20年来の友達のてっちゃんが7月15日に亡くなりました。
このことについての途中経過は日記に書いていなかったので、
長くなりそう。
私の記録として、
てっちゃんのことを知っている人には最後の様子を伝えたくて、
知らない人には、てっちゃんのことを知ってもらう記録として、
長々と書きます。
2年前、癌であると打ち明けられました。
今は治る!がんばれ!とそのとき日記に書いたけど。
てっちゃんはバンド時代に知合った友人で、
お互いバンドに命をかけていた青春時代を共にすごしました。
お互いのバンド同士も仲良く交流していて、
私の通うスタジオでバイトしていたてっちゃんとは、
当時毎日のように一緒に遊んでいました。
その頃てっちゃんは、なんだか親戚とか兄弟のように思えて、
身内のように感じていました。
その昔、私が大失恋してそれはそれはヘコんでいたときに、
一緒にごはん食べたり、飲みにいったりしてくれて、
夜中にどうしてもしんどくなってSOSの電話をしたときは、
一山越えたところに住んでいた私の家に車でかけつけてくれて、
真夜中富士山までドライブにつれていってくれた。
バンド時代、いろんなピンチにそばにいてくれて、
今度もしてっちゃんにピンチがやってきたら、
真っ先に飛んで行こうと、心に誓ったものでした。
大人になって、スタジオや音楽とも離れて、
てっちゃんは家業である染色の勉強をし、
お父さんが続けてきた伝統的な染色の世界の跡継ぎとして職人となりました。
音楽から染色、、、、決心するのは大変だったと思います。
なかなかその気になってくれないと、
てっちゃんのお父さんから私に招集がかかり、
工房で「なんとか説得してくれ」と言われたこともありました。
私も高校時代は染色を学び、
現在もなんちゃって染色を続けてきています。
そんな関係もあり、結婚子育てに一段落して、
現在のhadaccaブランドで製作を始めてからは、
デザインフェスタにも遊びに来てくれて、
気に入って翌年から2度一緒に出展しました。
しょっちゅうてっちゃんの工房に遊びにいっては、
50万円にはなる帯に絵付けをする彼の横で、
ベラベラ愚痴ったりして付き合いは続いていました。
だいたいひと月に一度は工房に遊びにいく、、、、
が続いていましたが、
あるとき「遊びに行っていい?」というメールに、
2ヶ月近く返信がこなかったことがあって、
「なんで返信くれないんだよ~」とメールしたら
携帯に電話がかかってきました。
実は入院していたと。
驚く私に「ぶっちゃけ癌なんだよね~」と打ち明けられました。
血の気が引きました。
肺ガンで手術ができない箇所にあるということで、
それからは、抗がん剤治療を試みる。
毎日軽い運動しなくちゃいけないということで、
近くの小さな山に散歩に行っていたので、
私は月に2回くらいその散歩に付き合っていました。
煙草をやめてちょっとふっくらしたてっちゃんは、
私より元気に山を登り、病気なんて感じはなかったです。
山のてっぺんのベンチに座って、
昔話に花を咲かせ、ゲラゲラ笑いました。
冬は二人で鼻たらしながら話してました。
抗がん剤治療をうけたあとは数日ゲロゲロになるので、
そのタイミングをはずして会うようにしてましたが、
私が花粉症の時期は一緒にでかけられず、
その頃は山の桜が今これくらい~なんて、
しょっちゅう写メを送ってくれました。
こうなってみて、本当に桜が綺麗だなーと思う。なんて言いつつ。
1年くらいたって、そんな散歩にも体調が悪くて行けないという日が続くようになり、後半1年近くはメールだけになってしまっていました。
1ヶ月前くらいに「やあ、調子どう?」というようなメールを送ったら、
数日後に、もう抗がん剤の治療も効果がなくなって、
医者から緩和治療に切替えることをすすめられた、余命があまりない、
今までありがとう的な、お別れのメールが来ました。
まるでこのメールでさよならみたいな。
癌で余命がない、という彼の心中は、
どんなにがんばっても想像しきれない。
人に会うのもしんどいのか?
