歴史文学さんぽ よんぽ

歴史文学 社会の動き 邪馬台国卑弥呼
文学作者 各種作家 戦国武将

芭蕉の人間的討究 斎藤清衛 著

2024年08月12日 09時42分55秒 | 俳諧史料

芭蕉の人間的討究 斎藤清衛 著

 

一部加筆 山梨県歴史文学館 山口素堂資料室

 

  一

 史上人物についての伝記的研究や、評説は、昨年あたりから特に著旧な戦後社会の新思潮であり、新傾向である。

評傅、従って一人物の研究ということが、人間社会の検討の出発であり、同時にその結論であることも争えない。しかし、古来文化の様式別からすると、人間像のありかたは必ずしも同歩し一致しては居ない。

例えば、道徳・宗教・政治などの文化には、人間個々の行為がしばしば密着しているに反し、藝能の諸文化ではそれが重視されていない。畢竟、道義文化と芸術文化との対比においても、前者では個人行為自体が主眼とされがちであるに較べ、芸術文化では作品そのものが重要となっている。すべて各文化の中核に関する狙いのずれに因縁するのである。

 もとより、文學の三要素として、作品以外に、作家と環境とを列挙する論もあるように、上代以降次々に作者の像は、磨き出され表面化の途を辿っている。かの王朝時代の物語草子には、なお作者の署名が欠けているものの多い点でもわかるよう、源氏物語の如き大作においてのみは筆者の桧討の綿密に行われてきたが、日記紀行類の伝本には、署名が落されたために、今日なお執筆者の不確実なものが多く遺されている。

 その他、詩歌類は散文とその内状を異にするが、さりとて、古代人の作として、作者不詳のものは必ずしも稀でない。記紀・萬葉集の中にも多いし、諸歌曲(神楽・催馬楽・風俗類)の詞章にもその実例が乏しくない。これは文語の中心が作品自らにあったことを立証しているので、詠吟者に対する聯想が時代と共に皮薄化したのである。

ギリシャの叙事詩「神曲」や、印度の[ヴェーダ]において、その詩人の氏名が失墜された所以も、社会的位置にあってはこれと類似のものが考えられる。即ち、「普遍と特殊」・[全と個]との問題を認めさせられるのであるが、およそ、綜合と分化との対立は辯証法的文化発達の形式として自然のものであろう。もっともこの前古の問題も、結局は山口諭助氏等の説の様に、

(一)、対立的個全観と、

(二)、一如的個全観の両側面におちつくことを考えられるけれど、同時に、また、対立を強く観取するAに対し、一如をはっきり観ずるBのあることを思いあわさざるを得ない。

 

 芭蕉の生年は、正保元年(寛永二十一年)であり、その意味では、江戸の初期ともいえる寛永年間に継続した時代である。

芭蕉の生年時に酉鶴や素堂は三歳、契沖は五歳であって、あまりその間に年齢の差はなかったが、(水戸)光圀・戸田茂睡はすでに十六歳、季吟・長流は廿一歳、雅章の知きは三十四歳、通村は五十七歳、更に貞室三十五歳、宗因は四十歳であった関係を考察すると、歌界の持つ、時代的雰囲気気なるものを無視することが出来ぬし、まして郷里伊賀上野の城代良精(蝉吟)とのつながりから季吟門に出入したとなれば京都伊賀をかけて回流する詩精紳が、芭蕉の少青年時代を色付けたであろうことの必然さを認証せざるを得ない。

 しかし、こゝで誰もが一画の疑惑にあてられる点は、芭蕉の生長の跡には、ほとんど天才らしさの無いということである。それは、かれの俳諧文學のみでなく、日記・紀行・書簡等の一般文筆物についても認められるところであるが、四十歳以前の遺品には、特に後年俳聖のものと推賞すべきものがほとんど無い。もとより芭蕉節の研究者は、その三十歳年代の作品として、天和時代の遺作、「武蔵曲」「虚栗」等の句を引抄してはいるが、貞享年代以後のものとはその傾向を別にしている。すくなくとも、談林調にはもとよりのこと、枯淡の側面を保持してきた貞門についても、合流しかねたもの、自然的のものを持っていたように察せられる。いかにも天和の四年間は、芭蕉の三十歳代と四十歳代との分水嶺をなして居り、江戸深川中心の漂泊時代とも評されるのであるが、芭蕉評伝家にはこの期間を俳聖の履歴として徒に無意義の期間のように解釈するむきもある。しかしこの際、芭蕉自らに、江戸に下向して、かく流浪する機会が与えられず、まして、深川の杉風の別宅に入ることなど無かったものと仮想したら、芭蕉は果して、後年の俳文學展開を実現しえたものか否か。これは熟慮に値する問題と思う。「綜合と個別」、「全と個」との課題は、すべての認識にわたって存しうるものであるが、その帰結は、その融和乃至一如の人間性にあるのであって、綜合、個別の論理自体に係るものではない。

 

 そこで芭蕉の個性を考えてみるに、それは時相に対するだけ独歩強靭のものであったようには思えない。かりに、蝉吟の逝去なく、芭蕉は季吟門の一員として、伊賀と京都とを往来した青年時代に何等の異変が無かったとしたならば、かれは遂に近畿の貞門俳人という姿相で、生涯を終ったかもしれぬ。すなはち、寛文十二年(二十九歳)頃とされている江戸下向は、芭蕉の一生において想像しがたいほどの画期的のものであったことが考えられるのである。

 思うに、生涯において幸と不幸との運は、きわめて週然事であることは、俗諺としてもいわれているとおりである。いかにも寛文年間の新貨幣政策について見ても、それが甲者において幸運となることが、乙者においては不幸の因であるという類の実例は極めて夥しい。幸不幸の観念は、つまり主観的のものを脱しきれないため、例えば、自我的の個が、全に吸収され無我的の状に陥るのを看ても、それを幸運とする人もあるが、逆にこれを生涯の危機、不運事として解釋する人もあるであろう。しかし總合的客観の立場につくと、黒字赤字の差別も明かに出され、新しく惑う要もないのであるが、抵抗の苦を善意に解することは色々の問題にあたってしかし簡易にはゆきかねる。こゝに関西生れで、上方育ちの芭蕉の宿命を思う時、まずその対立者として明暦・萬治・寛文年代の「東方性」ということが聯想される。それは、現代の日本社会というものにアメリカ的雰囲気、乃至ソヴエト的勢力が濃厚な雲霧となって漂っているその関係に似て、上方人に対し当時何かと江戸的勢力、関東的文化性が上空を掩っていたのである。

 

蕉風の特色について、芭蕉が支考に対し談笑の間に洩らしたという以下の一節はこれに関し、深長の意味を示唆する。

 

  我家の俳諧は、京の土地に合はず。そばきりの汁のあまきにも知るべし。

大根の辛みのすみやかなるに、山葵の辛みの謟ひたる匂さへ例の似て非ならん。

此後に丈夫の人ありて、心のねばりを洗ひ盡し、剛ならず柔ならず、

俳諧は今日の平話なること を知らば、はじめて落柿舎の講中となりて、

箸筥の名録に入るべし。

 

