・「『山河は荒れはてましても、
咲き出でた撫子の花には、
折々にやさしいお気持ちを、
忘れないで下さいまし』
というような手紙の内容で、
私を怨むでもなく、
なつかしそうな風情でしてね。
気のいい女なんです。
で、私も安心して、
また途絶えているうちに、
ふっと行方をくらましてしまいました。
まだ生きているなら、
ずいぶん苦労していることでしょう。
あどけないほどたよりなくて、
ひとりでくよくよする女だったんです」
「女の子はどうしているんだね?」
と源氏はいった。
「そのことです。
撫子の花が気がかりで、
私もどうかして探したいと思うのですが、
いまだに手がかりがありません。
たよりない女というのも、
心もとなくて困ったものです」
源氏は心の中で、
ただ一人の女を想いつづけている。
あのお方こそは、
足らぬ点もなく、
まして才気をひけらかすということなど、
露ほどもなさらない。
たをやかでいらして、
お心ばえが素直で・・・
やさしくて、
それでいてきりっとした、
気高いところがおありで・・・
それからそれへと考えつづけると、
源氏は胸が苦しみでふさがるのであった。
あの恋人、
この恋人と美点欠点はあり、
源氏を苦しめたり喜ばせたりするものの、
彼の生涯の夢も恋も、
真実をいえば、
一人の女人に集約されてしまう。
あの人に初めてあった日のことを、
おぼえている。
まだ童形のころだった。
あの人は十六、七、
父帝の女御として入内され、
あまりのお美しさに世の人は、
「輝く日の宮」と讃えて仰いだ。
藤壺の宮は、
先帝の皇女であり、
身分もご容貌もお人柄も、
何一つ不足はなく、
誰も貶めることはできなかった。
源氏の亡母、桐壺更衣が、
帝のご寵愛深いのを人に嫉まれて、
悩み死にしたようなことは、
藤壺の宮には起こり得なかった。
帝と最も古く結婚され、
東宮の母君であり、
宮中に勢威のある弘徽殿の大后ですら、
藤壺の宮に対しては、
ゆずるところがあられた。
藤壺御殿は、
つねに春のような光と、
たのしい笑い、
愛が満ちていた。
「美しい子でしょう?
ふしぎにあなたはこの子の母に、
似ていられるのですよ。
この子は、
母に生き写しといっていいほど似ていますから、
まるで、あなたとこの子は、
親子のようです」
と父帝は源氏を、
藤壺の宮に押しやるようにされた。
宮ははにかんで、
はじめてこちらをご覧になった。
透き通る白珠のような、
気高い面輪に、
すずやかなおん目もと、
漆黒の髪は重く、冷たげに、
ゆたかに背に流れていて、
近寄りがたい気品ある美女だったが、
お声はやさしく甘かった。
「これからは仲良くいたしましょうね・・・
お心やすく、うちとけて下さいましね」
仄かにたきしめた香が匂った。
源氏は三つで死に別れた、
母の顔をおぼえていない。
亡き母に似ていられるという、
藤壺の宮のおもざしから、
母はこうあったろうか、
とあこがれに似た視線を、
あてるのだった。
あのやわらかな、
白いかぼそいつめたい宮の、
おん手とふれあったり、
おん息づかいが頬にかかるほど近寄って、
絵巻物を見入ったり、
宮の弾かれる琴に笛をあわせたり、
貝合わせに興じたり・・・
源氏の少年の日々は、
宮ひといろに塗りつぶされた。
父帝と宮にはさまれて、
夢のように過ぎた、
藤壺御殿の春の日々よ。
あの甘い少年の慕情が、
いつから、どす黒い地獄の苦しみに、
とって代わったのか。
元服して青年となった源氏は、
もはや藤壺の宮のお側へ寄る自由を失った。
藤壺御殿に参ることはあっても、
遠く御簾越しにほのかにお声を聞く」だけ。
御簾の内へ入れる男性は、
父帝だけである。
源氏は父帝のうしろについて、
御簾の内へ入ることのできた、
少年の日を恋しく思った。
五つ年上のあのひとは、
少年の源氏にとって、
姉のようで母のようで、
幼なじみのようで、
そして最初の恋人であった。
あまりに少年が、
藤壺にばかり親しむので、
弘徽殿の大后は、
少年の亡母、桐壺更衣への敵意を、
そのまま思いだし、
少年をも藤壺をも、
心よからず思われるのだった。
いま、源氏は青年となり、
たくましくなって、
宮のおん背丈をはるかに抜く長身となった。
源氏は元服して臣籍を降り、
官爵を得、結婚し、左大臣家の婿になった。
藤壺の宮は、
源氏にとって、
ますます遠い人になった。
それにしたがって、
源氏の胸の煩悩は消えることなく、
いよいよ強くなってゆく。
昼も夜も、
埋められぬ心の底の暗い裂け目に、
劫火が燃えている。
(次回へ)