「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

42番、清原元輔

2023年05月13日 09時08分18秒 | 「百人一首」田辺聖子訳










<契りきな かたみに袖を しぼりつつ
末の松山 浪越さじとは>


(おぼえているかい
約束したね ぼくたちは
涙で誓った
決して心変わりしないと~~~
末の松山を 波が越すような
そんなこと 決してないって
契ったよね きみとぼく)






・「末の松山」は陸奥の国の歌枕。

はっきりしないが、
宮城県多賀城の丘か。

海辺にあるが、
決して波はかぶらないという言い伝えから、
男と女が心変わりしないと契るたとえにされ、
もし不実があれば「浪越ゆる」と表現された。

この歌は『後拾遺集』巻十四・恋に、
「心変わり侍りける女に、人に代わりて」とあり、
清原元輔は人に頼まれて代作してやったもの。

清原元輔は36番の作者の深養父の孫で、清少納言の父。
908年生まれ990年、八十三歳で肥後守在任中に死んでいる。

歌人の家に生まれ、
官吏としてはぱっとしなかったが、
歌よみとして名をあげた。

和歌所の寄人となって、
『万葉集』に訓点をつける事業にたずさわる。

『後撰集』の選者ともなった。

性質はユーモラスでひょうきんで、
才気にみち、明るい。

清少納言は多分に、この父の性質を受けついでいる。
清少納言は元輔の晩年の子である。

母は清少納言の物心つくころには亡くなっていたらしく、
元輔は孫のような娘を溺愛して、
六十六のとき、周防守として赴任することになると、
娘も連れていった。

清少納言の『枕草子』には男の噂も書かれているが、
このあけっぴろげな異性への感覚は、
男親に育てられたからではないか。

冗談好きな、明るい爺さん、
教養はあるがそれがいやみにならず、
人間を楽しく人生を陽気にするのに役立っている爺さん、
それが清少納言の父親だった。

彼女は父親と仲がよかったに違いない。
そして物の見方や発想は、
かなり父親に負うところが大きかったと思われる。

元輔は官位は遅々として進まなかったが、
プロ歌人として、大貴族たちをパトロンに持ち、
お邸に出入りして、賀歌や屏風歌、贈答歌を献じた。

だから儀礼的な歌がその歌集『元輔集』には多いが、
『拾遺集』には、肥後守として下る元輔に、
同僚が送別のパーティを設けたとき、
元輔がよんだ歌がある。

<いかばかり 思ふらむとか 思ふらむ
老いて別るる 遠き道をば>

元輔は七十九である。
このたびは娘を伴っていかない。

清少納言は結婚していたらしい。

(どんな気持ちでいるんだろうなあ、
あのトシで遠いところへ出かけるとは・・・
と君は思っているんじゃないかね)

同僚はこれを受けて、
「いや待つ身の方がせつないよ、おれもトシだもの」
というよな歌を返している。

しかし元輔は任地で没して、
再び都を見ることは出来なかった。






          


(次回へ)

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