芭蕉がこうした自信自覚に到達するまでには、可なり激しい個全両面の内部的闘争の期間を経由したものと察せられる。因習的のもの、上方的のもの、伝統の中に自己を没却するだけのものなら、その悩みの度はなお少なくしてすんだけれど、その身、保守の濁流にひたり、その限界を超克するというに到っては容易のことではない。かつて、俳を学ぶ書について舎羅が尋ねたに対し、「一家を立てよ」と次の様にいった遺蹟が認められている。

 

 何にてもよろしがるべし。しかし我家の俳諧に求めえたる處は求むとも、

我等が跡を口真似せんとおもうべからず。

其故は古 の歌人の歌書を手本にして、歌よみたる人なし。

其時代々々の風を考へ、其風を我物にして歌はよみたると見えたり。

夫故に一家を立たり。

古人の跡をまねて歌よみたる人は、

いつまでも尻馬にて生涯我歌よみたる人なしと覚ゆ。

我家の俳諧を学ばんと思はゞ、仮にも狂すべからず。

初心より上達まで、歌書又は物語等いづれの書たりとも見わたして、

家の風をうしなはず。尤、句数をこのむべし。

 

要するに、芭蕉は時代風とか流行風とかいう空気に対し敏感であり、其角が

「およそ吟ある時は風あり、風は必ず變ず、是自然の事なり」

といったことなどにも共鳴を示した。

また、

「仮令、師の風なりとて、一風になづみて変化をしらざるは、却て師の心にたがへるなり」

とも書遺しているように、変動と推移を無視して正しい文学精神の展開はこれを詰めがたいとする思想を持っていた。

 こゝに到って、常然、芭蕉の持つ「全」の問題が拡大されてくるが、これはかれの不易流行理論と根本に共通している。全自体が、不変をのみを意味しないと同様に、去来は、師の不易句の意味をつぎの様に解脱している。

 

句は千歳不易の姿あり。一時流行の姿あり。此を雨端に教へ給へども、其本一なり。

一なるは、ともに風雅の誠をとればなり。

  不易の句を知ざれば本立ちがたく、流行の句を学びざれば風あらたならず。

よく不易を知る人は往くとしておしうつらずといふことなし。

たま/\一時の流行に秀でたるものは、只己が口実の時にあふのみにて、

他日流行の場に至りて、一歩もあゆむことあたはず(贈 其角先生書)

 

この中の「よく不易を知る人は往くとしておしうつらずといふことなし」……とは、畢竟、変化推移が、むしろ不易を根拠としているとの意である。流行とはいえ、所以ある変化を示すものであ

るとこれを見ることも許されよう。

 すべて古代人の簿記については、人物が名高ければ名高いほどその生年や履歴につき異説が多く出されている観がある。例えば芭蕉の江戸流浪の動機についても、おそらく十数種に近い各様の臆

説があるが、そのすべてが動機をなしたものとしても解される。もとより、相互の間には芭蕉に對し最後の決意を導く上に、理由として軽重の差別はあつたであろうが、亡命の主因を例えば異性問題にありとしている推論にしても、芭蕉自ら、その中の何が直接最大の原因であつたかを判定しにくい、そうした闘係にあつたものかとも考えられる。

 

 この際、伝紀者として、諒承しうる点は、教養的にも素質的にも、多分に上方的のものを蔵する芭蕉が、年齢三十歳時代の数年間を江戸下向の上で暮らし、特に天和の初め頃から深川の杉風別墅をその居に宛てて尻を据えていたという実証である。貞享元年(1684)、

 

  秋十とせ却て江戸をさす古郷

-

という吟を残したことにつき、そこにどの様な複雑な心理が潜在して居たであろうと、その十ヵ年は、芭蕉における上方的要素を回顧する上の絶好の時であり、従ってかれに東方的のものへの脱皮断行の機会を供することにもなったのである。それは、伝統的な個を清算することであると共に、新風の個をも獲得する方途であったので、個に対する全の意味はこうしか融通性の中に求められねばならぬ。個の域を、全の方向へ拡大することは、一応、個を抑えることにはなるが、同時に、新個に対しては、新しい息吹を與える結果にもなってくる。

 

二、次ぎに四十歳時代の芭蕉であるが、

 

その十ヵ年間は、俳聖芭蕉においてその活動の全面を代表するものとさえ考えられよう。

「野ざらし紀行」以下諸紀行が脱稿され、「冬の日」以下の蕉門俳諧七部集のすべてが、この間に編集されている。かくて内外かねて十年間を多忙の中に俯した俳聖は、わが五十歳の聲をきくと共に、人生に終止譜を打ったのであるが、俳人ならずとも、この俳聖の十ヵ年間の偉業には、眼を瞠(みは)らされるものがあるであろう。しかしこれは、もとより芭蕉一人の精進が齎(もたら)した結果のものではなく、貞享・元禄という前後の時代性が帯びていた思潮に因縁するところが多い。草子文学からは西鶴物、浄瑠璃からは近松物、萬葉集、古今集等の註解部門としては契仲や季吟の業績……等、丁度文星相互に暗示してその轡(くつわ)を並べて現われた書かのように見られる。いわゆる元禄時代文学の華やかさであって、こうした作者や作品を生み出した背後には、かならずや、読者社会の支持といふことを臆測することができる。芭蕉の側と社会の全との関係はそこでどうであったか。

 こゝに到って、再び、我家の俳諧は、京の土地に合わず

と云う前引の句を連想するのであるが、貞享元年の「野ざらし紀行」の旅、同四年の芳野紀行の旅、元禄二・三・四年に亘っての大津中心の逗留……の足跡をみる時は、事情における、あまりの矛盾と表裏とを思わされる。元禄四年十二月に江戸に帰り、その翌春改築された芭蕉庵に入ったことによって屯、粟津の無名庵などでその晩年を送るというほどの決意を懐いたものとは考えられないけれど、京阪を中心としての風土が、芭蕉にとって偉大な蠱惑(こくわく)であったことは否みがたい。四十代という初老の時代、しかも、「奥の細道」紀行の旅のような大旅行の体験が、芭蕉の中の「上方性」を鮮明にさせた以外に、自己回帰の絶好の機会を提することにもなった。その頃に書いた芭蕉筆書簡文の二三を試に抜いて見ると、

 

    一、 金澤の宮竹屋伊右衛門宛のもの

 

   何處、持參之芳翰落手、御無事之旨珍重ニ存候、

類火之難御のがれ候よし、是又御仕合雖申盡候、

残生いまだ漂泊やまず、湖水のほとりに夏をいとひ候、

猶どち風に身をまかすべき哉(か)と、秋立比(ころ)を待かけ候、

旦両句御珍重、中にもせりうりの十銭、小界かろき程、

我が世間に似たれば。感慨不少候、口質他に越候間、

いよ/\風情可被縣御心候、

    愚句

    京にても京なつかしやほとゝぎす

 景気に痛候而(て)及早筆候

 

二、京の野澤凡兆宛のもの

 

度々預貴候へ共、持病あまり気むづかしく不能御報候、

昨夜よりも出候、名月散々草臥、発句もしか/\゛、案じ不申候、

湖へもえ出不申候、木曾塚にてふせりながら人々に対面いたし候、

   各発句有之候

    月見する坐に美しき顔もなし

   なき同前の仕合ニて仮、當河原凉の句、其元にて出かゝり候を、

   終に物にならず、打捨候を叉駆出し仮、御覧可被成候、

    川風やうす柿羞たる夕すゞみ

 職人のでしこ感心仕候。落書もことの外御出かし被成候、

少し気むづかしく候故旱々申上候

 

