・「扇を取り換えよう。
春の夜の思い出だ」
と自分のを与え、
女の扇を取ってそっと忍んで出た。
源氏の部屋に仕えている女房たち、
もう起きている者もいたが、
源氏の帰りを見つけ、
「よくもまあ、
お忍び歩きに精の出ること」
と仲間同士で、
つつき合いしつつ寝たふりをしていた。
源氏は横になったが眠れなかった。
(誰だろう?
・・・美しい人だったが)
弘徽殿の女御の妹君の一人に違いなかった。
女御の妹君はたくさんいて、
その中には、
親友の頭の中将の夫人で、
中将とあまり仲のよくない四の君や、
帥の宮の夫人などもいる。
みな美人のうわさ高いが、
しかし、かのおぼろ月夜の姫は処女だった。
すると五の君か六の君だろうか。
(いっそ四の君のような、
人妻だったらな。
あわれ深い恋のかけひきが出来て、
面白かったろうに)
(もし、六の君だったとしたら、
これは大変なことになる)
源氏はため息をついた。
六の君は、
東宮と結婚の予定の姫君である。
つまり、源氏にとっては、
兄君の婚約者ということである。
源氏は弘徽殿の女御に、
こころよからず思われている存在だから、
あの御殿に気を許せる手づるはないのである。
源氏はなぜ手紙を通わすすべだけでも、
打ち合わせて来なかったかと、
悔やまれた。
あの姫君の身許を探るには、
どうすればよいか。
しかし、もし探ったとしても、
姫君の父、右大臣にまで知れたら、
どうしようか。
大げさに婿あつかいされたら、
源氏としては進退に窮する。
すでに源氏は左大臣の婿である。
左大臣と右大臣は、
かねて政敵の間柄ともいうべく、
いまここで右大臣の姫君との仲が、
公然となると、
政治的に難しい状況に追い込まれてしまう。
いや、それより何よりも、
あのおぼろ月夜の姫君が、
どんな人柄、
どんな気だての女ともわからぬままに、
いつとはなく、婿あつかいされては、
これもやりきれない。
(どうしたものだろう・・・)
源氏は物思いにふけった。
あの時、
取り交わした扇は、
桜の地色にかすんだ月が水面に映っている、
図柄だった。
よくある絵だけど、
使う人の心がらがしのばれて、
何とはなし、やさしい風情がある。
左大臣邸にもしばらくご無沙汰で、
心苦しく思ったが、
かの紫の姫君も気にかかるので、
(淋しがっているだろうなあ)
と思うと、いじらしくなって、
源氏は二條院へいってみた。
姫君は、童女期を抜け出して、
匂やかな乙女に変貌しつつあった。
愛くるしい笑顔に、
明るい気だてが、
源氏にはことに嬉しかった。
彼の年上の妻や恋人たちの、
重々しいつくろった雰囲気を見なれていたので。
(十分だ。
これなら、予想通りの、
好みの女に生い立っていきそうだ)
と深く満足した。
ただ男の教えることなので、
世間並みでないこともまじるかもしれない。
世の深窓の姫君たちとちがって、
幼いときから男に慣れて育ったので、
開放的すぎるか?
と気にもなるのであった。
いつものように琴を弾いたり、
あそびごとに日を暮らして、
宵になると源氏は外出の用意をはじめた。
「もうお出かけになるの?」
紫の君はつまらなさそうにいうが、
以前のようにしょんぼりしたり、
裾に取りついたりせず、
あきらめた風で、
「いってらっしゃいまし」
といって送り出すのである。
「やっぱり大人になったよ」
源氏は見送りについてきた、
乳母の少納言に笑いながらいった。
二條院へ来ると、
たのしい明るい話ばかりなので、
源氏は心が弾む。
しかし、二條院から左大臣邸へ向かうときは、
まるで義理に引かれるように気が思い。
妻のもとへ行くというのに、
車の中で源氏は屈託ありげに嘆息をもらしたり、
爪を噛んだりしていた。
(次回へ)