芭蕉の人間的討究 斎藤清衛 著
一部加筆 山梨県歴史文学館 山口素堂資料室
一
史上人物についての伝記的研究や、評説は、昨年あたりから特に著旧な戦後社会の新思潮であり、新傾向である。
評傅、従って一人物の研究ということが、人間社会の検討の出発であり、同時にその結論であることも争えない。しかし、古来文化の様式別からすると、人間像のありかたは必ずしも同歩し一致しては居ない。
例えば、道徳・宗教・政治などの文化には、人間個々の行為がしばしば密着しているに反し、藝能の諸文化ではそれが重視されていない。畢竟、道義文化と芸術文化との対比においても、前者では個人行為自体が主眼とされがちであるに較べ、芸術文化では作品そのものが重要となっている。すべて各文化の中核に関する狙いのずれに因縁するのである。
もとより、文學の三要素として、作品以外に、作家と環境とを列挙する論もあるように、上代以降次々に作者の像は、磨き出され表面化の途を辿っている。かの王朝時代の物語草子には、なお作者の署名が欠けているものの多い点でもわかるよう、源氏物語の如き大作においてのみは筆者の桧討の綿密に行われてきたが、日記紀行類の伝本には、署名が落されたために、今日なお執筆者の不確実なものが多く遺されている。
その他、詩歌類は散文とその内状を異にするが、さりとて、古代人の作として、作者不詳のものは必ずしも稀でない。記紀・萬葉集の中にも多いし、諸歌曲(神楽・催馬楽・風俗類)の詞章にもその実例が乏しくない。これは文語の中心が作品自らにあったことを立証しているので、詠吟者に対する聯想が時代と共に皮薄化したのである。
ギリシャの叙事詩「神曲」や、印度の[ヴェーダ]において、その詩人の氏名が失墜された所以も、社会的位置にあってはこれと類似のものが考えられる。即ち、「普遍と特殊」・[全と個]との問題を認めさせられるのであるが、およそ、綜合と分化との対立は辯証法的文化発達の形式として自然のものであろう。もっともこの前古の問題も、結局は山口諭助氏等の説の様に、
(一)、対立的個全観と、
(二)、一如的個全観の両側面におちつくことを考えられるけれど、同時に、また、対立を強く観取するAに対し、一如をはっきり観ずるBのあることを思いあわさざるを得ない。
芭蕉の生年は、正保元年(寛永二十一年)であり、その意味では、江戸の初期ともいえる寛永年間に継続した時代である。
芭蕉の生年時に酉鶴や素堂は三歳、契沖は五歳であって、あまりその間に年齢の差はなかったが、(水戸)光圀・戸田茂睡はすでに十六歳、季吟・長流は廿一歳、雅章の知きは三十四歳、通村は五十七歳、更に貞室三十五歳、宗因は四十歳であった関係を考察すると、歌界の持つ、時代的雰囲気気なるものを無視することが出来ぬし、まして郷里伊賀上野の城代良精(蝉吟)とのつながりから季吟門に出入したとなれば京都伊賀をかけて回流する詩精紳が、芭蕉の少青年時代を色付けたであろうことの必然さを認証せざるを得ない。
しかし、こゝで誰もが一画の疑惑にあてられる点は、芭蕉の生長の跡には、ほとんど天才らしさの無いということである。それは、かれの俳諧文學のみでなく、日記・紀行・書簡等の一般文筆物についても認められるところであるが、四十歳以前の遺品には、特に後年俳聖のものと推賞すべきものがほとんど無い。もとより芭蕉節の研究者は、その三十歳年代の作品として、天和時代の遺作、「武蔵曲」「虚栗」等の句を引抄してはいるが、貞享年代以後のものとはその傾向を別にしている。すくなくとも、談林調にはもとよりのこと、枯淡の側面を保持してきた貞門についても、合流しかねたもの、自然的のものを持っていたように察せられる。いかにも天和の四年間は、芭蕉の三十歳代と四十歳代との分水嶺をなして居り、江戸深川中心の漂泊時代とも評されるのであるが、芭蕉評伝家にはこの期間を俳聖の履歴として徒に無意義の期間のように解釈するむきもある。しかしこの際、芭蕉自らに、江戸に下向して、かく流浪する機会が与えられず、まして、深川の杉風の別宅に入ることなど無かったものと仮想したら、芭蕉は果して、後年の俳文學展開を実現しえたものか否か。これは熟慮に値する問題と思う。「綜合と個別」、「全と個」との課題は、すべての認識にわたって存しうるものであるが、その帰結は、その融和乃至一如の人間性にあるのであって、綜合、個別の論理自体に係るものではない。
