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吉井地区は江戸時代の宿場町として栄えましたが、明治の大火を契機に瓦葺塗り壁造りの商家が普及しました。
1.白壁通り
江戸時代に久留米有馬藩の城下町と日田天領を結ぶ豊後街道の宿場町としてにぎわいました。
江戸時代後期には精蝋、酒造、菜種の精油などの農産物加工品の製造や有力商人による金融活動により繁栄しました。
2.重要伝統的建造物群保存地区
明治2年の大火が契機となり、草ぶきの町家に代わって瓦葺塗屋づくりが普及し、商家や地主は競って火災に耐えられる建築を採用し、最盛期の大正時代には現在の街並みが出来上がりました。
現在でも豊後街道沿いなどに重厚な土蔵造りの商家跡がほぼ当時のままの姿で残されており、1996年に保存地区に指定されました。
3.5庄屋の命がけの灌漑用水「南新川」
江戸時代初期、吉井地区は周辺の川の水位より土地が高かったため、穀物の収穫量が少なく農民は常に餓えにさらされていました。
それを救うために地区の庄屋5人が10キロ離れた筑後川に堰を造り灌漑用水を引く工事を藩に嘆願しました。
水路筋の11村からは「洪水時には甚大な被害が発生する」と反対運動がありましたが、5庄屋は「万一損害があれば極刑に処されてもいとわない」と、村の入り口に自ら処刑台まで作りました。
それを見た地元住民たちは老若男女が結束し、1664年1月に藩営事業が始まり約2か月の短期間で人工の川を完成させました。
その後も拡張工事を行い藩の石高も上がり、吉井地区の農業や商業も大きく発展させました。
今でも30平方キロメートルに及ぶ水田地帯を潤しています。
4.素盞嗚(すさのお)神社
1763年の大火災の後、町中にあった御神体が集められ、町の鬼門に当たるこの地に町の守り神として神社が建立されました。
5.祇園さま
地元では「祇園さま」と呼ばれ明治時代に始まった大祭は、毎年7月に市内3カ所に高さ10メートルの山笠が建ち祇園ばやしに勇壮華麗に行われます。
撮影:CANON EOS M5
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