・内大臣は長女の弘徽殿女御にいった。
「あの近江の君を差し出しますから、
よろしく。
見苦しいところは年輩の女房にいって、
遠慮なく教えてやって下さい。
軽率な娘だから、
人の笑われ者になるだろうが」
「そんなことおっしゃっては可哀そうです。
あまり期待されすぎたから、
あの方は気おくれしていらっしゃるだけです」
女御はやさしく微笑んで、
新しい妹、近江の君を弁護する。
「中将がいけないのだ。
よく調べもせず騒ぎ立てて、
邸へ引き取るからだ」
内大臣は腹をたてているが、
当の本人のところへいってみると、
近江の君は簾を高く押し出すように張って、
活発な若い女房と双六をしていた。
近江の君は、
両手をこすり合わせ、
賽の目に小さい数が出るようにと、
「小賽、小賽!」
と口早にまじないをいっている。
(あの早口が下品だ)
内大臣はうんざりし、
妻戸のすき間からのぞいていた。
相手の女房も落ち着きのない女で、
「お返しお返し」
とやかましくいって、
賽を入れた筒をひねっている。
近江の君は小柄で愛嬌のある、
ちょっとした美人であるが、
額の狭いのと、
声がうわずってきんきん声なので、
損をしている。
近江の君のおもざしに、
一点、自分に似ているところがあり、
内大臣は前世の因縁が憂鬱である。
二人は内大臣を認めて、
あわてて双六の手を止めた。
「どうだね?
ここにいてもつまらないだろう。
私は忙しくて始終来てあげられないし」
内大臣がいうと、
近江の君は早口で、
「いいえ、
ここに居らしてもろて、
何にも不足はあらしまへん。
長年、会いたい会いたい思てた、
お父さんに会えたんやし」
「身近にあなたを置いて、
身のまわりの世話でもしてもらおうか、
と思ったりしたが、
なまじ私の身分では、
あの人の娘だ、あの人の姉妹だ、
と人の口にのぼるのが面倒でね。
それもいい評判なら」
さすがに内大臣は、
その先は言えない。
近江の君はそれを察しもせず、
「いえいえ、
そんなご心配はご無用だす。
うちはもう、
ごく気さくに使うて頂くほうが、
嬉しおます。
便所掃除でも何でもしますさかい、
遠慮無うこき使うておくれやす」
というのが物凄い早口である。
内大臣はこらえかねて失笑し、
「久しぶりに会った親に、
少しでも孝行する気があるなら、
もう少しゆっくりしゃべってくれないか。
そうしたら私も長生きできるように思う」
「申し訳ないことや思うてます。
うちの早口は生まれつきのものですやろ、
亡くなったお母さんがうちの早口を、
苦にしてはりました」
近江の君は、
悪気のない娘なのだった。
「女御がいまお里帰りしていられるから、
時々はあちらへお伺いして、
行儀見習いをするといい」
内大臣が言い終りもせぬうちに、
「ひゃあ、それほんまだすか、
嬉しおます。
うちもどないぞして、
皆さまにおつきあいして頂きたいもんや、
思うてるのだっせ。
水汲みしてあたまで運んでも、
お仕えさして頂きとうおます」
内大臣は閉口して、
「ま、そんな雑用はしなくてもいいから、
女御の御前ではなるべくゆっくり、
ものをいうように心がけるんだね」
「そらもう、
お父さんのお顔をつぶすようなことは、
せえしまへん。
見てておくれやす。
ほんで、いつ女御さまのところへ、
参上したらよろしいねんやろ」
「ま、その気になったら今夜にでも」
近江の君は有頂天になって手を叩く。
「ひゃあ、嬉し。おおきに。
ありがとうさんでおます。
お父さん」
この内大臣は、
大臣の中でもことに威厳があり、
人々はその威に打たれて、
気おくれするような人なのだが、
近江の君はそんなことはつゆ関せず、
心安げに、
「お父さん、お父さん」
を連発する。
「女御さんのもとに伺えと、
せっかくおっしゃって頂いたんやから、
早うお伺いせなんだら、
しぶしぶ来たのかと、
ご機嫌を損ねてしまうやろ。
お父さんに可愛がられても、
女御さんがたに冷とうされたら、
このお邸に置いてもらわれへん」
近江の君は、
腹心ともいうべき女房の五節に、
何でも打ち明けてしゃべってしまう。
その辺も上流階級の人間から見れば、
軽率だということになるのであるが、
近江の君はただ、
率直なのである。
「さきにお手紙をさしあげてから、
伺うたほうがええやろうなあ」
五節は答える。
「そうどすなあ。
向こうさんから、
お迎えをよこしてくれはるならともかく、
こっちからお伺いするのに、
前ぶれなしに突然あがる、
いうのも失礼どっしゃろ。
うちかて、こんな場合、
どないするのが高貴なお方らの習慣か、
ようわかりまへんけど」
五節も心細かった。
(次回へ)
田辺聖子さんの本髄発揮、
近江の君のしゃべり言葉、
思わず笑えてきます。
近江の君の運命は