そこで芭蕉の個性を考えてみるに、それは時相に対するだけ独歩強靭のものであったようには思えない。かりに、蝉吟の逝去なく、芭蕉は季吟門の一員として、伊賀と京都とを往来した青年時代に何等の異変が無かったとしたならば、かれは遂に近畿の貞門俳人という姿相で、生涯を終ったかもしれぬ。すなはち、寛文十二年(二十九歳)頃とされている江戸下向は、芭蕉の一生において想像しがたいほどの画期的のものであったことが考えられるのである。
思うに、生涯において幸と不幸との運は、きわめて週然事であることは、俗諺としてもいわれているとおりである。いかにも寛文年間の新貨幣政策について見ても、それが甲者において幸運となることが、乙者においては不幸の因であるという類の実例は極めて夥しい。幸不幸の観念は、つまり主観的のものを脱しきれないため、例えば、自我的の個が、全に吸収され無我的の状に陥るのを看ても、それを幸運とする人もあるが、逆にこれを生涯の危機、不運事として解釋する人もあるであろう。しかし總合的客観の立場につくと、黒字赤字の差別も明かに出され、新しく惑う要もないのであるが、抵抗の苦を善意に解することは色々の問題にあたってしかし簡易にはゆきかねる。こゝに関西生れで、上方育ちの芭蕉の宿命を思う時、まずその対立者として明暦・萬治・寛文年代の「東方性」ということが聯想される。それは、現代の日本社会というものにアメリカ的雰囲気、乃至ソヴエト的勢力が濃厚な雲霧となって漂っているその関係に似て、上方人に対し当時何かと江戸的勢力、関東的文化性が上空を掩っていたのである。
蕉風の特色について、芭蕉が支考に対し談笑の間に洩らしたという以下の一節はこれに関し、深長の意味を示唆する。
我家の俳諧は、京の土地に合はず。そばきりの汁のあまきにも知るべし。
大根の辛みのすみやかなるに、山葵の辛みの謟ひたる匂さへ例の似て非ならん。
此後に丈夫の人ありて、心のねばりを洗ひ盡し、剛ならず柔ならず、
俳諧は今日の平話なること を知らば、はじめて落柿舎の講中となりて、
箸筥の名録に入るべし。
芭蕉がこうした自信自覚に到達するまでには、可なり激しい個全両面の内部的闘争の期間を経由したものと察せられる。因習的のもの、上方的のもの、伝統の中に自己を没却するだけのものなら、その悩みの度はなお少なくしてすんだけれど、その身、保守の濁流にひたり、その限界を超克するというに到っては容易のことではない。かつて、俳を学ぶ書について舎羅が尋ねたに対し、「一家を立てよ」と次の様にいった遺蹟が認められている。
何にてもよろしがるべし。しかし我家の俳諧に求めえたる處は求むとも、
我等が跡を口真似せんとおもうべからず。
其故は古 の歌人の歌書を手本にして、歌よみたる人なし。
其時代々々の風を考へ、其風を我物にして歌はよみたると見えたり。
夫故に一家を立たり。
古人の跡をまねて歌よみたる人は、
いつまでも尻馬にて生涯我歌よみたる人なしと覚ゆ。
我家の俳諧を学ばんと思はゞ、仮にも狂すべからず。
初心より上達まで、歌書又は物語等いづれの書たりとも見わたして、
家の風をうしなはず。尤、句数をこのむべし。
要するに、芭蕉は時代風とか流行風とかいう空気に対し敏感であり、其角が
「およそ吟ある時は風あり、風は必ず變ず、是自然の事なり」
といったことなどにも共鳴を示した。
また、
「仮令、師の風なりとて、一風になづみて変化をしらざるは、却て師の心にたがへるなり」
とも書遺しているように、変動と推移を無視して正しい文学精神の展開はこれを詰めがたいとする思想を持っていた。
こゝに到って、常然、芭蕉の持つ「全」の問題が拡大されてくるが、これはかれの不易流行理論と根本に共通している。全自体が、不変をのみを意味しないと同様に、去来は、師の不易句の意味をつぎの様に解脱している。
