むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

2、夕顔 ③

2023年07月18日 16時19分44秒 | 「新源氏物語」田辺聖子訳










・その暗い裂け目は、
まがまがしい情熱を源氏に与えた。

あの三條邸での一夜は、
魔物に魅入られたからとしか、
思えない。

藤壺の宮は、
宮中から三條邸へ里帰りしていらした。

源氏が顔をかくし、
闇に姿を消して忍んでいったとき、
宮は、ほとんど恐怖に近い色を、
浮べていらした。

源氏は言葉も出ず、
だしぬけに宮のおん手をにぎりしめた。

宮は途方にくれた子供のように、
泣き出しそうなお顔で首を振られた。

みる間に、
源氏に握りしめられた宮のおん手が、
こまかくふるえて、
じっとり汗ばんできた。

「おわかりになっていらしたでしょう?
・・・私の気持ちは」

源氏はささやいた。

「いや、
おわかりにならぬはずはない。
私の思いは、
どんなに遠く隔たっても、
あなたに届いたはずです」

宮はたどたどしくおっしゃった。

「どうしてこんなおそろしいことを、
なさるのですか」

源氏はお返事を申し上げることが、
出来なかった。

「宮を愛している、宮を恋している」

という思いだけが胸にたまり、
あとはすき通るのであった。

宮はちいさく深い嘆息をもらされた。

「泣いていらっしゃる・・・光の君さま」

宮は小さい時の源氏の呼び名をそのままに、
そういわれた。

源氏の涙が、
宮の緋のはかまに落ちた。

「光の君さま、
どうかそのお美しいお嘆きも涙も、
わたくしではなく、
ほかの女人衆のためにお捧げ下さいまし」

宮はくぐもるお声でいわれた。

「それは私を愛していられない、
ということですか?
そうなのですね?」

「わたくしには申せません」

宮は苦しそうに身をねんじて、

「どうか、
わたくしをお苦しめ遊ばさないでください」

と弱々しくあらがわれた。

「あなたはそれでは、
私のことを、
愛しく思って下さったのではないのですね。
義理に引かれて、
仕方なくやさしくして下すった、
だけのことなのですね?
それを私は、思い違いをしていたのか」

「いいえ、それは違います」

と宮は烈しくいわれた。

「光の君さまが元服あそばされ、
もう御殿でお目にかかることが、
かなわなくなったとき、
わたくしは、うれしかったのです。
・・・もしあのままお逢いしつづけていたら、
わたくしは自分の心に自信が持てませんでした。

光の君さまを、
いつ愛してしまうかしれない心の傾きが、
みずからおそろしかったのでございます。

殿方となられた光の君さまに、
恋しているわたくし自身が、
ありありと目に見える気がしましたの・・・」

「私を愛する予感を、
お持ちになっていられたと?
そういう大切なことを、
なぜ今まで隠しておかれたのだ?」

源氏は嬉しさで涙がふきあがってきた。

宮のかぼそいお体を、
しっかり抱きしめて、

「ね。それならば、
私にあなたの運命を托してください。
ひとえに何もかも宿世とお念じください」

外は風が出ているらしく、
几帳の裾があおられ、灯が消えた。

「いくら埋めても埋められない、
裂け目があるのですよ・・・
暗い、欲深な裂け目・・・
そこへ何を投げ入れても埋まりません。
あなただけなのです」

今は宮はだまっていらした。

二人の若い恋人たちは、
体を寄り添い、横たわっていた。

「裂け目は埋まったけれど、
二人して罪に堕ちてしまいました」

源氏がいうと、

「いいのです。
わたくしは疾うの昔に、
罪におちていました。
光の君さまのお姿を見るたびに、
わたくしは心の内で罪を犯していました」

「おんなじだ!」

源氏はうれしさで低く叫んだ。

宮は小さく、笑われた。
それは源氏が久しぶりにきく、
宮の笑いだった。

「罪ある人は、よく笑います」

宮は悲しそうにいわれた。

「わたくしは、
いまはうれしさで死にそうです」

「私もだ。
しかし今は生きたくなりました。
まだ生きて、あなたとお逢いしたいために。
こんどはいつ?」

「いいえ、これが最後ですわ。
もうお目にかかることは出来ません」

「罪に堕ちれば、
一度も二度もおなじですよ・・・」

「いいえ、ちがいます。
そのたびごとにちがいます」

「誰知らぬことです。
私は細心の注意を払ってまいります。
次のお里帰りはいつですか」

「いいえ、なりません。
わたくしがこう申すのは、
光の君さまを愛すればこそ、です」

源氏は深い喜びが、
昇華して悲しみに凝り固まった。

「光の君様を手引きして、
お入れしたのは誰?」

「王命婦です。
彼女をお責めなさるな。
私が強引に何年もかかってくどいたのです」

「まさか・・・信じていたのに。
まさか、あれが・・・」

「王命婦が悪いのではありません。
すべて、私が悪いのです。
あなたの罪も私が引き受けて、
無間地獄へおちるつもりです」

「そんなことを、
おっしゃるものではありません」

「二度とお目にかかれぬのなら、
その方がましです」

宮は泣いていらした。
そのお姿はとても可憐で、
いとしかった。






          


(次回へ)

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