むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

1、ぬくうなりますなあ  ①

2022年01月17日 09時11分15秒 | 田辺聖子・エッセー集










・関西に住む私は、
<水取りや 瀬々のぬるみも この日より>で、
「お水取りが済まへんうちは、ぬくうなりまへん」
と祖母に言われて育った。

大阪の庶民は奈良までお参りに行くことは、
戦前、あまりなかった。

奈良といえば、大仏さんと鹿せんべいくらい。
祖母自身、二月堂の修二会の行法など、
拝んだことはなかったであろう。

お水取りを年寄りたちが、
季節の変わり目の目安にするのだけを、
私は耳なれて育った。

尤も戦争中はそういう会話も失われ、
空襲で逃げ回っているうちに敗戦となり、
その後は食べるのに必死で、空襲で家は焼かれ、
父は死に、祖母は親類宅に引き取られ、
年寄りの身には辛かったであろう。

お水取りが済まへんうちは・・・
祖母の声も聞かれなくなり、
私も学校を出て勤めに出、あわただしい人生になった。

思いがけなく、物を書く仕事を持つようになり、
ある新聞社から、お水取りの行法の取材を頼まれたのは、
戦後も二十年を過ぎていた。

その頃、お水取りもマスコミに取り上げられるようになり、
カメラマンやテレビ局の人が群れていた。

私はこの時に祖母の言っていた「お水取り」のいろいろを知って、
感動したのである。


・この修二会の行法が千二百年来、一回の断絶もなく続いている、
ということが大いなる感動であった。

私のような戦中派人間は昭和二十年の敗戦で、
真っ二つになった。

つまり、戦前と戦後で二つに分かれてしまった気でいるのに、
この秘儀は、戦争にも戦後の混乱にも一切かかわりなく、
伝えられていた。

俗世の権力や思惑を超えた別次元の宇宙が、
修二会の行法なのであった。

それからもう一つの発見は、
女人禁制の清浄な結界で行われる秘儀が、その荒々しさと烈しさ、
あの声明の妖しくもすさまじいエクスタシーは、
女人を圧倒するのに充分であった。

女人は垣間見ることさえ許されぬ、秘法の世界なのだ。

奈良、日吉館の女主人、田村キヨノさんは、

「昔から、お水取りの三月十二日の夜は、
修二会のお参りの方々の出入りで賑わいますが、
近ごろでは、二月末ごろから来宿されるお嬢さん方が参詣されて、
ずいぶん熱心な、と思っておりました。
実は、参篭中の若いお坊さん方にお近づきを持ちたい、
ということで、昔者は驚くばかりでございます」

と言っておられる。(「古寺巡礼」奈良 東大寺)

私が行った時は、
三月に入っていて、白梅紅梅が真っ盛り、
練行衆の若いお坊さんたちを訪れる人があり、
どことなく花やいだときめきがあった。

しかし、それはお昼までで、
正午、食堂に集まってのちの練行衆は、
食事までも作法にしばられておごそかにとる。

これがすでに異次元の世界。
すり鉢型のうるし塗りの大鉢に盛られた一升飯、
奇怪なかけ声の合図と叫び、土間の外から垣間見る。

私は古代そのままを目前にしたように思った。
練行衆は、六時の行法、つまり一日六回の法要を二週間続ける。






          


(次回へ)

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