むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

2、ああせいこうせい ③

2022年06月20日 08時22分15秒 | 田辺聖子・エッセー集










・「野球選手を見てみなさい。
大きな体格(から)して気のやさしい、
親孝行な子ばっかりや。
インタビューでどないいうてはるか。
『母を安心させたいので・・・』
なんて可愛らしいこというてはる。
あんたとは、えらい違いや!」

私は面食らった。

私はテレビもあまり見ず、
野球の知識にも乏しいので、
お袋が誰のことをいっているのか、
わからない。

すべて世間の情報はお袋の方がよく知っている。
お袋のいうのは、原くんか愛甲くんのことだろうか?

お袋はカンカンに怒って電話を切るのである。
それだからといって、
私は自分流のやり方を曲げるわけにはいかないのである。
それで言い合いで終わる。

母の友人に私が会うときがある。

「いつもすてきなお仕事を・・・」

とお愛想をいわれる。

するとお袋はそのお愛想を受けてお愛想を返す。

「いえ、もう何でございますか、
かるいものばかりぴょこぴょこ書いて、
たいしたことございませんのよ、オホホ・・・」

私は頼りない女だが、
それでも当年とって五十三になる。

五十過ぎたなんて、
自分でも信じられない位だから、
お袋にしたらよけい信じられず、
いまだに私を十五、六の娘にしか思えないだろう。

それも無理はないのだが、
「かるいものばかりぴょこぴょこ書いて」
とは何だ!

もとより私は自分の書くものを、
「軽文学」だと思っているが、
肉親の口からあまり真実すぎる批評をされるのも、
いやなものである。

それに「ぴょこぴょこ」も気に食わない。

私は軽佻浮薄であるが、
根は真摯であるとみせようとし、
その実、ほんとは軽佻浮薄、という、
そのへんのごまかしの障壁を、
お袋は苦もなく見透かし、
看破しているのである。

こういうわけで、
私はお袋と言い合いをして、
渡り合うものの、どうも何となく弱い。

日本の家庭は過度の母子密着で、
それが社会をゆがめているとはよくいわれるが、
五十にもなる人間が、お袋の描いた円周から出ようと、
渡り合うのも、なかなかしんどいことである。

こう思うのも、
最近、母親の支配欲、権力欲から起きた、
事件のニュースを重ねて見たからだ。

一つは静岡であった事件、
高三の息子を殺して自分も自殺した五十一の母親。

この人はかねて一人息子の進路について、
自分なりの青写真をもっていた。

家は「家庭用品販売業」であるが、
彼女は息子に大学へ進むよう切望していた。

息子は高校を卒業したあと、
就職したいと希望し、
それも自動車整備関係の仕事に進みたい、と。

母親の大学進学希望と、息子の反発で、
母親はノイローゼ気味だったそうで、
寝ている息子の首を締め、
自分も首を吊って死んでいる。

死んだ人の気持ちを推しはかるのは無理だろうけど、
ここでも母親の思い込みというか、
支配欲というか、
第三者にはため息をつかせるていのものである。

私から見れば、
この息子は、自分の進路について、
実にたのもしいと思われるのに。

新聞に報道されていることが、
そのまま事実なのかどうか、
その裏にもっと複雑な事情が潜在するのかどうかは、
我々には知りようもないから、
何ともいえない。
(朝日新聞夕刊、1981年、4、6付)

一方また、
この母親の年齢が私とあまり変わらないので、
自分に引きつけて勝手に想像するのだが、
戦中派の親にしてみれば、
子供を大学へやる、ということは、
わが生涯の総仕上げ、
というような意味を持つのであろう。

その気持ちもわかるけど、
自分の思い通りに子を動かそう、
というのは母性愛というより、
すさまじい権力欲である。






          


(次回へ)

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