・あれは、去年のことか、
おとどしの思い出だったろうか?
源氏は苦しさのあまり、
それすらさだかではない。
あのときの只一度の出逢いは、
よけい源氏の煩悩を増し、
裂け目を深くさせたにすぎない。
その烈しい、
身を焼く渇望が、
宮に似た女人に近づかせる。
源氏は、
六条御息所(ろくじょうみやすんどころ)の、
邸にいた。
あの思い出の夏の夜から、
いくとせめかの夏である。
六条御息所は、
源氏の側から静かに身を起こし、
仄かな灯のかげで、
鏡に見入った。
暗い鏡には、
若い日、当代並ぶものなし、
とうたわれた美貌がうつっていたが、
見慣れたおのが顔から、
彼女は目をそらせた。
どことなく「青春の残骸」というものを、
ひきずっている感じがされたからだった。
どうして七歳も年下の源氏などを、
愛することになってしまったのだろう。
若い日、背の君であった東宮(皇太子)が、
もし早世されていなければ、
自分は皇后として、
内裏に入るところであった。
そんな高貴な重々しい身分の束縛がわずらわしく、
たちきられた女の生きの命に、
ひそかに鬱屈しているころ、
源氏の熱い求愛に、
ふとほだされてしまった。
気がついたとき、
御息所は源氏に恋をしていた。
おそい恋に身を焼き、
心も魂も燃やしつくしていた。
だが御息所は源氏より年上の、
中年女の分別として、
わが恋を、
冷静にみる醒めた目も持っていた。
(あの人は、わたくしを愛していない・・・
あの人にとってのわたくしは、
数ある情人の一人にすぎない。
わたくしにとっては、
あの人は唯一人の恋人、
それほどのわたくしの恋を、
あの人はわからない・・・)
朝、源氏は御息所の邸から、
もどる道々、彼女のことを考えている。
あの人が自分を見る目には、
まさしく恋する人の、
物すさまじい狂乱がある。
自分が藤壺の宮を見るような目。
ものもいえずわななきながら、
しっかと源氏をとらえ、
彼女の、深い、せつない吐息。
手にまといつく、
冷たい、重い黒髪。
(ああ・・・持ち重りする人だ・・・)
源氏は、彼女とあったあとの心の重さを、
いつも、もてあます。
源氏が、
御息所に熱心に求愛したのは、
みたされぬ藤壺の宮への渇望が、
意識下にあったからに違いないが、
なみの女人には見られぬ、
ふかい心の奥行に魅せられたためでもあった。
御息所の教養と機智にあふれた会話や、
手紙は楽しかった。
しかし恋が進み、
なじみが深くなるにつれて、
彼女は粘く執拗に、
源氏の心にからみつき出した。
それは源氏を独占しようという、
彼女のおどろおどろしい妄執の影だった。
源氏が次第に足が遠のくのを、
どうしようもない。
わが心からと知りつつ、
また一つ、愛欲地獄をつくり出してしまった。
その午後、
源氏は思い立って、
病気で臥していると聞いた乳母を、
内裏から退出の途中、
見舞った。
乳母は年老いて尼になり、
五條のあたりに住んでいる。
源氏のおそば去らずの惟光(これみつ)は、
この乳母の息子である。
五條は下町である。
源氏には物珍しい町のたたずまい。
乳母の家の隣に、
新しい檜垣をめぐらし、
さっぱりと白いすだれをかけた家がある。
美しそうな女の額が、
すだれ越しに見え、
源氏はふと車の物見窓から、
こういう家にいる女、
どんな身分の者たちだろうと、
心をそそられたりするのだった。
中が見通せそうな粗末な、
はかない家であるが、
板囲いに青々としたつる草がからみついて、
白い花が咲いている。
随身(お付きの武官)の一人が、
ひざまついていった。
「あの白い花は、夕顔と申します。
よくこういう卑しげな家の軒に咲いております」
「あわれな花だ。
一房、折ってまいれ」
源氏がいうと、
随身は門へ入って花を折った。
(次回へ)