むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

2、夕顔 ④

2023年07月19日 09時54分43秒 | 「新源氏物語」田辺聖子訳










・あれは、去年のことか、
おとどしの思い出だったろうか?

源氏は苦しさのあまり、
それすらさだかではない。

あのときの只一度の出逢いは、
よけい源氏の煩悩を増し、
裂け目を深くさせたにすぎない。

その烈しい、
身を焼く渇望が、
宮に似た女人に近づかせる。

源氏は、
六条御息所(ろくじょうみやすんどころ)の、
邸にいた。

あの思い出の夏の夜から、
いくとせめかの夏である。

六条御息所は、
源氏の側から静かに身を起こし、
仄かな灯のかげで、
鏡に見入った。

暗い鏡には、
若い日、当代並ぶものなし、
とうたわれた美貌がうつっていたが、
見慣れたおのが顔から、
彼女は目をそらせた。

どことなく「青春の残骸」というものを、
ひきずっている感じがされたからだった。

どうして七歳も年下の源氏などを、
愛することになってしまったのだろう。

若い日、背の君であった東宮(皇太子)が、
もし早世されていなければ、
自分は皇后として、
内裏に入るところであった。

そんな高貴な重々しい身分の束縛がわずらわしく、
たちきられた女の生きの命に、
ひそかに鬱屈しているころ、
源氏の熱い求愛に、
ふとほだされてしまった。

気がついたとき、
御息所は源氏に恋をしていた。

おそい恋に身を焼き、
心も魂も燃やしつくしていた。

だが御息所は源氏より年上の、
中年女の分別として、
わが恋を、
冷静にみる醒めた目も持っていた。

(あの人は、わたくしを愛していない・・・
あの人にとってのわたくしは、
数ある情人の一人にすぎない。
わたくしにとっては、
あの人は唯一人の恋人、
それほどのわたくしの恋を、
あの人はわからない・・・)

朝、源氏は御息所の邸から、
もどる道々、彼女のことを考えている。

あの人が自分を見る目には、
まさしく恋する人の、
物すさまじい狂乱がある。

自分が藤壺の宮を見るような目。

ものもいえずわななきながら、
しっかと源氏をとらえ、
彼女の、深い、せつない吐息。

手にまといつく、
冷たい、重い黒髪。

(ああ・・・持ち重りする人だ・・・)

源氏は、彼女とあったあとの心の重さを、
いつも、もてあます。

源氏が、
御息所に熱心に求愛したのは、
みたされぬ藤壺の宮への渇望が、
意識下にあったからに違いないが、
なみの女人には見られぬ、
ふかい心の奥行に魅せられたためでもあった。

御息所の教養と機智にあふれた会話や、
手紙は楽しかった。

しかし恋が進み、
なじみが深くなるにつれて、
彼女は粘く執拗に、
源氏の心にからみつき出した。

それは源氏を独占しようという、
彼女のおどろおどろしい妄執の影だった。

源氏が次第に足が遠のくのを、
どうしようもない。

わが心からと知りつつ、
また一つ、愛欲地獄をつくり出してしまった。

その午後、
源氏は思い立って、
病気で臥していると聞いた乳母を、
内裏から退出の途中、
見舞った。

乳母は年老いて尼になり、
五條のあたりに住んでいる。

源氏のおそば去らずの惟光(これみつ)は、
この乳母の息子である。

五條は下町である。
源氏には物珍しい町のたたずまい。

乳母の家の隣に、
新しい檜垣をめぐらし、
さっぱりと白いすだれをかけた家がある。

美しそうな女の額が、
すだれ越しに見え、
源氏はふと車の物見窓から、
こういう家にいる女、
どんな身分の者たちだろうと、
心をそそられたりするのだった。

中が見通せそうな粗末な、
はかない家であるが、
板囲いに青々としたつる草がからみついて、
白い花が咲いている。

随身(お付きの武官)の一人が、
ひざまついていった。

「あの白い花は、夕顔と申します。
よくこういう卑しげな家の軒に咲いております」

「あわれな花だ。
一房、折ってまいれ」

源氏がいうと、
随身は門へ入って花を折った。






          


(次回へ)

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