「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

2、夕顔 ⑤

2023年07月20日 08時29分44秒 | 「新源氏物語」田辺聖子訳










・随身が花を折って出て来ると、
遣戸口から、愛らしい少女が出てきて、
随身を手招きし、

「これにのせて上げて下さい。
蔓が持ちにくいんですもの」

と香をたきしめた白い扇を出した。

そこへ惟光が来たので、
随身は惟光の手から源氏にさしあげた。

「こんなむさくるしい道ばたで、
長いことお待たせ申し上げました」

惟光は恐縮していた。

乳母の尼のもとへは、
惟光の兄弟や、
その連れ合いも集まっていた。

みな源氏の見舞いに恐縮し、
感激した。

尼は病気が重いのであったが、
源氏を見ると、
嬉しさに泣きながら起き上がった。

「もうお目にかかれぬと思っておりましたのに、
お姿を拝みまして、
これでいつ阿弥陀仏のご来迎を頂きましても、
心残りはございません」

「何をいうのだ。
まだこれからも長生きして、
私の行く末も見ていて下さい。
小さい時から私は母君、祖母君と、
あわただしく死に別れた。
可愛がってくれた一番身近なひとは、
ばあやのほかにいない。
この年になってもまだ、
頼っているよ。
長生きしてほしいのだ。
いつまでも・・・」

源氏は笑おうとしたが、
涙ぐんでしまった。

乳母はもちろん、
その子供たちも源氏のやさしい心に感動して、
涙をさそわれるのであった。

尼の病室を出て、
源氏はさきっきの白扇をながめた。

使った人の香りがゆかしく匂って、
思いがけぬしゃれた筆跡で、
歌が書いてある。

<心あてに それかとぞ見る 白露の
光そへたる 夕顔の花>

(夕顔のように美しいかた、
もしや光源氏の君では、
いらっしゃいませんか)

という心であろう。

こういうのが、
いつぞやの雨の夜の、
「中流の掘り出しもの」
というのではあるまいか、
案外、こんな家に、
はっとするほど美しい女が、
かくれているかもしれない。

源氏は興をおぼえた。

「この西隣の家は、
どんな人が住んでいるのだ」

彼は惟光に聞いた。

惟光は内心、

(またはじまった。
女をみるとすぐ、好奇心むらむら、
というお癖はなおらないな)

と思いながら、

「この五、六日、
家にひきこもって、
病人の看護に明け暮れましたので、
隣のことは存じません」

と、無愛想にこたえた。

「気に入らぬ様子だな。
この扇はなぞがある。
そういわずにくわしいことを知りたい」

仕方なく惟光は、
隣の家の管理人に聞いて、
源氏に報告した。

「わかりました。
隣は、楊名の介の家ですが、
主人が地方へ行っていて、
妻の姉妹の宮仕えする女房たちが、
よく来ているそうです。
それ以外のことは知らないそうです」

源氏は、さてこそ、
宮仕えの若い女たちらしいいたずらだと思った。

懐紙にいつもの筆跡を変え、

<寄りてこそ それかとも見め たそがれに
ほのぼの見つる 花の夕顔>

(近寄ってみたのではなく、
たそがれにちらと垣間見たのでは、
私が誰かわかりませんよ)

それをさっきの随身に持たせて隣へやった。

女たちは昂奮して、
このお返事はどうしようと、
ざわめいている。

随身は内心、
この女たちとはお身分が違う、
とおかしくなってさっさと帰った。

忍びのこととて、
従者の松明もなく、
ほのかな光の中を源氏の車は帰っていった。

惟光が、五、六日して報告した。

「どんな方がいられるか、
家の下人にもわからないそうですが、
ともかく女主人として、
お仕えしているそうです。
何か、わけのあるかたらしゅうございます」

「素性が分らないものかなあ」

主従でひそひそ話しているところへ、

「伊予の介が上洛して参りました。
お目通りを、と申してございます」

と女房がいってきた。

伊予の介は、
かの空蝉の夫で、
地方長官として任国にいたのである。






          



(次回へ)

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