むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

2、夕顔 ②

2023年07月17日 08時23分45秒 | 「新源氏物語」田辺聖子訳










・「『山河は荒れはてましても、
咲き出でた撫子の花には、
折々にやさしいお気持ちを、
忘れないで下さいまし』

というような手紙の内容で、
私を怨むでもなく、
なつかしそうな風情でしてね。
気のいい女なんです。

で、私も安心して、
また途絶えているうちに、
ふっと行方をくらましてしまいました。

まだ生きているなら、
ずいぶん苦労していることでしょう。

あどけないほどたよりなくて、
ひとりでくよくよする女だったんです」

「女の子はどうしているんだね?」

と源氏はいった。

「そのことです。
撫子の花が気がかりで、
私もどうかして探したいと思うのですが、
いまだに手がかりがありません。

たよりない女というのも、
心もとなくて困ったものです」

源氏は心の中で、
ただ一人の女を想いつづけている。

あのお方こそは、
足らぬ点もなく、
まして才気をひけらかすということなど、
露ほどもなさらない。

たをやかでいらして、
お心ばえが素直で・・・
やさしくて、
それでいてきりっとした、
気高いところがおありで・・・

それからそれへと考えつづけると、
源氏は胸が苦しみでふさがるのであった。

あの恋人、
この恋人と美点欠点はあり、
源氏を苦しめたり喜ばせたりするものの、
彼の生涯の夢も恋も、
真実をいえば、
一人の女人に集約されてしまう。

あの人に初めてあった日のことを、
おぼえている。

まだ童形のころだった。

あの人は十六、七、
父帝の女御として入内され、
あまりのお美しさに世の人は、
「輝く日の宮」と讃えて仰いだ。

藤壺の宮は、
先帝の皇女であり、
身分もご容貌もお人柄も、
何一つ不足はなく、
誰も貶めることはできなかった。

源氏の亡母、桐壺更衣が、
帝のご寵愛深いのを人に嫉まれて、
悩み死にしたようなことは、
藤壺の宮には起こり得なかった。

帝と最も古く結婚され、
東宮の母君であり、
宮中に勢威のある弘徽殿の大后ですら、
藤壺の宮に対しては、
ゆずるところがあられた。

藤壺御殿は、
つねに春のような光と、
たのしい笑い、
愛が満ちていた。

「美しい子でしょう?
ふしぎにあなたはこの子の母に、
似ていられるのですよ。

この子は、
母に生き写しといっていいほど似ていますから、
まるで、あなたとこの子は、
親子のようです」

と父帝は源氏を、
藤壺の宮に押しやるようにされた。

宮ははにかんで、
はじめてこちらをご覧になった。

透き通る白珠のような、
気高い面輪に、
すずやかなおん目もと、
漆黒の髪は重く、冷たげに、
ゆたかに背に流れていて、
近寄りがたい気品ある美女だったが、
お声はやさしく甘かった。

「これからは仲良くいたしましょうね・・・
お心やすく、うちとけて下さいましね」

仄かにたきしめた香が匂った。

源氏は三つで死に別れた、
母の顔をおぼえていない。

亡き母に似ていられるという、
藤壺の宮のおもざしから、
母はこうあったろうか、
とあこがれに似た視線を、
あてるのだった。

あのやわらかな、
白いかぼそいつめたい宮の、
おん手とふれあったり、
おん息づかいが頬にかかるほど近寄って、
絵巻物を見入ったり、
宮の弾かれる琴に笛をあわせたり、
貝合わせに興じたり・・・

源氏の少年の日々は、
宮ひといろに塗りつぶされた。

父帝と宮にはさまれて、
夢のように過ぎた、
藤壺御殿の春の日々よ。

あの甘い少年の慕情が、
いつから、どす黒い地獄の苦しみに、
とって代わったのか。

元服して青年となった源氏は、
もはや藤壺の宮のお側へ寄る自由を失った。

藤壺御殿に参ることはあっても、
遠く御簾越しにほのかにお声を聞く」だけ。

御簾の内へ入れる男性は、
父帝だけである。

源氏は父帝のうしろについて、
御簾の内へ入ることのできた、
少年の日を恋しく思った。

五つ年上のあのひとは、
少年の源氏にとって、
姉のようで母のようで、
幼なじみのようで、
そして最初の恋人であった。

あまりに少年が、
藤壺にばかり親しむので、
弘徽殿の大后は、
少年の亡母、桐壺更衣への敵意を、
そのまま思いだし、
少年をも藤壺をも、
心よからず思われるのだった。

いま、源氏は青年となり、
たくましくなって、
宮のおん背丈をはるかに抜く長身となった。

源氏は元服して臣籍を降り、
官爵を得、結婚し、左大臣家の婿になった。

藤壺の宮は、
源氏にとって、
ますます遠い人になった。

それにしたがって、
源氏の胸の煩悩は消えることなく、
いよいよ強くなってゆく。

昼も夜も、
埋められぬ心の底の暗い裂け目に、
劫火が燃えている。






          



(次回へ)

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