三、膳所(ぜぜ)の茶屋昌房宛のもの

 

昨夜堅田より致帰帆候、愈御無訪ニ御連中相替事無御座候哉、

拙者散々風引候而蜑の苫屋に旅寝を佗て、風流さま/\゛の事共ニ御座候、

    病雁の夜寒に落て旅寝哉  

   と申候、京短尺屋へ御状被廼可被下候。明日上京致仮間拙者見合、

能候ハバもとめ候而人々わけ可申候、千那・尚白方ニも大分入り申候

 以上

 

奥の細道の大旅行が、肉体的の悩みや疲労を残し留めたことは明かである。

その後、前々年から不在になっている江戸関係の諸事件が気に掛らぬでもなかったが、これらの信書では、宛ら在郷者の心にも似たやすらぎの気のみが見られる。

去来、凡兆を初め京師附近に住む俳人で、上方的のものを生かしていった門人もその数は少なくはなかった。

 蕉風晩年の軽味、枯淡さも、自らこうしたルートにつながっている。東方的の荒潮だけでは、炭俵調の大成は到底期待しがたい。

四十八歳の年の晩秋に一度、江戸に帰っていった芭蕉が、翌々年の夏にその老躯を押してまた上方に旅立つ置土産のようにこの「炭俵」の編を残したのである。

それには、

「炭俵集を手本として芭蕉の風流を学ぶこそめでたかるべし。

炭俵の風流は翁の極意の所にて、すなほに愚かに安き所なり」(俳諧耳底記)

と野坡が攬明しているよう、生國出奔者が老後再び郷土に入った折の心理のよう、すべてに素直さ、軽淡味を基調としたものである。極意というその評語も、理由のないことではない。換言すれば、五

十歳を迎えようとする俳聖が、人間としての一完成を示すものである。

ゲーテが、一切萬有の底にタートを認め得たように、芭蕉は、客観的な観念論型を深く堀下げることとなった。今日の文化教育學説ならずとも、真に心の安らかさなければ一切は渾沌の境を超えることは出来まい。

 かくて芭蕉の人間としての検討、また分析も、行動とその背後をなす「時」との課題にくるまってゆく。人間芭蕉は[時]の中にその流れを依存せしめているのではなく、変動の中に立ちながら、自己を成育さしていったのである。

 およそ、芭蕉傳を繙くものは、師の芭蕉を中心として門下との間に和やかな気の流れている場面の多いことに気付くであろう。しかも、その十弟子を初め、現世の職域を異にしているだけでなく、性格的にも異なった人物が多い。こうした門人間の和合は、まったく師としての芭蕉の人格の反映するところとも云えよう。その全人的の思想が、よく異なったものを抱擁しつくしているのである。これは、古く歌界の派閥にも見られる、わが文人社会の傾向と伴っているものであるが、元禄時代の蕉風の遺した跡にはその特別のものがあるについても、人間として芭蕉のすがたを新に敬慕せしめるものが特に大きい。


・愛と創作主体 伊尹*「とよかげ」との間 やつし……法政大学教授……益田勝美著

2024年08月12日 01時00分34秒 | 文学さんぽ

・愛と創作主体 伊尹*「とよかげ」との間

 

やつし

 

十世紀の二つの家集、『海人手子良(あめのてこら)集』と『とよかげ』とは、貴人が、<下衆の集>をよそおってわが集を編んだ、という志向性を共有している。後撰から拾遺の間の和歌史のできごととして、

わたしには見過ごしにくいものがある。

 海人(あま)の磯良ならぬ手子良を自称したのは、桃園大納言師氏。大蔵の史生倉橋の豊蔭と名乗るは、一条摂政伊尹(これまさ)。九条敲師輔の弟と長子。叔姪の間柄になる。

春(十首)・夏(十首)・秋(九首)・冬(十首)、逢わぬ恋(十首)・逢ひての恋(九首)、

わかれ(七首)・無常(九首)・いのり(九首)、年・月・日など物の名を詠みこんだ五首と、

「春の花に鶯むつる」「夏ほたる汀に火をともす」など昇凧絵の歌らしい仕立ての六首。

九十四首の即興自撰の小歌集と見られるものを、師氏が海人の詠草と見たてた理由を、永らく測りかねていた。だが、内容的には海人とかかわることのないこの歌集が、師氏の宇治川のほとりの別荘滞在中に編まれたのではないか、と思い至るにおよんで、彼の風流のやつしのしくみがややわかってきたような気がする。

 師氏の別荘は、『蜻蛉日記』の作者の夫兼家の宇治の院と、河を隔てて相対するところにあり、日記上巻の終りに近いところに、師氏と道綱の母らとの宇治での交渉が物語られている。

安和二(九六九)年、道綱の母が、初瀬詣での帰途、思いがけなくそこまで出迎えにきてくれた兼家と対面する。そのころ、権大納言 師氏は氷魚(ひお)の網代漁にきていて、そのことを聞き伝え、兼家の宇治の院へ雉子と氷魚(ひお)を届けてくれた。兼家は伊尹の弟で、やはり師氏には甥にあたる。その年、中納言に進んでいた。日記中巻に、翌々天禄二年、ふたたび初瀬を志す道綱の母は、師氏の宇治の別荘に立ち寄った、とある。師氏がなくなって一周忌近いころだった。

 

   逢坂の泡沫(うたかた)は陸奥のさらに勿来(なこそ)をなづくるかもし

   君しいなばいな/\社(こそ)は信濃なる浅間が山と成や果なむ

 

 宇治の河漁師にみずからを擬して編んだ『海人手子良集』の歌は、懸詞のレトリックによりかかっての抒情のうたが多い。虚構仮託の題名をもちながら、集中の歌にはそれが影響するようすはない。作者の風流のやつしは、そのあたりで止まっている。

 

 以前から『大鏡』の記事で存在が知られていた伊尹の『とよかげ』は、近代になってようやく再発見されたが、それは、『一条摂政御生』のなかに包摂された形だった。後人が伊尹のうたを蒐め、『とよかけ』の後に加えている。三上琢弥・清水好子ら平安文学輪読会の人たちの手になる『一条摂政徴集注釈』(一九六七)の解題は、集全体の成立を正暦三(九九二)年を少し下るころ、集中の『とよかげ』の方を、天保元(九七〇)年ごろから伊尹のなくなる同三年まで、もし、それが伊尹の自撰でない場合、「九七〇年頃から九九〇年頃までの間」とする、用心深い見方だが、自撰を疑う必要はないように思う。

 

    おほくらのしさうくらはしのとよかげ、わかかりけるとき、

女のもとにいひやりけることどもをかきあつめたるなり。

    おほやけごとさわがしうて、をかしとおもひけることどもありけれど、

わすれなどしてのちにみれば、ことにもあらずありける。

    いひかはしけるほどの人は、とよかげにことならぬ女なりけれど、

としつきをへて、かへりごとをせざりければ、まけじとおもひていひける

   あはれともいふべき人はおもほえでみのいたづらになりぬべきかな

    女からうじてこたみぞ

たにごともおもひしらずはあるべきをまたはあはれとたれかいふべき

    はやうの人はかうやうにぞあるべき(ありける)。

いまやうのわかい人は、さしもあらで上ずめきてやみなんかし。

 