句は千歳不易の姿あり。一時流行の姿あり。此を雨端に教へ給へども、其本一なり。
一なるは、ともに風雅の誠をとればなり。
不易の句を知ざれば本立ちがたく、流行の句を学びざれば風あらたならず。
よく不易を知る人は往くとしておしうつらずといふことなし。
たま/\一時の流行に秀でたるものは、只己が口実の時にあふのみにて、
他日流行の場に至りて、一歩もあゆむことあたはず(贈 其角先生書)
この中の「よく不易を知る人は往くとしておしうつらずといふことなし」……とは、畢竟、変化推移が、むしろ不易を根拠としているとの意である。流行とはいえ、所以ある変化を示すものであ
るとこれを見ることも許されよう。
すべて古代人の簿記については、人物が名高ければ名高いほどその生年や履歴につき異説が多く出されている観がある。例えば芭蕉の江戸流浪の動機についても、おそらく十数種に近い各様の臆
説があるが、そのすべてが動機をなしたものとしても解される。もとより、相互の間には芭蕉に對し最後の決意を導く上に、理由として軽重の差別はあつたであろうが、亡命の主因を例えば異性問題にありとしている推論にしても、芭蕉自ら、その中の何が直接最大の原因であつたかを判定しにくい、そうした闘係にあつたものかとも考えられる。
この際、伝紀者として、諒承しうる点は、教養的にも素質的にも、多分に上方的のものを蔵する芭蕉が、年齢三十歳時代の数年間を江戸下向の上で暮らし、特に天和の初め頃から深川の杉風別墅をその居に宛てて尻を据えていたという実証である。貞享元年(1684)、
秋十とせ却て江戸をさす古郷
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という吟を残したことにつき、そこにどの様な複雑な心理が潜在して居たであろうと、その十ヵ年は、芭蕉における上方的要素を回顧する上の絶好の時であり、従ってかれに東方的のものへの脱皮断行の機会を供することにもなったのである。それは、伝統的な個を清算することであると共に、新風の個をも獲得する方途であったので、個に対する全の意味はこうしか融通性の中に求められねばならぬ。個の域を、全の方向へ拡大することは、一応、個を抑えることにはなるが、同時に、新個に対しては、新しい息吹を與える結果にもなってくる。
二、次ぎに四十歳時代の芭蕉であるが、
その十ヵ年間は、俳聖芭蕉においてその活動の全面を代表するものとさえ考えられよう。
「野ざらし紀行」以下諸紀行が脱稿され、「冬の日」以下の蕉門俳諧七部集のすべてが、この間に編集されている。かくて内外かねて十年間を多忙の中に俯した俳聖は、わが五十歳の聲をきくと共に、人生に終止譜を打ったのであるが、俳人ならずとも、この俳聖の十ヵ年間の偉業には、眼を瞠(みは)らされるものがあるであろう。しかしこれは、もとより芭蕉一人の精進が齎(もたら)した結果のものではなく、貞享・元禄という前後の時代性が帯びていた思潮に因縁するところが多い。草子文学からは西鶴物、浄瑠璃からは近松物、萬葉集、古今集等の註解部門としては契仲や季吟の業績……等、丁度文星相互に暗示してその轡(くつわ)を並べて現われた書かのように見られる。いわゆる元禄時代文学の華やかさであって、こうした作者や作品を生み出した背後には、かならずや、読者社会の支持といふことを臆測することができる。芭蕉の側と社会の全との関係はそこでどうであったか。
こゝに到って、再び、「我家の俳諧は、京の土地に合わず」
と云う前引の句を連想するのであるが、貞享元年の「野ざらし紀行」の旅、同四年の芳野紀行の旅、元禄二・三・四年に亘っての大津中心の逗留……の足跡をみる時は、事情における、あまりの矛盾と表裏とを思わされる。元禄四年十二月に江戸に帰り、その翌春改築された芭蕉庵に入ったことによって屯、粟津の無名庵などでその晩年を送るというほどの決意を懐いたものとは考えられないけれど、京阪を中心としての風土が、芭蕉にとって偉大な蠱惑(こくわく)であったことは否みがたい。四十代という初老の時代、しかも、「奥の細道」紀行の旅のような大旅行の体験が、芭蕉の中の「上方性」を鮮明にさせた以外に、自己回帰の絶好の機会を提することにもなった。その頃に書いた芭蕉筆書簡文の二三を試に抜いて見ると、
