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貞門時代の芭蕉の句はすぐれているのか 母利司朗 氏著 『国文学』解釈と教材の研究  第36巻13号 11月号 学燈社

2024年08月10日 06時53分35秒 | 文学さんぽ

貞門時代の芭蕉の句はすぐれているのか 母利司朗 氏著

『国文学』解釈と教材の研究 

第36巻13号 11月号 学燈社

 

今日芭蕉の句として伝わるもののうち、真偽の確認されたものは、およそ九百八十余句ほどである(『芭蕉講座』第二巻 昭和五十七年刊)。そのなかで、いわゆる貞門の時代につくられた句は、人によりその範囲をどこまでに置くかによるちがいはあるものの、せいぜい六十句にもみたない。

芭蕉が、まだ「桃青」でも「芭蕉」でもなく、「宗房」と名乗っていたころの句である。

これら数十句の出拠を厳密に考証し、貞門時代の作であることを確定したのは、穎原退蔵の「芭蕉俳句年代考」(『潮音』昭和三年、四年)にはじまり『新訂芭蕉俳句集』(昭和十五年刊 岩波文庫)、『芭蕉俳句新譜』(昭和二十二年まで諸誌に連載)におわる一連の業績であったが、以後、戦後に著された芭蕉発句の

注解は、同じ穎原の次の言葉を暗黙の了解としてひきつぐこととなった。

 貞門時代に於ける作家論の如きは、それゆえ極言すれば無意味と言っても宜い。当時の作品には時代としての特質は存しても、作家としての特色は見られないのである。強いて云えば、言葉の組方の巧緻と粗筆との差が諭されているくらいであろう。稀には言葉の技巧によれず、内容の滑稽を主とした作がないでもないが、それだけで特色をなしたというような作家は殆どない。要するに寛文初年頃における芭蕉発句の特色を概説するという如きは、最初から問題とならないのである。

   (「蕉風の展開」『芭蕉講座』発句篇・中 昭和十九年刊)

 しいて、それら注解書における芭蕉の貞門時代の句への評価のちがいを求めるならば、一方に、「見立て」の多用、本歌本説取りの多用などに、時代の新流行を懸命に造いかけようとする芭蕉の姿を、あたうかぎり客観的によみとろうとする(すくなくともこれらの句を切り捨ててしまわない、という意味では)好意的な俳諧史研究としての見方があったのにたいし、その裏返しとして、結局それ以上のものではないのだからはなから考察の対象外としてしまう、という、芭蕉句のいわゆる詩性を重視する見方があったにすぎない。それは、「俳諧少年」としての修行時代の作であるこれら数十句に、当時の貞門俳諧の枠をこえるような芭蕉の個性の発揮をみとめないという見方の、いわば二面性にほかならない。

 これにたいし、昭和五十年代のはじめに発表された、

(一)広田二郎氏「貞門風作品と古典-『古今集』詩学の把握を中心としてー」(『芭蕉-その詩における伝統と創造-』昭和五十二年刊)、

(二)山下一海氏「『統山井』の芭蕉…元禄文学への一つの出発-」(『日本文学』昭和五十二年九月号。後に同氏著昭和六十年刊『芭蕉の世界』に所収)は、従来の研究史における評価を大筋として認めたうえで、なお厳密に見れば、この「宗房」時代の何のなかにも、後の芭蕉の作風につながるなんらかの個性があらわれているはずである、という視点から、芭蕉の貞門時代の何によみとれる、詩人としての個性を論じられたものである。

(二)は、現存する芭蕉のもっとも古い句「春や来し年や行けん小晦日」などの解釈を中心に、芭蕉の『古今集』『源氏物語』にたいするかかわり、理解が貞一般を超えていることを論じている。

(二)は、一見たしかに言語遊戯の何としか読み取れない『続山井』の何にも、芭蕉の感情が、主観語や新鮮かつ素直な表現ではしなくもあらわれることがある、と論じたものである。その意味で、より直接には、この何の載っている『続山井』には、芭蕉の発句が二十八句、付句が三句入っているが、心境的な句は一句もない。ないのが当然で、後年のような心境的な、自己の内心のものを盛るような何は、当時の貞門俳諧の何風ではなく、また二十二、三歳の若い芭蕉のよくするところでもなかった。

  (鑑賞日本古典文学28『芭蕉』本文鑑賞 井本農一氏担当)