ひとり静かに過ごしたいのか?
頭がぐるぐるしましたが、
やっぱり、
「こりゃないぜ!会いに行かせてくれ!」
というメールをすると、
「痩せちゃってるけど、見ておいてほしい会いにきて」
という返信がありました。
彼としても、病床の自分を見せるか見せないか、
迷うところがあったのだと思います。
自宅療養しているてっちゃんのところに会いに行きました。
痩せてひどい姿と聞いていたので覚悟していったけど、
布団で半身起こして出迎えてくれた彼は
元々スレンダーだったので、そんなにひどい姿には見えませんでした。
バンド時代の笑っちゃう写真を持っていったので、
それを二人でみて、
これ誰だっけ~?うお!なつかし~w
この髪型笑う~!などと話して、
体がしんどくなってはいけないので30分くらいで帰ろうと思っていたけど、
じゃ、そろそろ、、、というと、
「まだ平気だよ」と、昔のバンドのDVDなんかを見せてくれました。
当時ビデオやカセットテープだったものを、
寝込む前にパソコンでCDやDVDにしたそうです。
手元に昔の写真のアルバムなんかもあり、
彼なりに身辺整理をしたのだなーと思いました。
これもらって欲しいと、
皮とシルバーのブレスレットをもらいました。
「形見」っていわれて、
「やーだー!もうっ!w
くれんの?ありがと~!」と受け取りました。
こうやってつけるの、と彼がつけてくれました。
深く考えないように、どこか頭の機能を停止させていました。
今まで通り、普通に過ごしたかった。
最初に癌だと打ち明けられたとき、
あまり人には言わないでほしい、と言われていたから、
ほんとに誰も知らないことだった。
ほんとに誰にも言わなくていいのか?
そこがとても気になった。
「誰か会いたい人はいないの?」と聞くと、
もう昔のバンドのメンバーともまったく付き合いがなくて、
連絡もとれないらしい。
「探しだして、俺死にそうだからって自分で言うのも変だろ~」
と、てっちゃん。
まあ、確かにそうだ。
「そんなの私が探すよ」と言うと、
「まあ、会える人には、何もしなくても会えるだろうから。」と。
しょうじき、探し出して会う、という気力も、もうなかったのだろうな。
なんだかんだで2時間くらいいて、
台所でお母さんと少し話をしてから、
「それじゃ、帰るね」と部屋に戻ると、
私がおみやげに持ってきたミニブロックでピアノを組み立て始めていた。
そろそろ子どもも帰る時間だったので、
バタバタと荷物を持ち、ふすまを閉めながら、
「また来るね!」と言ったとき、
それはそれは寂しそうな目をしていました。
「また来るから!」ともう一度言ってふすまを閉めました。
これが最後のお別れではない、泣きながらハグしたりすることはない。
そんな別れはできませんでした。
玄関でお母さんが、また来てやってね、気持ちが休まるみたいだからと言ってくれました。
帰りになんとかバンドのメンバーと連絡をとろうと考えをめぐらし、
メンバーのNくんの奥さんがパートしていた店に電話をしてみると、
まだ働いていたので、私の名刺を渡して、Nくんから連絡してくれと伝言しました。
夕方電話がかかってきて、いきさつを話ました。
そのNくんも誰とも連絡とってないらしく、
会いにいく?って聞いたら、
ちょっと戸惑っている様子でした。
そうです、急すぎるのです。
まったく知らなくて、いきなり死んでしまいそうな彼に会うというのは、
それは、躊躇することと思います。
思い出の中のてっちゃんだけにとどめるか、
今の姿を見るか。
プロを目指して、長い時間を共にに過ごしたバンドメンバーというのは、
いい思いも、悪い思いも、たっぷりあると思います。
最後どんな風にバンドが解散したのか、どんな気持ちだったのかは、
当人たちにしかわからない。