 『とよかげ』が『海人手子良集』とちがうのは、歌物語の手法を貫こうとしている点である。物語の叙述法は明らかに『伊勢物語』にならい、その情熱的な恋への没頭を襲おうとするところもそうである。だが、その伊勢的な傾斜が、ことさらに下衆の男女の.愛の物語としての虚構をとって保障されうるとする点において、かえって伊勢とちがう。伊尹自撰集『とよかげ』は、大蔵の史生倉橋豊蔭の歌物語としての風流のやつしをしているが、内容において自作歌集成をふみはずさず、想像の物語、想像のうたの贈答をまじえない。そのため、歌物語の伝承的要素を再生しえないで、私家集にとどまっている。やつしのいとなみを、うたとうたをめぐる物語の創造へはみ出させなかった。

 

ふたつのエロチシズム

 

伊尹は、奔騰する愛の思いに身をゆだねる主人公豊蔭を、「上ずめきて」やむ、上品ぶった中途半端な愛への献身にとどまる、集中の女たちに対置する。しかし、大蔵の史生の物語であるから、后がねの深窓の女性に求愛し、その愛をかちとりながらも、大きな力に仲をひき裂かれていく、『伊勢物語』の<冒し>、社会的制約との愛のたたかいがない。やつしの自己束縛である。

 冒頭の段で、以前からの間柄を復活しようとした豊蔭は、もろくも相手にうたで突きはなされている。「あはれともいふべき人はおもほえで」の歌いかけの秀逸さにもかかわらず、うたの功徳というべき、うたの力は相手を動かさない。恋の負け犬のかたちの物語の出発である。伊勢の初冠の段のうたを女へ贈りそめる、という歌による元服の上昇性がなく、不成就の求愛歌で出発するかたちは同じでも、内実がちがうのである。第二段では、

 

   みやづかへする人にやありけん、とよかげ、ものいはむとて、

しもにこよひはあれと、いひおきてくらすほどに、

あめいみじうふりければ、そのことしりたりける人の、

うへになめりと、いひければ、

とよかげをやみせぬなみだのあめにあまぐもののぼらばいとどわびしかるべし

   なさけなしとやおもひけん。

 

と豊蔭は、女のつらいしうちを甘受しなければならない。もろもろの制約とたたかい、愛する女性を情熟とうたの力とで屈服させ、現実に肉体の愛をひとつひとつ成就していく、歌物語伊勢のエロチシズム、疾風怒濤を衡いて猛進し、愛の抱擁に歓喜し、裂かれて号泣する強烈さが欠けている。この段の「みやづかへする

人」は、第三段では、結局、豊蔭の求愛に応じるのだが、それはこう語られる。

 

   おなじ女に、いかなるをりにかありけむ

   からごろもそでに人めはつつめどもこぼるるものはなみだなりけり

     女かへし

   つつむべきそでだにきみはありけるをわれはなみだにながれはてにき

    としをへて、上ずめきける人のかういへりけるに、

   いかばかりあはれとおもひけん。

   これこそ女はくちをしうも、らうたくもありけれ。

    をんなのおやききて、いとかしこういふとききて、

   とよかげ、まだしきさまのふみをかきてやる

   ひとしれぬみはいそげどもとしをへてなどこえがたきあふさかのせき

   これを、おやに、このことしれる人のみせければ、

   おもひなほりてかへりごとかかせけれ。

   はは、女にはらへをさへなむせさせける

    あづまぢにゆきかふ人にあらぬみのいつかはこえんあふさかのせき

   心やましなにとしもへたまへ、とかかす。女、かたはらいたかりけんかし。人のおやのあはれなることよ

 

 豊蔭は、ついに手にした、女の愛を受けいれてくれるという返歌を、無上にいとおしく思い、「これこそ女はくちをしうも、らうたくもありけれ」と感無量のことばを吐く。だが、ふたりが寝たこと、遂に逢ったふたりの愛のかたちについては語ろうとしない。

 伊尹は、自分の分身豊蔭の贈歌と女の返歌のからみあいのおもしろさ、そのあとの事件での自分たちの小狡猾の謳歌に心を奪われている。豊蔭のまだ逢わぬ恋をよそおっての求愛の歌に、娘が心をゆさぶられることを怖れて、親は恋の虫封じの祓いをうけさせ、思うままの拒絶の返歌を書かせる。

わたくしがあなたと逢う逢坂の関をこえる日なんてありますまい、何年でも坂の手まえの山科で滞留していなさったら、などと小気味よい書き方。

 ジョルジュ・バタイユは、肉体のエロチシズム・心のエロチシズム・神聖なエロチシズムと、エロチシズムの三形態を指摘している(『エロチシズム』室淳介訳)。もう遥かすぎる昔、「豊蔭の作者」(『日本文学史研究』二〇号、一九五三年五月)を書いた頃のわたしは、そういう三分類など思いおよばなかったが、<好邑者>と<いろごのみ>の区別に熱中していた。「肉体的交渉を持たない男女交際が『すき』であり」 (吉沢義則『源語釈泉』)というような、平安朝の<すき>の中世的把握に抵抗したがって、性愛ぬきの<すき>はないという一方で、<すきと><いろごのみ>の峻別をこわだかにしやべっていた。バタイユの肉体のエロチシズムにあたるものが<いろごのみ>で、うたによる風流を精力的に注入して、<いろごのみ>が<好色者>に昇華される。心のエロチシズムになりうる。そういう考え方に固執する傾向は、いまも変らない。

 わたしは、『伊勢物語』の文学的達成を<好色者>憧憬の結晶、心のエロチシズムの高い到達とし、歌物語の主人公としての昔男…平仲…豊蔭を、<好色者>の下降の系譜としてみてきた。

 『とよかげ』を歌物語の末裔としながら、歌の風流に重占をおき、<すき>のなかの<いろごのみ>の要素が稀薄化したものと慨嘆する点で、いまも同じような見方に低迷している。

 『とよかげ』に関して、わたしにそういう見方をさせるのは、『とよかげ』の豊蔭よりも、伊尹その人の<いろごのみ>の姿が印象深いせいもある。

 

仰云、世尊寺ハー条摂政家也九条殿。件ノ人、見目イミジク吉御坐シケリ。

細殿敗局ニ行シテ朝ボラケニ出給トテ、冠押入テ出給ケル、

実(まこと)ニ吉御坐シケリ。

随身切音(きりごえ)ニサキヲハセテ令帰結、メデタカリケリ。…… (『富家語』)

 

 語り手は、保元の乱後幽閉中の富家(ふけ)関白忠実。伊尹の弟、関白兼家の五代の孫。

この談話をのちの『続古事談』は弘徴殿の細殿の局として書きかえているが、宮廷のどこかの細殿の局の女房のもとへ忍び、あさぼらけ忍び出るとする原語の方が味わい深い。

「冠押入テ出結ケル」容姿にはエロチシズムが漂っている。その人がたちまちかたちを整え、随身にキリリとした声で先を追わせ、堂々と退出していく。その姿をかいまみて、くっきりと眼底に焼きつけていたのは、どこぞの女房か。宿直(とのい)に名をかる他の蕩児か。それにしても、それは北家の氏の長者たる人が語り伝えるような伝承になっていた.

