・源氏の涙に、
御息所の涙がまじり合った。
この美女の中の美女、
よき趣味人であり、
当代きっての教養ある淑女、
気位たかき貴婦人、
愛執が凝って物の怪となるまで、
源氏を恋してくれた女、
その人を失うというのは、
一つの世界がつぶれるようにも、
源氏には思われた。
「さようならは、
おっしゃらないでくださいまし」
御息所は哀願した。
「それから、
お帰りのとき、
おふり向きあさばさないでくださいまし。
いつものように、
明日か明後日とおっしゃってくださいまし・・・
明日か明後日、また来ると」
御息所の内から、
この年月、
積もり積もった恋の恨みは消えていた。
源氏の真率な悲しみと懊悩を見ると、
彼への恨みつらみも溶けた。
空はいつしか、
夜明けの空に変わり、
風が出ていた。
源氏は夜明けにうながされて去るとき、
約束どおりふりむかず、
「さよなら」ともいわなかった。
しかし悲しみに呆然として涙ぐみ、
秋の野をやみくもに踏みしだいて、
歩いていた。
御息所の心まどいは、
なおさらだった。
彼を失った、
彼を手放した、
ついにその時がきたのだ。
彼のやさしさ、
彼のわがまま、
彼の身勝手、
彼の笑い、
彼の細い体、
あれらを永久に失うのだ。
なんと年上の女は、
失う能力に多く恵まれていることか。
源氏から、
きぬぎぬの文がきた。
もう二度と会えないかもしれない、
わかれ際の文であってみれば、
いっそうしみじみと女心にふれるのであった。
源氏からは御息所の旅装束をはじめ、
女房たちのもの、
また調度品など立派な餞別を贈られてきた。
御息所はそれを嬉しく思う心のゆとりもなく、
軽はずみな浮名を流して、
源氏に捨てられ伊勢へ落ちていく身のなりゆきを、
ただただ恥ずかしく思っていた。
御息所の娘、新斎宮は、
伊勢出発の日取りが定まったことを、
無邪気に喜んでいらっしゃる。
世間の人々は、
母君が同行するのを、
前例のないことと非難もし、
またある人は同情したりして、
いろいろ噂していた。
身分高い人は、
何をしても人目について、
窮屈なものなのだった。
十六日、
桂川でお祓えをされる。
斎宮を伊勢まで送る役人、
その他の上達部なども、
身分高い世に重く思われている人々を、
朝廷では選ばれた。
桐壺院の思し召しによるものであった。
源氏は御所での、
斎宮の別れの儀式を見たかったが、
いま、
人々の前に出るのは外聞が悪い気がした。
源氏は源氏で、
御息所に捨てられた男、
という印象を世間に与えているのでは、
と気がひけるのだった。
二條院にひきこもって、
うつうつと物思いにふけっていた。
斎宮は、
その帝の御在位中は伊勢で、
神に仕えられるものだから、
時としては、永久のわかれ、
ということにはならぬとも限らぬ。
そう考えた源氏は思う。
(世の中のいうものは、
どう変わるかわからないのだかから、
また会えるときも来るだろう)
(次回へ)