「他のメンバーと連絡とってみるよ」というNくんに、
どうするかはまかせるしかない。
バンドのメンバーに連絡してくれと頼まれたわけでもなく、
いざ知らせてみると、こんな感じで、
私も凹みました。
言わない方がよかったのかな。
本人も、昔のままの姿で記憶されていたかったかな。
などなど、、、、、
唯一私のバンドのベースだった楓にだけは、
これまでのいきさつをずっと話していたので、
へこんだ~とメールしてしまいました。
こんなことすべてが初めてなので、
いい歳こいたおばちゃんの私でも、正解がわからない。
会いたくないと言われたら、本人には黙っていようとか、
会いにいくのであれば、どうやって話そう。
怒るかもしれないなとか、
でも、バンドのメンバーとは絶対に会うべきだ!とか、
悶々と考えてました。
数日後、N くんから電話があり、
全員と連絡がとれ、みんな会いたいと。
てっちゃんの顔をみながら話したいとおもったけど、
はやいとこ予定をくみたかったので、
メールで、ぶっちゃけバンドのメンバーと連絡とってみたから、
メールアドレスをNくんに教えていい?と聞くと、
「最高の仲間だったのに、断る理由がないよ」と言う返信に、
心からホッとしました。
Nくんと連絡をとり、
25日にみんなでてっちゃんのところに会いにいくという約束になっていました。
私は最初に会いにいった1週間後にまた家をたずねました。
1週間でまた容態が変わっていて、
先週は酸素の缶をときどき吸っていた程度だったのが、
大きな酸素の機械が持ち込まれ、鼻にチューブで酸素を送っていました。
たくさん積んだ枕にもたれて、話すのもしんどそうでした。
それでも、Nくんや、その後ボーカルだったUくんからもメールが来て、
びっくりしたと喜んでいました。
先週は、栄養の点滴をうけに病院に行くと言っていたのが、
病院に行くのも難しくなったのか、
この日看護士さんが家に来て点滴する予定になっていました。
「じゃ、看護士さんが来たら帰るね」といって、
一緒にテレビを見てました。
この日は、大相撲の賭博の事件と、ヨンハさんの自殺のニュースばかり。
毎日ニュースばっかり見ているというてっちゃんに、
「ニュースばっかみてて、めっちゃ賢くなってんじゃないの?」と言うと、
フッと笑ってました。
私が話しても、返事をするのもしんどいようで、
だまーって二人でテレビを見てました。
「韓国の俳優って、自殺する人が多いよねー」と言うと、
てっちゃんが「自殺するくらいなら、俺にくれ。」と言いました。
「ほんとだよね
」と大きな声で答えました。
あとから考えると、涙が出そうなやりとりなんだけど、
このときは『普通のテンション』にシフトしていたから、
泣いたりせずに切り抜けられました。
難しいことのようだけど、なぜかすんなりそうできてよかった。
しばらくして、表に車がとまり、誰かがやってきた。
「点滴きたね。じゃ、がんばって!」と
てっちゃんの手をちょっとにぎって帰ろうとすると、
「どうせ、針をさすだけだから大丈夫だよ、いていいよ」というので、
「そう、じゃあまだいるよ」と言って、
またふたりでテレビを見てました。
看護士さんたちがやってきたようだったのに、
なかなか部屋に誰もやってこないので、
てっちゃんが「誰が来たのか様子見て来て」というので、
お茶のコップをもって台所へ偵察に、、、、、
居間に女性の看護士さんがふたり来ていて、
お父さんが書類にハンコを押したり手続きらしきことをしていました。
部屋に戻って「看護士さんがふたり来てるけど、なんか書類書いてた」というと、「もうやるならさっさとやってくれって言ってきて」と言われ、
それを伝えにいきました。
しばらくして「はじめましてー」と看護士さんが部屋にやってきて、