 

  多武峯の入道高光少将は、

兄の一条の摂政の事にふれつつあやまり多くおはしけるを見給ひて、

「世にあるは恥がましき事にこそ」とて、是より心を発し給ひけるとなむ。(『発心集』第五)

 

 弟高光の出家を、『多武峯少将物語』は、前年父師輔が世を去り、かねての出家入道の素志をさえぎるものがなくなったためとし、『栄華物語』は、姉安子中宮の死に触発されてとする。後者は時間的錯誤をはらむ説である。「あやまり多くおはしける」の内容は遊蕩とばかりにしぼりにくいかもしれないが、それを含まないはずはあるまい。

 伝承の伊尹像は、 <いろごのみ>……肉体のエロチシズム本位で、伊尹の『とよかげ』に滑りこませたようなうたの風流をほとんど無視している。伊尹自身のやつしの自画像豊蔭は、うたの風流に偏りすぎた<好色者>になっていて、肉体のエロチシズムの稀薄化しすぎた心のエロチシズムということになろうか。歌物語の后がねさえ奪いとる上流貴族社会の主人公は去り、下衆の下級官僚の<すき>を空想する伊尹の企ては後継者がえられず、雨夜の品定めに啓発された若い一世の源氏の君が、宮廷や上層貴族社会に背を向け、中居の家に隠れた理想の女性たちに好奇の眼を向けるような物語作者の想像が、はぐくまれていく。

                 ……法政大学教授……益田勝美著


愛と創作主体 小町*「心の花」の発見   山口 博(やまぐち・ひろし)著

2024年08月11日 06時55分59秒 | 文学さんぽ

愛と創作主体 小町*「心の花」の発見

 

山口 博(やまぐち・ひろし)著

   一

 古今序以前の唯一の歌論書である『歌経表式』の歌論の方法は、和歌の本質論・様式論等である。嘉祥二年仁明天皇四十宝算賀の興福寺大法師の長歌についての『続日本後記』の編者の論評も、ほぼ同質である。それらに比して、古今序の著しい特色は、歌人の優劣を論じている事と、歌人相互の影響関係を跡づけようとする源流論のみられる事である。前者が六歌仙の論であり、後者は「小野小町之歌、古衣通姫之流也」「大友黒主歌、古猿丸大夫之次也」である。

 古今序以前にはみられないこの作品・歌人の優劣論、源放論を、古今撰者は何に学んだのか。想起されるのは、中国梁朝の鐘嶸の『詩品』である。鐘嶸は、魏文帝曹丕の「典論論文」以下晋の陸機の「文賦」を経て宋の顔延之の「論文」に至る先行の多くの文学評論が、文学の様式論・本質論のみを論じ、詩人の優劣を論じなかった事への批判として『詩品』を著した。そこにおいて鐘嶸のとった方法が、この優劣論と源流説である。

 『詩品』は既に万葉歌人の書架にあり、古今序もその影響下にある。六歌仙評がこの『詩品』のスタイルの模倣である事は確実である。

 『詩品』の序は、五言詩の創始を漢の李陵に求め、その後百年間、詩は衰え辞賦のみ隆盛し、詩人は李陵と班婕妤だけ、という。詩の百年間の衰退と傑出する閨秀詩人一人。古今序にいう平城朝より百年間の和歌の衰亡とその間の唯一の女流歌人小野小町、両序の発想の類似は偶然ではあるまい。

 その班姥奸班婕妤は、「楚臣去境。漢妾辞宮」(詩品序)、「羈臣寡婦之所歎」(欧陽修「梅聖兪詩集序」)などが一例であるように、楚臣屈原と並ぶ重要な詩人的位置が与えられている。班詩

は、欧陽修のいう寡婦之歎で、典型的な閔怨詩であった。

 このように古今序と海彼の文学を読み比べるなら、和歌退潮の百年間において艶然と開花した小町の歌が、班詩に比擬されている事は認められるのではないか。

 班婕妤が「怨歌」という閑怨詩の作者であり、閑怨詩のヒロインであったように、古今撰者にとって小町は閨怨詩的な歌の人であったのである。

 

    二

小町の歌の多くが、不毛の愛の嘆である事は指摘されている。

このモチーフが閨怨詩的であるだけではなく、その表現方法に閨怨詩の影響を受けている事を、私は既に拙著で述べた事がある。詳細はそれに譲るが、例えば、

   花の色は移りにけりないたづらに我身池に径るな、かめせしまに

が、落花を見て花顔の衰えを嘆く閔怨詩の典型的な手法、

   わびぬれば身を浮草の根を絶えて訪ふ水あらは往なむとぞ思ふ

が、男に頼っての生き方をせざるをえぬはかない女の象徴を、浮草にみる閨怨詩の伝統の上に作られているという事などである。身近な例を挙げるなら、次のような詩がある。

   玉顔盛有時。 秀包随年衰。(中略) 

浮萍無根本。 非水将何依。 (『玉台新詠』巻二・傳玄「明月篇一)

 「人の心」という表現にも中国持の影響があると思う。

   包みえで移ろふものは世中の人の心の花にぞありける

 『古今集』には「人の心」という語句は一三首ある。その意味では当時の類同的発想に依拠しているといえるのだが、『後撰集』には二二首(内「人心」四首)、『拾遺集』には一二首(「人心」一首)とみてくると、小町の「人の心」は古今で類同的であるだけではなく、三代集の中に全く埋没する。

 ところが『万葉集』には、平安朝的センスを早くも内蔵している大伴家持に一首、巻一一に一首あるだけである。万葉歌人にとって恋愛歌は、対象との合体を希求する声であり、欲望の実現を計る心の響きである。「吾が心」・「妹が心」という類の、個別的な対象を明確化した表現をとるのもその現れである。古今恋歌はそうではない。「世中の人の心」と、恋の心の状況を客観的に観察し普遍化、人生論にまで高めている。

 「人の心」という表現の万葉と古今以後の落差をこう考えるのであるが、万葉歌人のほとんど知らないこの表現も、中国六朝詩には既にみられるものであった。『玉台新詠』には「人心」として六例あるが、その一つ、

  街悲攬俤別心知。桃花季飽託風吹。本知人心不樹。何意人別似花離。 

(巻九・善子顕「春別」)

は、人心が桃花季飽の移り変り易きに等しき事を詠う。作者は、一度は「人心は樹に似ざる」と思っていたが、今は似ていると認識したという。似ていないが実は似ている、この発想が小町の歌では、「色みえで」という点では花と人心は似ていないが、移ろうという点では実は似ている、となる。

 人心は花に似たりとするこの蕭子顕の詩は、『芸文類聚』閔特

高に採録されている。菅原迫真が「落花」と題する詩で、

  花心不人心。一落応再尋。(『菅家文草』巻五)

とするのも、彼の主張する断章取義的方法による蕭子顕の詩の依拠であろう。「人心は花に似たり」のモチーフは平安人の心に確実に根付いているのである。小町の「人の心」もこの系譜の上にあると考えられるではないか。

 嵯峨・淳和州という漢風の時代を通る事により、和歌は著しく漢風に傾く。小町個人をとっても、文人である阿倍清行や文星康秀との交友があり、彼らは漢風の歌を作っている。小町の歌に閨怨詩的傾向があり、それを古今撰者が認めていた事は、当然ではないか。

