むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

8、賢木 ②

2023年09月01日 08時26分10秒 | 「新源氏物語」田辺聖子訳










・源氏の涙に、
御息所の涙がまじり合った。

この美女の中の美女、
よき趣味人であり、
当代きっての教養ある淑女、
気位たかき貴婦人、
愛執が凝って物の怪となるまで、
源氏を恋してくれた女、
その人を失うというのは、
一つの世界がつぶれるようにも、
源氏には思われた。

「さようならは、
おっしゃらないでくださいまし」

御息所は哀願した。

「それから、
お帰りのとき、
おふり向きあさばさないでくださいまし。
いつものように、
明日か明後日とおっしゃってくださいまし・・・
明日か明後日、また来ると」

御息所の内から、
この年月、
積もり積もった恋の恨みは消えていた。

源氏の真率な悲しみと懊悩を見ると、
彼への恨みつらみも溶けた。

空はいつしか、
夜明けの空に変わり、
風が出ていた。

源氏は夜明けにうながされて去るとき、
約束どおりふりむかず、
「さよなら」ともいわなかった。

しかし悲しみに呆然として涙ぐみ、
秋の野をやみくもに踏みしだいて、
歩いていた。

御息所の心まどいは、
なおさらだった。

彼を失った、
彼を手放した、
ついにその時がきたのだ。

彼のやさしさ、
彼のわがまま、
彼の身勝手、
彼の笑い、
彼の細い体、
あれらを永久に失うのだ。

なんと年上の女は、
失う能力に多く恵まれていることか。

源氏から、
きぬぎぬの文がきた。

もう二度と会えないかもしれない、
わかれ際の文であってみれば、
いっそうしみじみと女心にふれるのであった。

源氏からは御息所の旅装束をはじめ、
女房たちのもの、
また調度品など立派な餞別を贈られてきた。

御息所はそれを嬉しく思う心のゆとりもなく、
軽はずみな浮名を流して、
源氏に捨てられ伊勢へ落ちていく身のなりゆきを、
ただただ恥ずかしく思っていた。

御息所の娘、新斎宮は、
伊勢出発の日取りが定まったことを、
無邪気に喜んでいらっしゃる。

世間の人々は、
母君が同行するのを、
前例のないことと非難もし、
またある人は同情したりして、
いろいろ噂していた。

身分高い人は、
何をしても人目について、
窮屈なものなのだった。

十六日、
桂川でお祓えをされる。

斎宮を伊勢まで送る役人、
その他の上達部なども、
身分高い世に重く思われている人々を、
朝廷では選ばれた。

桐壺院の思し召しによるものであった。

源氏は御所での、
斎宮の別れの儀式を見たかったが、
いま、
人々の前に出るのは外聞が悪い気がした。

源氏は源氏で、
御息所に捨てられた男、
という印象を世間に与えているのでは、
と気がひけるのだった。

二條院にひきこもって、
うつうつと物思いにふけっていた。

斎宮は、
その帝の御在位中は伊勢で、
神に仕えられるものだから、
時としては、永久のわかれ、
ということにはならぬとも限らぬ。

そう考えた源氏は思う。

(世の中のいうものは、
どう変わるかわからないのだかから、
また会えるときも来るだろう)






          


(次回へ)

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