という見方に、もう一度検討をくわえ、芭蕉初期の何の再評価をこころみようとしたものであるといえよう。これらはともに、ややもすれば、言語遊戯を宗とした貞門時代の俳諧に個性など発揮されるはずがない、という先入観で評価されがちな「宗房」号句に、芭蕉の成長を考えるうえに資する、このような読み方もできるのではないかという可能性の問題を提起した論なのである。以後、それは、たとえば「寛文期の芭蕉発句は全体として当時の貞門俳諧の枠を出ないものであるが、言葉続きがなめらかで、句にリズムとスピード感の存すること、そこに芭蕉の才能の萌芽が見られることも事実である」(『芭蕉講座』第二巻 永野仁氏執筆)というような、折衷的な見方に取りこまれていくこととなる。

 

 あたえられた課題にかかわる研究史は、ざっと以上のようにまとめられよう。しかし、私には、はやく穎原によりまとめられた定説と、それを大枠では認めながらより芭蕉の個性をよみとる方向への修正を求める二論との間に、しっくりかみあっていないものを感じてならない。従来、課題そのものは、原則として、まず当時の俳諧のなかで芭蕉の句はどのようによむことができるかという検証ののち、これらの句が芭蕉後年の俳諧にどのようにつながっていくのかいかないのか、という問いを深めていく、という手続きで、解かれてきたように思われる。しかし厄介なことに、この過程には、すぐれて恣意的な、芭蕉への思い入れとでもいうべき感情の、往々にしてはいりこみやすいところが随所にあり、それが、貞門時代の俳諧のなかから芭蕉の句をただしく選別し、正確にその特徴を指摘することをしばしば妨げることにつながっていく危険性をはらんでいるのである。それは、論の性格上、とりわけ芭蕉の個性をひきだしたいとする後者の立場をとる論にあらわれやすい性向であろう。

 一口に貞門の俳諧と較べるといったところが、芭蕉は、この時代にわずか五十余句をのこしたにすぎない。貞門時代の俳諧の大勢は、発想としての見立てを根幹に、縁語や言いかけを主とした秀句仕立ての技法でもってつくられた、機知的な言語遊戯の俳諧であるが、その懐は、意外と広いものであったはずである。その懐は、以外と広いものであったはずで、連歌をたしなむ連中の、なかば連歌の尾ををひきずったような句は勿論、

    山の頭を照らす稲妻

かりまたやめっきをさしてわたるらん

          (寛永十四年熱田万句・甲 一一七)

という『守武千句』のパロディーに象徴される室町俳諧へのあこがれなど、いわば前代から当代の類似文芸にひろく影響され、あらゆる俳諧をそこにひっくるめて存在したのが、当時の俳諧であったはずである。任意に一つの撰集を通読しても、そこに様々な俳諧のバリエーションが容易にみとめられよう。

とすれば、よしんば五十余句のなかに「芭蕉の個性」というものを探し出したように思えたとしても、はたしてそれが、この幅広い、何万句とある貞門俳諧の範噴からはみだした「個性」であると確言するのは、至難の技であるとは言い難い。その峻別は、意外なほどの難行ではあるまいか。

 たとえば、『続山井』(潮音撰 寛文七年刊)ひとつだけ例にとり、そのことを説いてみよう。

 

    初瀬にて人々花見けるに

  うかれける人や初瀬の山桜  (続山井)

 

 諸注指摘するように、これは、

「うかりける人を初瀬の山颪よはげしかれとは祈らぬものを 源俊頼朝臣」

(千載集・恋二・七〇七、百人一首)のもじりである。わずかに、「うかりける」と一文字を変えただけで、「憂」から「浮」への意想外な句意の転換が図られた、まずまずの出来の句とよみとれる。前者の見方にたつ『鑑賞』(井本氏)は、この句の類型、等類を具体的には示さないまま、これに、「一応手のこんだ技巧を弄してはいるか、また、ただそれだけの句でもある……まだ若い芭蕉は貞門俳諧の潮流のままに流されていたのであって、この時代の芭蕉にとくに独創的なものを求めるのは無理である」という、評価をあたえた。一方、後者の見解を示された山下氏は、これが俊頼の歌のもじりであることをみとめつつ、「憂」から「浮」への意想外な句意の転換を、芭蕉の「大らかさ」と見て、「古歌のもじりにとどまらない素直な表出感を読みとることができる」として、芭蕉の個性にまで結びつけられた。しかし、この句が、実は、

 

 1 いかりける人ぞ初瀬の花の番  重賢 (埋草・大和順礼)

   いかりける人よ初瀬の花の番  高故 (時勢粧)

   しかりける人や初瀬の花の番  詩友 (蛙井集)