 

   三

 このような閑怨詩的歌を作る小町は、どのような人であったのか。彼女の周囲の男はいずれも五位・六位程度であるから、小町も高い身分とは考えられず、後宮において職事官であれば古今作者名の表記にそれが表われるであろうに、それがなく、「小野」の姓を伴って表記されている事、などから、散事官の氏女説をかつて立てた。彼女が後宮の一員であれば必ずどのような身分かに想定せねばならず、これ以外の合理的公約数は考えられないからである。

 氏女と想定すると、小町には次のような条件を課さなければならない。端正な女で、三十歳以上四十歳以下、夫なき事とする大同元年の太政官符の規定である。この条件を小町及び彼女の歌に照射すると、彼女の美女伝説も老残説話も、歌が年寄りじみている事も、不毛の愛を託っている事も、従来小町及び小町の歌についていわれてきた事がそのまま説明できるのである。

 氏女説の難点は、氏女の実態が十分把握できない事である。資料から推測できる実態は拙著に譲るが、恋歌と関係をもつと思われる、夫なき事という条件だけは再説しておく。配偶者を持つと氏女は解任される、したがって公然の情交関係は避けたであろうが、秘やかな関係はあり得ただろうと考えるのが、当時の風俗からみて自然だろうと思う。人目を忍ばねばならない微妙な愛のあり方が、彼女の歌の枠取りになっていると考えるのである。

 男の愛の得がたき悲哀や焦燥、それは愛を失って悲嘆する閨怨の女の嘆とほとんど同質である。氏女であることの実体験が、ほぼストレートに閨怨詩的な歌という彼女の作品に繋がってくるのである。表現の単なる模倣ではなかったのである。

 

    四

 従来の小町論の多くは、古今の小町の歌を分析する事により小町の実像を求める方法をとる。結果として、表現と創作主体が直接結び付くのは当然の事である。歌から像にアプローチするのもかなり困難で、「やむごとなき人の忍び結ふに」 「四の皇子の失せ給へる」(小町集)の局辺を揺曳するぐらいである。遂に、歌以外の資料から小町像を求めた論もあるが、それらは、彼女の歌の著しい特性との回路をほとんど考慮しないで終る。

 私は、和歌から小町へという方法を避けたのであるが、それを取ったのが田中喜美春氏である。歌を分析し再構築した結果は、小町は小野貞樹を愛していたが、嘉祥二、三年(八四九~五〇)頃失恋し、康秀に言い寄られたが心痛いやされなかった、という事である。俗っぽくいうなら、思う人には思われず、思わぬ人に思われるという構図である。

 古今歌のみを対象とするなら、小町の局辺の男は貞樹・康秀・清行だけで役者は限定されているのであるから、結論は当然そうなる。私たちが知りたいのは、三人の男に囲まれた小町が何であったか、それが歌とどのような回路を持つかである。例えば後宮との関係についても、田中氏は更衣説から始めて氏女説まで否定する。資料なしとして投げだすのであるが、否定するからには仮説を提示するのが研究ではないか。田中説もまた、小町について何も語っていないのである。

 田中説の構図は成り立つであろうか。真樹との破局の嘉祥三年(八五〇)に三河様康秀を登場させる。任三何様の実例を求めると、外従五位下か正六位上である。康秀は元慶三年(八七九)に任縫殿助であるが、縫殿助も従五位下か正六位上が実例である。

三河様も縫殿前も、六位で任ぜられても叙爵への距離は近いのである。康秀は叙爵されていないから、田中説によると嘉祥三年から元慶三年まで、少く見積っても三〇年間六位にあった事になる。こんな事があり得るだろうか。諸国の様に任ぜられた者は、任官後一五年程の後には叙爵している。藤原元真の二五年後の叙爵が飛びぬけて長いのである。嘉祥三年三河掾であるなら、真観年中に叙爵しているはずである。康秀がいつ三河様であったかわからない。『古今集目録』が貞観年中にそれを置くのも、私が元慶初年に置くのも、以上のような事を考慮したからである。元慶初年三河掾から縫殿掾になり、叙爵を目前にして没したと考えられるであろう。

 元慶初年康秀と交友のあった小町が、その時若年であるなら、嘉祥三年ごろ真樹との恋は年齢的にあり得ない。嘉祥三年ごろ真樹と恋をする小町であるなら、元慶初年の康秀との話は、成り立たないか、成り立っても、真実の恋ではないだろう。田中説の構図は無理であろう。

 真樹こそ小町の愛人とする田中説は「題しらず」の六三五・八二二の小町の歌をも、それこそ何の確証もないのに、真樹との愛の枠中に収める。真樹との間を語るのは僅か一首で、それも詠歌事情を全く伝えていない。康秀よりも流行よりも、貞樹の影は茫昧としているのではないか。

 

   五

 私は歌を避けて小町を考え、その小町から歌を眺めてみた。氏女小町と閨怨詩的歌は実に対応し、彼女の実人生がそのまま作品に照射されている事を知った。

 ただ私が逡巡しているのは、彼女の歌のすべてがそうなのか、虚構の、想念の歌がないのか、という事である。愛の許されない氏女であれば、かえって愛欲に対しては鋭敏な異常な神経と豊かな空想力を持つようになり、それが古今の歌を生んだとも考えられるのである。「人の心の花」という透徹した観念などもそれであるかもしれない。

 しかし、それが想念の歌であっても、そのような想念の歌を作らせた情念が、氏女であることにより育まれたのであるなら、その意味で、彼女の体験と歌とは密接な回路で結ばれている事になるのである。

 

【注】 拙著『閑怨の詩人小野小町』 (昭和五四年・三省堂)を参照くだされば幸いである。

田中氏の論は「小町時雨」(『岐阜 大学国語国文学』一四号・昭和五五年二月)。

閨怨詩と小町の歌との影響関係を論じた論文に、後藤祥子氏「小野小町試論」

(『日本女子大学紀要』文学部二七号・昭和五三年)がある。                 

……富山大学教授……


枕草子と現代女性  『雞肋雑記』昭和63年8月10日  著者  柳町菊次郎氏

2024年08月10日 17時32分13秒 | 文学さんぽ

枕草子と現代女性

 『雞肋雑記』昭和63年8月10日

 著者  柳町菊次郎氏

 発行者 柳町勝也氏

 一部加筆 山口素堂資料室

 

三巻本枕草子第二十二段は次のような文章である。

 

生ひ先なくまめやかにえせざいはひなど見てゐたらむ人は、

いぶせくあなづらはしく思ひやられて、

なほされぬべからむ人のむすめなどは、

さしまじらはせ、

世のありさまも見せならはさまほしう。

内侍のすけなどにてしばしもあらせばやとこそおぼゆれ。

官仕する人をばあはあはしうわるきこといひ、

思ひたる男などこそいとにくけれ。

げに、そもまたさることぞかし。

かけまくもかしき御前をはじめ奉りて、

上達郎・殿上人・五位・四位はさらにもいはず。

見ぬ人はすくなくこそあらめ。

女房の従者ずさ、その里より来る者、

長女かさめ、御厠人みかわようどの従者、たびしかはらといふまで、

いつかはそれを恥ぢ隠れたりし。

殿ばらなどはいとさしもやあらざらむ。

それもある限りはしかさぞあらむ。

それもあるかぎりは、しかぞあらむ。

うへなどいひてかしづきすゑたらむに、

心にくからずおぼえむ。

ことわりなれどことわりなれど

また内裏の内侍のすけなどいひて、

をりをり内裏へまゐり、

祭の使など出でたるも面だたしからずやはある。

さてこもりゐぬるは、まいてめでたし。

受領ずりょうの五節出だすをりなど、いとひなび、

いひ知らぬことなど人に問ひ聞きなどはせしかし。

心にくきものなり。

 

