・「野球選手を見てみなさい。
大きな体格(から)して気のやさしい、
親孝行な子ばっかりや。
インタビューでどないいうてはるか。
『母を安心させたいので・・・』
なんて可愛らしいこというてはる。
あんたとは、えらい違いや!」
私は面食らった。
私はテレビもあまり見ず、
野球の知識にも乏しいので、
お袋が誰のことをいっているのか、
わからない。
すべて世間の情報はお袋の方がよく知っている。
お袋のいうのは、原くんか愛甲くんのことだろうか?
お袋はカンカンに怒って電話を切るのである。
それだからといって、
私は自分流のやり方を曲げるわけにはいかないのである。
それで言い合いで終わる。
母の友人に私が会うときがある。
「いつもすてきなお仕事を・・・」
とお愛想をいわれる。
するとお袋はそのお愛想を受けてお愛想を返す。
「いえ、もう何でございますか、
かるいものばかりぴょこぴょこ書いて、
たいしたことございませんのよ、オホホ・・・」
私は頼りない女だが、
それでも当年とって五十三になる。
五十過ぎたなんて、
自分でも信じられない位だから、
お袋にしたらよけい信じられず、
いまだに私を十五、六の娘にしか思えないだろう。
それも無理はないのだが、
「かるいものばかりぴょこぴょこ書いて」
とは何だ!
もとより私は自分の書くものを、
「軽文学」だと思っているが、
肉親の口からあまり真実すぎる批評をされるのも、
いやなものである。
それに「ぴょこぴょこ」も気に食わない。
私は軽佻浮薄であるが、
根は真摯であるとみせようとし、
その実、ほんとは軽佻浮薄、という、
そのへんのごまかしの障壁を、
お袋は苦もなく見透かし、
看破しているのである。
こういうわけで、
私はお袋と言い合いをして、
渡り合うものの、どうも何となく弱い。
日本の家庭は過度の母子密着で、
それが社会をゆがめているとはよくいわれるが、
五十にもなる人間が、お袋の描いた円周から出ようと、
渡り合うのも、なかなかしんどいことである。
こう思うのも、
最近、母親の支配欲、権力欲から起きた、
事件のニュースを重ねて見たからだ。
一つは静岡であった事件、
高三の息子を殺して自分も自殺した五十一の母親。
この人はかねて一人息子の進路について、
自分なりの青写真をもっていた。
家は「家庭用品販売業」であるが、
彼女は息子に大学へ進むよう切望していた。
息子は高校を卒業したあと、
就職したいと希望し、
それも自動車整備関係の仕事に進みたい、と。
母親の大学進学希望と、息子の反発で、
母親はノイローゼ気味だったそうで、
寝ている息子の首を締め、
自分も首を吊って死んでいる。
死んだ人の気持ちを推しはかるのは無理だろうけど、
ここでも母親の思い込みというか、
支配欲というか、
第三者にはため息をつかせるていのものである。
私から見れば、
この息子は、自分の進路について、
実にたのもしいと思われるのに。
新聞に報道されていることが、
そのまま事実なのかどうか、
その裏にもっと複雑な事情が潜在するのかどうかは、
我々には知りようもないから、
何ともいえない。
(朝日新聞夕刊、1981年、4、6付)
一方また、
この母親の年齢が私とあまり変わらないので、
自分に引きつけて勝手に想像するのだが、
戦中派の親にしてみれば、
子供を大学へやる、ということは、
わが生涯の総仕上げ、
というような意味を持つのであろう。
その気持ちもわかるけど、
自分の思い通りに子を動かそう、
というのは母性愛というより、
すさまじい権力欲である。
(次回へ)