一、 金澤の宮竹屋伊右衛門宛のもの
何處、持參之芳翰落手、御無事之旨珍重ニ存候、
類火之難御のがれ候よし、是又御仕合雖申盡候、
残生いまだ漂泊やまず、湖水のほとりに夏をいとひ候、
猶どち風に身をまかすべき哉(か)と、秋立比(ころ)を待かけ候、
旦両句御珍重、中にもせりうりの十銭、小界かろき程、
我が世間に似たれば。感慨不少候、口質他に越候間、
いよ/\風情可被縣御心候、
愚句
京にても京なつかしやほとゝぎす
景気に痛候而(て)及早筆候
二、京の野澤凡兆宛のもの
度々預貴候へ共、持病あまり気むづかしく不能御報候、
昨夜よりも出候、名月散々草臥、発句もしか/\゛、案じ不申候、
湖へもえ出不申候、木曾塚にてふせりながら人々に対面いたし候、
各発句有之候
月見する坐に美しき顔もなし
なき同前の仕合ニて仮、當河原凉の句、其元にて出かゝり候を、
終に物にならず、打捨候を叉駆出し仮、御覧可被成候、
川風やうす柿羞たる夕すゞみ
職人のでしこ感心仕候。落書もことの外御出かし被成候、
少し気むづかしく候故旱々申上候
三、膳所(ぜぜ)の茶屋昌房宛のもの
昨夜堅田より致帰帆候、愈御無訪ニ御連中相替事無御座候哉、
拙者散々風引候而蜑の苫屋に旅寝を佗て、風流さま/\゛の事共ニ御座候、
病雁の夜寒に落て旅寝哉
と申候、京短尺屋へ御状被廼可被下候。明日上京致仮間拙者見合、
能候ハバもとめ候而人々わけ可申候、千那・尚白方ニも大分入り申候
以上
奥の細道の大旅行が、肉体的の悩みや疲労を残し留めたことは明かである。
その後、前々年から不在になっている江戸関係の諸事件が気に掛らぬでもなかったが、これらの信書では、宛ら在郷者の心にも似たやすらぎの気のみが見られる。
去来、凡兆を初め京師附近に住む俳人で、上方的のものを生かしていった門人もその数は少なくはなかった。
蕉風晩年の軽味、枯淡さも、自らこうしたルートにつながっている。東方的の荒潮だけでは、炭俵調の大成は到底期待しがたい。
四十八歳の年の晩秋に一度、江戸に帰っていった芭蕉が、翌々年の夏にその老躯を押してまた上方に旅立つ置土産のようにこの「炭俵」の編を残したのである。
それには、
「炭俵集を手本として芭蕉の風流を学ぶこそめでたかるべし。
炭俵の風流は翁の極意の所にて、すなほに愚かに安き所なり」(俳諧耳底記)
と野坡が攬明しているよう、生國出奔者が老後再び郷土に入った折の心理のよう、すべてに素直さ、軽淡味を基調としたものである。極意というその評語も、理由のないことではない。換言すれば、五
十歳を迎えようとする俳聖が、人間としての一完成を示すものである。
ゲーテが、一切萬有の底にタートを認め得たように、芭蕉は、客観的な観念論型を深く堀下げることとなった。今日の文化教育學説ならずとも、真に心の安らかさなければ一切は渾沌の境を超えることは出来まい。
かくて芭蕉の人間としての検討、また分析も、行動とその背後をなす「時」との課題にくるまってゆく。人間芭蕉は[時]の中にその流れを依存せしめているのではなく、変動の中に立ちながら、自己を成育さしていったのである。
およそ、芭蕉傳を繙くものは、師の芭蕉を中心として門下との間に和やかな気の流れている場面の多いことに気付くであろう。しかも、その十弟子を初め、現世の職域を異にしているだけでなく、性格的にも異なった人物が多い。こうした門人間の和合は、まったく師としての芭蕉の人格の反映するところとも云えよう。その全人的の思想が、よく異なったものを抱擁しつくしているのである。これは、古く歌界の派閥にも見られる、わが文人社会の傾向と伴っているものであるが、元禄時代の蕉風の遺した跡にはその特別のものがあるについても、人間として芭蕉のすがたを新に敬慕せしめるものが特に大きい。