これを口語訳すると次の如くになる。

従来の諸注の解とは、大いに異なるところがあるから注意せられたい。

将来性も乏しく、地味に、几々たる家庭生活に満足しているような女性は(私からみると)いかにも退屈で阿呆くさくてならないものだから、やっぱりチャンとした家の娘さんなんかは、宮柱で人中にも出させ、世間というものを見させもし慣れさせもしたし、(できることなら)典侍などになってほんの暫くでもいさせてやりたいものだと、こう思われることですよ。

宮仕えする女性を、ガサツで怪しからぬもののように言ったり、思いこんでいる男たちこそ、実に腹の立つことだ。全く私が憤慨するのもまた、当り前なんですよ。

(宮仕する女性なら)口にするのもおそれ多い御上を始めとさせていただいて、公卿、御上人、五位や四位の人はいうまでもなく、顔を合わさぬ人は、ほとんどないことでしょうよ。

(それどころか)女房の供人や女房の実家から来る使いの者、田舎から来ている下仕えの老女や掃除女などの供の者(もっと)人数に入らぬ下賤のものまで(宮仕する女性なら)いつ、そんなものたちと顔を合わせることを恥ずかしがって隠れたりなんかしたでしょうか。

(そりゃあ)殿方なんかは、ほんとに私たちほどにはね、御上とでも誰とでも顔を合わせるということもないでしょうよ。(でも)殿方だって、殿上勤めの間はその通り、私たちと同じことですわね。奥方などといって(お人形みたいに)床の間に飾っておいたような場合に(宮仕えの経験のある女性を)あまり奥ゆかしくは感じないかもしれない。

それももっともだけれど、一面では、内裏の典侍などというわけで時々宮中にお伺いしたり、八十島祭の使に立ったりするのも、(夫にとって)何で名誉でないことがあるものですか。そうした数々の経験を積んだうえで家庭に落ち着いているのは、格別結構なものだ。

 (夫たるのも)受領として五節の舞姫を出す時なんかに、すっかり田舎くさくて、わけのわからぬことを、他人に尋ねまわるような見っともない振舞は(奥方がすっかり宮中のことを公得ているお蔭で)しないことでしょうよ。(そういうのが本当の意味で)奥ゆかしいものです。

 

これ程明確に、女性就職の意義を規定した意見はめずらしい。あれほど宮仕えを不本意なものと考え、常に表面に出ることを避けていた紫式部でさえ、中宮彰子方の上藹女房が、まるでねんねのお嬢さんばかりで、人と応対することをしりごみし、碌な口上も言えず、公用で中宮に申し上げたいことがあって訪ねて来た公卿たちをも失望させて、「中宮方は沈滞し切っている」と世間で評判されるようになったことを残念がっているのである。(紫式部日記)

要するに清少納言の問題にした女性の宮仕えというものは、天皇に直接奉仕する内裏の女房のことであって、さらに拡大解釈しても、上皇や女院に仕える院の女房、中宮や親王、内親王に仕える宮の女房、摂関大臣家に仕える家の女房の範囲内であって、その当時といえども存在した、農山漁村、商工業者の社会に於ける女性労務者のような庶民の世界を含むものではない。

また官僚貴族の社会に於いても采女や雑仕のような下級女官ではなく、すくなくとも女蔵人以上の女房階級、貴族の子女の働き場所としての、高級女官の世界についてのことではあるが、今日の民主的社会に於て教育・職業の自由がすべての女性に認められている時代においては、すくなくとも四年制大学を卒業した女性は、平安朝に於ける貴族の子女と同等に考えてもよく、その職業意識を論じるのに、清少納言の女性宮仕え論を、ひき合いに出すことは、強ち不当ではないと思われる。

そういう点ていえば、いたずらに、無責任なカッコよさにあこがれる現代女性よりはもちろん、結婚前の自由満喫的腰掛主義の現代女性よりも、また、夫と死別後の生活力を身につけておきたいという社会保障型の女性よりも、一層、徹底した職業観を清少納言は把握していたようである。

 

すなわち、勤務する官庁のセクトの伜さいに縛られている男子の宮人よりも、宮廷に二十四時間の生活を持つ女房の方が、官僚社会のあらゆる階層のものと接触することによって、より幅広く、奥行きのある人間的成長をなしとげ得るものであって、男子の宮人も蔵人職として宮廷内に生活する時にのみ、女房と同等の経験を積み得るであろうと、その点に於ける女性上位の職業論を、堂々と展開しているのである。多くの男性が、自分の思うままの色に染め得る、無知初心の女性を妻として欲していることを、一応感覚的には認めながら、それでも内裏の典侍にまで昇進して、宮廷生活の裏表を知りつくした女性を妻とした場合の真の奥床しさというものを、男性に教えようとしているのである。

 大学を出て、一応就職することを当然のように観念づけられている現代女性といえども、その職業体験が、単なる婚前の自由享受や結婚費用の蓄積、夫に対する経済的発言権の確保死別もしくは離婚後の生活保障といった低次元のものではなく、真の人間的完成を目ざして豊富な経験を積むためのものであることを認識している人は少ないであろうし、まして、男性に対する女性の真の魅力が、いわれなき羞恥心や未経験の無知に根ざす生理学的なものでなく、男性との間に、相互信頼の関係を確立し得るような人間的魅力、即ち実力のある奥床しさにあるということを認識して、それを職業体験の最終目標として、しっかり把握しているのは、案外にすくないのではあるまいか。清少納言の職業観は、その点に於いて、今日の個人主義の時代に於いても、十分指導理念となし得るものであるといえよう。


八月十八日芭蕉 萩原井泉水 氏著 昭和七年刊 俳人読本 下巻 春秋社 版

2024年08月10日 10時53分32秒 | 俳諧 山口素堂 松尾芭蕉

八月十八日

萩原井泉水 氏著 昭和七年刊

俳人読本 下巻 春秋社 版

 

鹿島根本寺にて 芭 蕉

 

 月くまたくはれけるまゝに、夜舟さしくだして鹿島にいたる。晝より雨しきりにふりて、月見るべくもあらす。麓に根本寺のさきの和尚いまは世をのがれて、このところにおはしけるといふをきゝて、たづね入りてふしぬ。すこぶる人をして深省(しんせい)をはつせしむと吟じけむ。しばらく清浄の心をうるに似たり。あかつきの窓いさゝか晴れ間ありけるを和尚おこし驚し侍れば、人々おきいでぬ。月の光、雨の音、たゞあはれなるけしきのみむねにみちて、いふべきことのはもなし。はる/\〃(ばる)と月見にきたるかひなきこそ本意なわざなれ、かの何がしの女(むすめ)すら、ほとゝぎすのうたえよまでかへりわづらひしも、我がためにはよき荷擔(かたん)の人ならむかし。