 2 うかれける人や初瀬の花見酒  重利 (伊勢正直集二

   うかしけり人を初瀬の花見酒  光次 (境海草・大和順礼)

   うかしけり人を初瀬の花見酒  三保 (後撰犬筑波)

 3 うたひける人や初瀬の花見酒  政尚 (続大和順礼)

 4 うたれける人や初瀬の花に幕  以仙 (大海集・松葉俳林)

   うたれける人や初瀬の花の滝  良弘 (続大和順礼)

 5 うらみける人や初瀬の花の風  良綱 (続大和順礼)

 6 ぬかりけるものや初瀬の遅桜  芳心 (埋草・大和順礼)

   ぬかりける人や初瀬の花の跡  信之 

                    (風俗草*詞林金玉集による)

 7 うつかりと人や初瀬の花ざかり 立静 

                    (時勢粧・都草・たはぶれ草)

   8 たかりける人は初瀬の花見哉  治元 (大和順礼)

   9 ひかりける火とは初瀬に飛ぶ蛍 宗賢 (大和順礼)

     ひかりける火とは初潮の蛍哉  知乙

                  (砂金袋後集*詞林金玉集による)

   10 鵜飼ける人や初潮の川遊び   正次 (大和順礼)

 

という、この同じ古歌をもじる貞門俳諧の類型のなかで、もっともありふれた2のパターンのなかにふくまれるものであることをみたとき、そのような芭蕉の個性と結びつけた見方がもはや成り立ちえないことはあきらかであろう。

 わずかに一例だけをとりあげたにすぎないが、同様のことは、ほかの「宗房」号句についてもあてはまるのではなかろうか。

 当時の芭蕉句(すなわち「宗房」号句)を、貞門俳諧一般となんら変わるところがないとみるのか、それとも、後年の芭蕉句に通じる個性をすでに内に含んでいたと積極的に評価するのか、そのいずれの見方をとるにしても、その唯一の判断材料である貞門俳諧のよみそのものが、従来、どう贔屓目にみても立ち遅れていたことは、誰の目にもあきらかであろう。定説化した穎原の見解に、三十年ぶりに修正を求めた後者の論は、たしかに魅力的ではある。しかし、そのような視点に納得を得るためには、結局、貞門俳諧の正確なよみそのものがなによりも問われているのではなかろうか。もちろん、前者の見方に立つ論にも、これとまったく同じ手続きが必要とされることは、いうまでもない。実情は、「芭蕉」以前のところでしばらく足踏

みしている、ということであろう。ともかくも、土俵の整備こそが急務なのである。

・……岐阜大学助教授・……


歴史の旅 伊達政宗 八丈島 仙台 静岡 古写真 亀井勝一郎

2024年08月09日 09時19分36秒 | 山梨県の紹介

歴史の旅 伊達政宗 八丈島 仙台 静岡 古写真 亀井勝一郎


山梨県 歴史文学館  山口素堂資料室 rank1

2024年08月09日 04時53分00秒 | 山梨県の紹介

山梨県 歴史文学館  山口素堂資料室 rank1


伊達政宗 キリシタン 支倉六右衛門常長 『続 歴史の旅』監修 亀井勝一郎

2024年08月09日 04時33分54秒 | 歴史さんぽ

伊達政宗 キリシタン 支倉六右衛門常長

『続 歴史の旅』監修 亀井勝一郎

 

一部加筆 山梨県歴史文学館 山口素堂資料室

 

 政宗がキリシタンにとり憑かれたのはこのときからである。ソテロを招いて家臣たちの帰依をはかることを告げたり、また、城門と大広間にキリシタン布教の自由を掲示したり、そのうえ、松島瑞巌寺の数多くの石像を破壊するという思いきったことさえしている。ある寺の仏像の破壊を命じたとき、これを承知しなかった住僧たちを殺すという暴挙までしてしるのである。

秀吉はキリシタンに対して厳禁の態度でのぞんだが、京染は通商の利益に着目して、この禁令をゆるめたのである。

 新救国であるオランダとの通商をひらいた翌年にあたる慶長十五年、京染はスペイン国王に対し、その領国であるノビスパン(メキシコ)と日本との通商を約束した。このときに、前ルソン(フイリピン)大守ロドリゴの代理として、幕府との交渉にあたったのがソテロであった。

 そのころ、政宗の愛していたある侍女が病にかかり、医者からも見放されるという重態にあった。そのときソアロのつれてきたブルギソョというイルマン(修道士)が見事この難病を治したのである。これを機会にソテロは政宗に近づいた。慶長十六年の五月に帰国した政宗のあとを追って、ソテロも仙台に向かったのである。これと前後して、スペイン使節ビスカイノが仙台にはいった。