おとうさんとおかあさんもやってきた。
点滴さしたあとも、そばにいようと思ってたけど、
なんだか一気に部屋の人口密度がいっぱいになり、
居場所がなくなって、
「てっちゃん、じゃ、私帰るね!また来るから!じゃあね!」と、
看護士さんたちの隙間から顔を覗いて帰りました。
思えば、これが最後となってしまったわけですが。
次の木曜日にまた行くと、メールで約束してから、
すぐに合併症で入院したとメールが来ました。
「10日くらい入院するらしいけど、
25日(バンドのメンバーが来る日)に退院できてるかどうか」と
心配していました。
私は予定通り木曜日に病院の方へ行くことにしました。
その前の日に、
Uくんが見舞いに行って会うことができたと、Nくんから聞きました。
Nくんも、25日を待たずに土曜に行ってくると言っていました。
木曜日、面会時間の3時にあわせてバスに乗って病院に向かいました。
病室を覗くと、ベッドが綺麗にかたずけられていました。
「病室間違ったか?退院したのか?」と思い、
ナースステーションに尋ねると、みんな変な顔してる。
男の人が出て来て、関係を尋ねられ、
「友人です」と答えると、
「今朝容態が急変して、11時頃亡くなられました。」と言われました。
夏休みの間も、毎週会いにいけるように予定してました。
まだ何度も会いにいけると思ってたのに、早かった。
信じられない気持ちで病院を出て、
「間に合わなかった」とNくんと楓にメールしました。
ご家族に連絡することができずにいました。
夜Nくんから電話があって、
Nくんのところにてっちゃんのお兄さんから電話があったらしく、
通夜や告別式は、家族だけで密葬にすることや、
明日まではてっちゃんが家にいるので、
お別れに来ていいということを聞きました。
翌日ひとりでちゃりで行こうと思っていたら、
夜Nくんからいきさつを聞いた当時の友人Mさんから電話があり、
行きたいというので、一緒に行くことにしました。
他に二人来てMさんの車で4人で尋ねました。
顔にかけられた白い布を外すと、、、、
だいぶ前から治療で髪が抜けた~とは聞いていたけど、
常にニットキャップをかぶっていたので、実際に見たことはなかった。
その頭は、みじかーく坊主みたいになっていた。
Σ(・Д・*)
とっさに布を頭にかぶせておいた。
他の人には見せなかったぜ!
たぶん本人は、
死に装束になってもニットキャップをかぶっていたかっただろう。
キャップかぶって棺に入れてやってほしいくらいだ。
お母さんが色々話してくれて、4人でわーわー泣いて、
「絶対忘れないから」と言って帰りました。
喪服姿の4人で家を出て、
「ひとりでちゃりで来なくてよかった。。。
これで泣きながら汗だくでちゃり乗ってたら、ぜったい変な人だよね。」
とつぶやいた。
4人それぞれの生活に戻る。
切り替える。
「みんなこれから普通に仕事するんだよね。」とMさんがつぶやいた。
てっちゃんがいなくなった世界が、もう数日過ぎようとしている。
なんだか不思議だ。
まだ亡くなったって知らなかった、
病院行きのバスの中から見た空が、
ものすごく青い夏の空だった。
このとき見た空のことを、
あとでふと思い出したりするんだろうなーと思うような、
印象的な空だった。
お別れに行った日、
楓から「今日はなんか悲しいほどいい天気だったねえ。」
とメールが来た。
30°を越える夏日になった日。
ほんとに空が青くて、
夕方私も、
ふと見上げた雲がすごく光って綺麗で、2度見した。
これからずっと夏の青い空とともに、てっちゃんを思い出すことでしょう。
お別れのメールに「覚えていて欲しい」と書いていたてっちゃん。
人の記憶から消えることが、どれだけ恐ろしかったことか。
とりあえず、私が死ぬまでは、忘れたりしないから。