 

おり/\にかはらぬ空の月かげも 

ちゞの眺めは雲のまに/\    和 尚

   月はやしこずゑはあめを持ながら   芭 蕉    

寺に寝てまこと顔なる月見哉     同

あめにねて竹起かへる月みかな    ソ ラ

つきさびし堂の軒端の雨雫      宗 波

 

神 前

   この松のみばへせし代や神の秋    桃 青

   ぬぐはゞや石のおましの苔の露    宗 波

   ひざからやかしこまり啼く鹿のこゑ  曽 良  (鹿島紀行)

 

 【註】石のおましは石の御座で、太古、鹿島の神の御座であつたといふ石がある。

 

越後にて  太 笻

 

油わく山はあれども雨の月

   あふ罪歟別る々科か荻をふく

   この簑のあるじもどり露寒き

   佐渡山の日和を見せる紫苑哉

   雨は風を打て秋へる山家哉      (寂砂子集)

 

身にしむ   芭 蕉

八月十九日

萩原井泉水 氏著 昭和七年刊

俳人読本 下巻 春秋社 版

 

千里に旅立てみち粮をつゝまず、三更月下無何に入りと云けむ、

むかしの人の杖にすがりて、貞享のきのえね秋八月、

江上の破屋を出るほど、風のこゑそゞろ塞げなり。 

   野ざらしをこゝろに風のしむみかな

   秋十とせ却て江戸をさす故郷

  聞こゆる日は終日雨降て、山はみな雲にかくれたり。

   霧しぐれふじをみぬ日ぞむもしろき

  何がしちりと云けるは、此たびみちのたすけとなりて、萬いたはり心を盡し侍る。

常に莫逆の交深く、我にまこと有哉、この人。

深川やはせをふじに預けゆく   ちり (野ざらし紀行)

 

秋ところどころ 桃隣

   三日月やはや乎に障る山の露

   稲妻や二兎山の根なし雲

   名月や曉近き霧の色

山畑に猪の子来たり今日の月

   名月や舟虫走る石の上

   きり/\″す鳴くや最上の下り舟

   栗稗は苅られて古きかゞし哉

 

【註】貞享きのえねの年は貞享元年、芭蕉四十一歳。彼が江戸に出たのは廿九歳の時で(その間

に一度帰省した亊があるらしいが)十余年ぶりでの故郷を指して旅立ったのであるが、十

年も住めば、江戸こそ却て故郷の感があるというである。

    ちりは千里、大和竹内の人、彼も故郷に帰る用があって、芭蕉と旅立つたのである。

    桃隣は天野藤太夫、伊賀上野の人、芭蕉の親戚である。

後、江戸に住み太白堂と称した。芭蕉の奥の細道の跡を尋ね歩き「陸奥千鳥」の著がある。

 

稲の香   青蘿

 

  天明らかなる年にあたるといへども、巳午五ツ六ツ未の春に至れる迄、

風雨のいくたびか人のこゝろを驚し、五穀も是が埓に実をむすぶ色うすく、

高きいやしきに及べるもいと譁(かまび)すしく、

すでに下れる世となりなんとせしに、久方の雨の恵み、夏夕立に秋草して、

殊に月見る夜ごろは田毎の三ふし草みのりて、いとめでたきけしきにめでて、

玄駒、洗洲あるは東田、淇笏、愚寒かいわたこゝろを船につみて、

あら井川のながれの上に今宵のかげを待ゐたり。

予も淡路の法師を携へて此船の客となりぬ。

   稲の香の満るを今宵月の雲      (青蘿発句句集)

 

八日二十日

良夜草庵の記 小西来山

 

  ことし此夏今宮といふ所に、提てものくべきほどの休み所をもとめてし。

よはき足には道のほど、すこし隔りたれど、心のむもむきにまかせ、むりく竹杖を嘶す。

こよひはさらにとて、ひとりふたりさそひつれて、まだ日高きよりうかれ行。

西は海近くして地よりも浪高く、その前は民屋所々にたちつづきたり。

入日をあらふ沖津しら波、とよみし名古の浦は今の木妻村とかや。

時と代とうつりかはるもあはれたりや。住宮浦の夕ばえ、中々えもいはれす。

漸として其所に膝行あがりつゝ蒲のむしろ、藺(りん)の枕、寐ながらの遠見、

東宮は雲をこすって山林、野村一目にたらず。つゐ手の届くく茶臼山、

一心寺の入相は常にもしたふものから、月待暮はひとしほ待久し。

安井の聖廟、木の間に森々として、茶臼山のかけ造りあけはなちて心よし。

新清次の欄干には乱舞糸竹の昔こそ聞えね。家々酔賞の最中ならんと詠やるもものめかし。

下寺町の藪疊もいっしかに白壁になりかはりて、門々高く続きて樓々崔々たり。

まして市中の繁榮、心ある人に見せばやな。それでも老は昔なつかし。

 

 【註】小西來山は大阪の人。芭蕉一派とは別の立場に在り、鬼實及び江戸の其角と共鳴すると

ころがあった。今宮に隠栖して、一個の女人形を溺愛していたという話は名高く

(「女人形記」……上巻一四一頁)。其今宮の庵の跡は今日も残つている。

享保元年十月三日歿、年六十三。[一心寺の入相は常にしたふものから……」

とあるその一心寺に「湛々翁墓」として葬られている。

名月や耳の山かせ日の曇  (俳諧いまみや草)

 

柴の戸 芭蕉

 

柴の庵ときけばいやしき名なれどもよにこのもしき物にぞ有ける。 

 

この哥は東山に住ける僧を尋ねて、西行のよませ給ふよし、山家集にのせられたり。

いかなる住居にやと、先その坊なつかしければ

柴の戸の月や其まゝあみだ坊

 

八月二十一日

 

富士川 芭蕉

 

富士川のほとりを行に、三つなる捨子の哀気に泣有。

この川の早瀬にかけて、うき世の波をしのぐにたへず、露計の命待つまと捨て置けむ、

小萩がもとの秋の風、こよひやちるらん、

あすやしほれんと、袂より喰物なげてとをるに

    猿を聞く人捨子に秋の風いかに

  いかにぞや、汝ちゝ悪まれたる歟、母にうとまれたるか、ちゝは汝を悪むにあらじ、

母は汝をうとむにあらじ、唯これ天にして汝が性のつたなきを哭け。

  (野ざらし紀行)

 

 

田 家 樗堂

 

    無造作たるものは田家

さむしろや飯喰ふ上の天の川

秋の風人ほど死ぬものはあらじ

     老後薬なしといへど、無何有の郷のあなたにはまたありとやらも聞ぬ。

秋風や鏡の翁我を見る

我庵の朝がほ今朝もまた白し

木枯や日の出見に行園城寺   (萍窓集)

 

鳩  洒堂

 

人に似て猿も手を組む秋の風

   鳩吹くや澁柿原の蕎麦畑

高土手に昌の鳴く日や雲ちぎれ     (続猿蓑)

   名月や誰れ吹起す森の鳩

   とうきびにかげろふ軒や玉まつり

   碪(きぬた)ひとりよき染物の匂ひかな (炭俵集)