 彼は、幕府の許可を得て日本の東海岸を測量することになっていたのである。政宗はビスカイノを仙台城に招き、スペイン国王と親交を結び通商の目的を持っていることを告げた。

 政宗がキリシタンにとり憑つかれたのはこの時からである。ソテツを招いて家臣たちの帰依をはかることを告げ、城門と大広間にソテロを招いてキリシタンの布教を自由に掲示し、その上松島瑞厳寺の数多くの石造を破壊するという思い切った行動を起こしている。ある寺の仏像の破壊命じた時、これを不承知の僧侶たちを殺害するという暴挙まで行った。

このとき政宗の命をうけて、寺に火を放ち僧侶を斬ったのが、支倉常長であった。ここで面白いことに、このようにしてまでキリシタンヘの傾倒ぶりをみせている政宗が自分自身は洗礼を受けていないのである。自分は、親類や友人との関係上できない、といっているのである。ここに、他のキリシタン大名とは異なる、ある片鱗がチラついている。

 仙台には小さな教会堂が二つ建てられたが、政宗はさらに壮大な会堂を建てて布教をすすめようとし、ソテロにその方法をたずねた。ソテロは、ローマ法王に指揮を仰ぐことをすすめた。そして、自身がその使になることを申し出たのであった。支倉常長らが付き添ったこの使節団は、浦賀沖の難破で挫折したが、慶長十八年幕府の許可がおりると、政宗はさらに新船を建造して使節派遣を決心したのである。

 かくして、横五間半、長さ十八間、帆柱十六間余と九間余、二本マストの黒船(洋船)ができあがった。ソテロの残した言葉を集めた『シマンカス文書館文書』によれば、五百トンをこえる大船であったという。

 正使は支倉常長と決まった。そしてソテロもこれに同行することになったのである。そのころ幕府のキリシタン弾圧がはじめられていたが、ソテロは改宗のとりなしで救われた。イエズス会派におくれて日本に入ったフラソシスコ派を奥羽地方に広め、そこに教区を設立して、その哨教におさまろうというのが、ソテロの望みであった。

支倉六右衛門常長は、常陸介常隆の次男伊藤壱岐守常久を祖としている。常久は伊達家の祖朝宗に属して常陸の中村に住んだが、その子久成とともに頼朝の奥州征伐に従軍し、その功によって信夫郡山口・伊達郡梁川・柴田郡の田五百余町が常久にあたえられ、伊達氏の命で支倉を名乗ったのであった。紀伊守時正は信夫郡山口に住み甥の与市を養子としたが、その後二子が生れたので、その禄を分けて六百石を実子の紀伊に、六百石を与市に与えたのである。この与市が後の六右衛門常長であった。大崎・葛西の戦いには、改宗の命を受けてたびたび使となっており、朝鮮征伐にも御手明衆の一人として功をあらわしている。慶長十八年には不惑を越えて四十三歳であった。

 慶長十八年(一六一三)九月十五日の夜、ローマ派遣使節団一行を乗せた黒船は牡鹿郡の月ノ浦を出帆した。常長らはメキシコ、スペインを経てローマにはいったが、そのまえに常長は、スペインのサン・フランシスコ分派の尼院で受洗し、ドソ・フイリッポ・フラ

ソシスコの洗礼名を授けられている。

 月ノ浦を出帆して二年、一行は晴れてローマ法王に謁見することになったのである。一六一五年十月二十九日、一行の華々しいローマ入府式が行なわれた。華麗な日本服にローマ風の帽子をいただいた常長は、ローマ市民の群列するなかを、軽騎兵、各国大使館員、各国貴族神士らに先行され、ソテロ、侍衛兵、馬丁を従え、楽隊の奏楽で市の門から市庁の広場に向かい、礼砲をもって迎えられた。

 十一月三日、法王に謁見して奥州王改宗の国書を呈した。内容は宣教師の派遣を乞い、通商に関してスペイン国王への斡旋を願うものであった。二十日には常長に対しローマ市公民権が贈られ、貴族に列し、随員七人にも公民に列することを許されたのである。

 しかし、この間日本の国情は急激な変化か見せていた。常長の出発三ヵ月後には、宣教師の追放とともに、日本人のキリシタン信仰を禁止する、全面的な禁圧令が出されていたのである。それと共に改宗の心境も変っていた。大阪落城の間際に、スペインの神父が脱走し、改宗の陣営にたどりついて救いを求めたが、政宗はこれを拒絶している。

