「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

25、わが町の歳月 宝塚

2022年02月13日 09時05分58秒 | 田辺聖子・エッセー集










・宝塚歌劇の東京公演に、東京の編集者たちを招待した。

男性編集者で、女性雑誌を作っている人でも、
宝塚を見たことがない人が多い。

これは、歌劇が、女子供の遊びもの、という先入観がある以上に、
宝塚の本拠地が関西にあるからだろうと思われる。

招待した男性編集者たちの中には、
「四月が東京公演だとすると、大阪は七、八月ごろですか?」
と聞く人もいて、まるで何も知っていない。

宝塚歌劇は本拠地の宝塚大劇場で封切りし、
そのあと、東京へ持っていくもの。

何もかも東京優先の時代、
宝塚のみは関西の地元初演なのである。

宝塚はまさに多くの大人にとって、未開発の豊かな沃野である。
宝塚歌劇を高校野球にたとえる説がある。

巧さという点からいえば、プロに及ばないが、
しかし一生懸命やっているいじらしさ、けなげさに惹かれる。
そこに独特の魅力がある。

スターになれそうもない子も一生懸命やっている、
というところが共感を呼ぶ。

しかし私は、今の宝塚歌劇はプロに及ぶ及ばないという議論抜きに、
全く別の文化を創造しつつあると思う。

宝塚の巧い子は、他の世界に比較できるものもないくらい巧い。
宝塚は層が厚い。辞めてもまた次の子がスターになれる。

代役が明日からでも出来る子がいくらもいる。
こんな集団、他にはない。

宝塚の子は、どこへ持っていっても使えるが、
他から誰を持ってきても、宝塚の舞台はつとまらない。

歌えて踊れて芝居が出来る、なんて人は、そうはいない。
私が宝塚は「別種の文化」というゆえんで、
プロとアマの違いで捉えられないし、
高校野球にたとえるのも賛成出来ない。

むしろ、私は、男性文化と女性文化の違いだと思う。

宝塚のスターの迫力と魅力は、
一人一人の持ち味が区別出来るようになれば、
より深く宝塚を楽しむことが出来る。

このあたりは、プロ野球の醍醐味に似ている。


~~~


・そこで思い出したが、NHKの朝のドラマ、
「虹を織る」は宝塚を舞台にしていたけれど、
主演の女優さんを、赤塚不二夫氏がテレビ評で、

「宝塚の子という雰囲気じゃない。なぜなら、パワーがないからだ」

と評していられたが、さすがによくご存じだと思った。

宝塚の女の子は、
私もあまりおつき合いがないからわからないが、
みなすごい「力」の持ち主である。

烈しい訓練に耐え、毎日生身を動かし、
生の音楽で歌ったり踊ったりしている彼女らには、
おのずと強いエーテルが発している。

じっとしていても、おしとやかに坐っていても、
力強くひびく何かがある。どんな子だってそうである。
それがなければ、宝塚はふるい落とされてしまう世界だから。

私生活が奔放だったり、放縦だったりすると、
団体規律の枠にはまらなくなって脱落するし、精進しないと、
舞台に穴があくから、ついていけなくなる、手の抜けない世界なのだ。

そういう生活をしている子は、自身では気がつかなくとも、
ものすごい地力をまわりに発散しているものである。

「虹を織る」の女優さんは美しく垢ぬけていて、
品よくという点では、まさに宝塚的であったが、
パワーを発散していないのが残念であった。


~~~


・宝塚の醍醐味はフィナーレにある。
あの大階段を全員が下りてくる。

悲劇に死んだヒロインも、斬り殺された敵役も、すてきな男役も、
みなニコニコとお神楽の鈴のごときものを打ちふりつつ、
歌いつつ下りてくる。銀橋には、ずらりと人気スターが並ぶ。

時にはこのパターンを崩そうと、「誰がために鐘は鳴る」のとき、
鳳蘭さんと遙くららさんが悲劇的な死で幕が下りたことがあった。

しかしこれはファンには評判悪く、
「物足らん!」と嘆く人が多かった。

ドラマの余韻よりも、ただただ「お話変わって、こちらフィナーレ」
とにぎにぎしくなってくれないといけない。

宝塚を知らない人に見せたいものに、
桜の咲くころの「花の道」がある。

阪急電車、宝塚駅から大劇場の入り口まで花吹雪の下を行く。
いかにも女性文化の花やぎであるが、
四月は加えて初舞台生のお目見得月でもある。

宝塚音楽学校を卒業したヅカガールたちが、
正副組長の口上でずらりと流れてお辞儀をする。

ショーの時に彼女らはラインダンスを見せる。
美しい脚に違いないものの、
上級生たちの鍛え抜かれた鋼鉄のごときぜい肉のない脚にくらべると、
はるかにぽちゃぽちゃしているのも可愛らしい。

宝塚は未婚の娘ばかりという、世界でもユニークな劇団だから、
当然、生徒の浮動が烈しい。結婚のため退団する人も多く、
組替えによる移動も多いから、どんなに舞台の評判高くても、
二度と同じ状態では再演出来ない。

花の命は短いという、たいそうぜいたくな舞台である。
退団した人をなつかしむ、宝塚を愛することは、
はかなさを知ることでもある。






          

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