「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

26、わが町の歳月 伊丹

2022年02月14日 09時11分45秒 | 田辺聖子・エッセー集










・伊丹に住んで六年になるが、ふと思い出したのは、
戦時中、学徒動員で働かされた工場は伊丹にあった、ということだ。

田んぼや畑の中の道を長いこと歩いて工場へ通った記憶があるが、
今は家が建て込んで面影はない。

私はその工場で数か月間、寮に住み込み、
飛行機の部品を作らされていた。

昭和十九年の秋ごろ、
女専(旧制女子専門学校)の生徒ばかり数百人が寮に入っていたが、
元々、女子工員を寄宿させている工場だったから、
少女たちを泊める設備はあった。

それは「郡是(グンゼ)」である。

戦時中は絹の靴下どころではなく、
そこで私があてがわれた仕事は、小さなボールやナットを作ることだった。

「そんな仕事をさせるために、上級学校へやったんとちがう!」

母は嘆いたが、私は、

「お母ちゃん、非国民や!
あたしらが働かな、日本、負けるねん!」

と意気込んでいた。

三交代で深夜も働き、
それがお国に対して出来る自分の戦争だ、と信じ込んでいた。

大豆や海藻入りのごはんに、得体の知れぬふりかけ、
どろどろした団子汁、という食事で頑張っていた。

その当時、三十年先にこの町に住もうとは、思いもしなかった。
いや、三十年先まで生きているとは考えられなかった。

いずれ日本は玉砕するから、
その時はみんな死ぬのだ、と思い込んでいた。

その時、一緒に働いていた広島女専の少女たちは、
昭和二十年の春、「郡是」を引きあげ、広島へ帰り、
そこで被爆したと聞いた。

終戦まで伊丹に居れば、
若い命は散らずに済んだかもしれなかった。

わが町を語ることは、戦争を語ることである。
伊丹は空襲に遭わなかったそうで、
町の所々に古い建物があって、楽しい。


~~~


・伊丹について知っていることを、
大阪の若い人たちにあげてもらった。

「空港がある」

「渡り鳥が飛んでくる、何とかいう大きな池がある」

それがすべてであった。
その池は昆陽池(こやいけ)という名も伊丹へ来て知った。

なんで神戸から伊丹へ?とよく人に聞かれるが、
別に確たる信念があってのことではなく、
私の人生は「流されゆく日々」風である。

妹夫婦が長年、伊丹に住んで、その手づるもあったし、
夫が病気になって、生活環境を変えたらいいかもということだ。

土と水がいいのか、高台で日当たりがいいのか、
木がよく育ち、花の色も濃いように思う。

私はマンション住まいで、植木がないので散歩の途中、
よその家々の木々を賞玩させてもらっている。

飛行機の爆音さえなければ、いうことなしだが。

ここ、伊丹は有名な酒どころ、
「白雪」「老松」「大手柄」今も古い酒蔵が残っていて、
さながら私は酒どころを追って転宅しているあんばいで、
灘の銘酒、伊丹の吟醸、双方楽しめた。

伊丹は酒のおかげで文人墨客を古くから迎え、
地方文化の花を咲かせた町である。

西鶴、頼山陽を迎え、鬼貫を生んだ。
彼らは富裕な酒造業者たちの邸に逗留して、
連歌や俳諧、書画、学問を土地の人に広め、
文化の種をまいていった。


~~~


・現在の伊丹は、町としての文化年齢は稚い気がする。
若い住民が多いので、熟年者向きには出来ていない。

熟年者がじっくり楽しめるところまで、
町が成熟していない。

ファミレスのチェーン店が出来、
お持ち帰り寿司や弁当の支店もあるが、
それは若い主婦にとって便利でいいと思うものだが、
チェーンストアばかりで成り立っている盛り場というのは、
文化不在の証拠である。

小さくても個性のある店がいっぱいあって、
しかも長続きして、小さいまま、代々続いている、
そういうのが望ましい。

去年、伊丹市が市政四十周年記念行事の一つとして、
「荒木村重の叛乱」というお芝居を上演したことは、
面白い試みだったと思っている。

村重は伊丹城を作った名将だが、
織田信長に叛乱して、一族皆殺しにされ、
自分だけは逃れたということで、
今だに評価の定まらぬ武将である。

この悪評を撤回すべく、市在住の劇作家が脚本演出、
市民のアマ劇団が力いっぱい上演した。

昼夜二回、市民がぎっしり詰めかけて、
堂々たる二時間の史劇であった。

「村重はんは、卑怯未練な武士ではなく、花も実もある侍であった」
という解釈がされて、市民は大満足した。

私も見て大変面白かった。
身近のよくわかる文化から、積み重ねてゆくのが、
地方文化を成熟させる道だろうと思われる。

文化も東京から配給されたものをそのまま消化する、
チェーン文化ではなくて、
ひと工夫したその地方の味が出なければ面白くない。

伊丹には、冬は五、六千羽もの渡り鳥の飛来地、昆陽池がある。
白鳥は年中いるが、カモやカモメより雄大で優美で、
心おどる見ものである。

それにしても、私はつくづく思うのだが、
これからは「女が住みよい町」というのが、
町の発展のカギだと。

女が住みよいことは、男を安心させ、
子供をのびのびさせることでもある。


(1981年)






          


「歳月切符」今日で終わります。
明日からは「いっしょにお茶を」を読んでいきます。
どうぞよろしくお願いいたします。

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