・その暗い裂け目は、
まがまがしい情熱を源氏に与えた。
あの三條邸での一夜は、
魔物に魅入られたからとしか、
思えない。
藤壺の宮は、
宮中から三條邸へ里帰りしていらした。
源氏が顔をかくし、
闇に姿を消して忍んでいったとき、
宮は、ほとんど恐怖に近い色を、
浮べていらした。
源氏は言葉も出ず、
だしぬけに宮のおん手をにぎりしめた。
宮は途方にくれた子供のように、
泣き出しそうなお顔で首を振られた。
みる間に、
源氏に握りしめられた宮のおん手が、
こまかくふるえて、
じっとり汗ばんできた。
「おわかりになっていらしたでしょう?
・・・私の気持ちは」
源氏はささやいた。
「いや、
おわかりにならぬはずはない。
私の思いは、
どんなに遠く隔たっても、
あなたに届いたはずです」
宮はたどたどしくおっしゃった。
「どうしてこんなおそろしいことを、
なさるのですか」
源氏はお返事を申し上げることが、
出来なかった。
「宮を愛している、宮を恋している」
という思いだけが胸にたまり、
あとはすき通るのであった。
宮はちいさく深い嘆息をもらされた。
「泣いていらっしゃる・・・光の君さま」
宮は小さい時の源氏の呼び名をそのままに、
そういわれた。
源氏の涙が、
宮の緋のはかまに落ちた。
「光の君さま、
どうかそのお美しいお嘆きも涙も、
わたくしではなく、
ほかの女人衆のためにお捧げ下さいまし」
宮はくぐもるお声でいわれた。
「それは私を愛していられない、
ということですか?
そうなのですね?」
「わたくしには申せません」
宮は苦しそうに身をねんじて、
「どうか、
わたくしをお苦しめ遊ばさないでください」
と弱々しくあらがわれた。
「あなたはそれでは、
私のことを、
愛しく思って下さったのではないのですね。
義理に引かれて、
仕方なくやさしくして下すった、
だけのことなのですね?
それを私は、思い違いをしていたのか」
「いいえ、それは違います」
と宮は烈しくいわれた。
「光の君さまが元服あそばされ、
もう御殿でお目にかかることが、
かなわなくなったとき、
わたくしは、うれしかったのです。
・・・もしあのままお逢いしつづけていたら、
わたくしは自分の心に自信が持てませんでした。
光の君さまを、
いつ愛してしまうかしれない心の傾きが、
みずからおそろしかったのでございます。
殿方となられた光の君さまに、
恋しているわたくし自身が、
ありありと目に見える気がしましたの・・・」
「私を愛する予感を、
お持ちになっていられたと?
そういう大切なことを、
なぜ今まで隠しておかれたのだ?」
源氏は嬉しさで涙がふきあがってきた。
宮のかぼそいお体を、
しっかり抱きしめて、
「ね。それならば、
私にあなたの運命を托してください。
ひとえに何もかも宿世とお念じください」
外は風が出ているらしく、
几帳の裾があおられ、灯が消えた。
「いくら埋めても埋められない、
裂け目があるのですよ・・・
暗い、欲深な裂け目・・・
そこへ何を投げ入れても埋まりません。
あなただけなのです」
今は宮はだまっていらした。
二人の若い恋人たちは、
体を寄り添い、横たわっていた。
「裂け目は埋まったけれど、
二人して罪に堕ちてしまいました」
源氏がいうと、
「いいのです。
わたくしは疾うの昔に、
罪におちていました。
光の君さまのお姿を見るたびに、
わたくしは心の内で罪を犯していました」
「おんなじだ!」
源氏はうれしさで低く叫んだ。
宮は小さく、笑われた。
それは源氏が久しぶりにきく、
宮の笑いだった。
「罪ある人は、よく笑います」
宮は悲しそうにいわれた。
「わたくしは、
いまはうれしさで死にそうです」
「私もだ。
しかし今は生きたくなりました。
まだ生きて、あなたとお逢いしたいために。
こんどはいつ?」
「いいえ、これが最後ですわ。
もうお目にかかることは出来ません」
「罪に堕ちれば、
一度も二度もおなじですよ・・・」
「いいえ、ちがいます。
そのたびごとにちがいます」
「誰知らぬことです。
私は細心の注意を払ってまいります。
次のお里帰りはいつですか」
「いいえ、なりません。
わたくしがこう申すのは、
光の君さまを愛すればこそ、です」
源氏は深い喜びが、
昇華して悲しみに凝り固まった。
「光の君様を手引きして、
お入れしたのは誰?」
「王命婦です。
彼女をお責めなさるな。
私が強引に何年もかかってくどいたのです」
「まさか・・・信じていたのに。
まさか、あれが・・・」
「王命婦が悪いのではありません。
すべて、私が悪いのです。
あなたの罪も私が引き受けて、
無間地獄へおちるつもりです」
「そんなことを、
おっしゃるものではありません」
「二度とお目にかかれぬのなら、
その方がましです」
宮は泣いていらした。
そのお姿はとても可憐で、
いとしかった。
(次回へ)