父が亡くなってもうすぐ2年になる。
桜が満開の雲一つない青い青い空の日だった。
肺がんだったのに、その間に大腿骨を骨折して歩けなくなったり、
姉が介護疲労で入院してしまったり、
小康状態になったら病院側から「転院」をしきりといわれるようになり、
こんな状態の父を受け入れてくれる病院を探しまくったり、
いろんなことがあった。
転院先を探して大阪を中心に電話をかけまくった。
ソーシャルワーカーが一人しかいなくて任せておけないので、
私が1日に何件もの病院に電話をすると、
「地域連携室(ソーシャルワーカー)」を通してくださいと言われる。
その焦りや不安は計り知れなかった。
泉南や東大阪に可能性のある病院があると見に行ったり、
見に行った病院はこの世の終わりかと思うほどの不潔さで、
こんなところにまだ意識のはっきりしている父は転院しないだろうと、
絶望的な思いで、最後に少し良い返事をくれたのが、
玉造の「湯川胃腸病院」だった。
ここを家族見学に行こうと思った矢先、
入院していた病院から「もう最期までここで診ましょう」と言われ、
本当にどっと疲れが押し寄せて、隠れて一人で泣いた。
父の部屋に持っていった毛布の模様や、
病床洗礼に使っていただいた樹脂のコップの色まで、
今もはっきりと覚えている。
私たち姉妹は母が亡くなってからの父とは上手く意思疎通ができなかった。
私が根を上げると、姉に交代しそして姉も根を上げる。
どうしようもない性格の不一致はとうとう父が死ぬ直前まで解決できなかった。
その父が亡くなってもうすぐ2年。
私にはもう両親はいない。
そう考えると頼れる人がいないというのは寂しいものだ。
今はただ、主に頼って全てを委ね「ありのまま」を大事に、
あの日の桜散る青空を思い出そう。
くぅ