりくねって山頂へ。
その両脇の角々に家がある。

みな古い大きな家である。

てっぺんにたどりついてふり返ると、
神戸の町が目下にかすみ、絶景である。

秋から冬にかけてが、
空気が澄んで見晴らしがいい。

玄関のドアは、
内側から泥棒がカンヌキをしているとみえ、
合鍵だけでは開かない。

どこか忍び込むところはないかと見ると、
台所のガラス戸、この前入れたばかりなのが、
また破られていた。

これが侵入口らしい。

松永君はそこから器用に身をすべりこませた。
そうして「アリャー」という声が聞こえたが、
窓から顔を出して何だか嬉しそうに、

「メチャメチャ」と第一報を送った。

メチャメチャというのは、
内部が狼藉されていることであろう。

私は泥棒に腹が立つやら、
ドキドキするやらで、

「早く玄関開けてよ!」と怒鳴った。

奥の間は、片づけてあったはずなのに、
電気ごたつが引っ張り出されて、
夜具が引き散らされていた。

台所は足の踏み場もなく食器や鍋釜、
食べ物、酒瓶が散乱し、
鍋にはまだご飯が残っていた。

これで見ると犯人は、
何日か滞在したのかもしれない。

「どこからどこまで泥棒ですかね」

と松永君はいい、
それは私が、いかにきちんと、
ふだん掃除しているか分からないせいで、

「みんな泥棒です!これは」

情けないやら腹が立つやらで私は、
なくなったものを見つけようと必死である。

「テレビを持ちだしてる」

貴重品をおいてないから、
盗られたものは知れていて、
さぞ泥棒は持ちだすものに困ったのだろう。

本棚の本が少ないと思ったら、
めぼしい本を抜き出しているのだ。

大江健三郎さんの本に、
瀬戸内晴美さんの本、
大きなぶ厚い本がなくなっていて、
私の本は残してあった。

「文学的見識のある泥棒ですな」

と松永君は笑い、
山ふもとの派出所に届けに行く、といった。






          






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