 支倉常長が帰国したのは、元和六年(一六二〇)八月二十六日のことであった。出発以来、実に七ヵ年の月日か経過している。常長は帰国二年後の元和八年七月一日に病死し、長子常頼は弟がキリシタン宗徒であったために斬罪に処せられ、支倉家は断絶した。しかし寛文八年(一六六八)には、五十石をもって再興を許されている。

 常長と同行したソテロの運命も残酷なものであった。元和八年長崎で入牢させられ、大村に移された後、寛永元年七月(一六二四)火刑に処せられて、五十一歳の生涯を閉じている。

 伊達騒動で有名な政岡の墓というのがあるが、元来この人物の実在には不審が持たれている。仙台線榴が岡駅の西にあたる日蓮宗孝勝寺内にある『三沢氏子初之墓』というのがこれであった。付近は近代的な市街地とは変って埃っぽい士道が緑にかこまれた古びた家々のあいだを通っている。墓所の入口に氷水平やアイスクリームの旗をかかげた茶店があり、それに土産物の陳列所まであった。

そのうえ、広い墓所の門には厳重に閂(かんぬき)がかけられており、周囲に鉄条網がはりめぐらされている。これまで見たどの墓、伊達公の墓でさえも、このように派手(?)な構えではなかった。やはり『仙台萩』のしからしめるところであろうか。

 『伊達騒動』は、わずか二歳で父綱宗のあとをついだ亀千代(綱村の幼名)の妨きに起った。この生

母が三沢初子であった。亀千代には伊達兵部少他宗勝と田村右京亮宗良との二人の後見がついた。宗勝が家老原田甲斐宗輔と結んで悪政をひいたので、寛文十丁年(一六七一)涌谷の邑主伊達安芸宗重はその失政を幕府に訴えたのである。同年三月、ときの大老酒井雅楽頭の邸で安芸、甲斐、柴田外記、古内志摩らに対する尋問が行なわれると、甲斐の罪状が明らかになった。すると、とつぜん一室に休息中の安芸に原田甲斐が斬りつけ殺害したのである。甲斐もその場で討ちとられてしまったが、その後、宗勝は土佐に流され、宗良は閉門を仰せつけられて事件落着、伊達六十二万石は安泰となった。

 

 『伊達騒動実録』によると、政岡を架空の人物として「政岡のモデルらしき人物を強いてあげれば、鳥羽ではないか」と疑っている、鳥羽は、第一回の置毒事件で、嫌疑をうけて仙台に送られた女でありながら、厚遇されて天寿を全うしている人物で、史実もあきらかになっている。

 騒動のとき、伊達兵部宗勝を斬ろうとして捕えられた男に伊東七十郎重孝というのがいた。寛文八年四月二十八日米が袋の刑場で斬罪に処せられたが、片平丁の牢を出っ切りになるとき、揚り屋の床板をどうどうと踏みならした気力は、三十三日間断食した人とは思えなかったという。鹿子清水の坂から捕縄をとっていた獄卒を横倒しにひきずったまま刑場に向かい、どたん場に坐ってから首斬役の小人頭万右衛門に「人は首を刎ねられるとまえにのめるが、おれは仰向けになるだろう。さすれば兵部殿を三年のうちに亡きものとしてみせよう」といい、万右衛門が斬り損じると、「おちついて、よく斬れ」といい、果してうしろに倒れた。

 万右衛門はその翌日、小人頭をやめて仏門に入り、のち七十郎の供養にたてたのが、鹿子清水の河原にある縛り地蔵だと伝えられる。この地蔵は人間の苦しみなら何でも除いてやるといわれ、願かけに繩でしばるため、地蔵さんの顔も体も繩でぐるぐる巻きにされて、繩束が立っているように見える。毎年夏の縁目にだけ繩をほどくので、お顔は年一回この日だげにしか見られない。

 市の西北部、北山の立上にある青葉神社は伊達改宗を祀っており、秋祭の十月九日には旧藩士の子孫たちが集まって甲冑行列が行なわれる。改宗の廟所のあるのは、瑞温寺である。臨済宗のお寺で政宗山といわれ、向山径が峯にある。境内にある瑞鳳殿(政宗廟)、感仙殿(忠宗と綱宗の廟)は、日光につぐ壮麗な美観を誇っていたが、戦災で惜しくも焼失、いまはその焼跡に木碑が立っているの

である。

政宗が仙台に居城を定めたとき、その開府の守護神として遠刈田郡八幡村から仙台へ移しだのが大崎八幡神社であった。応神天皇、仲哀天皇、神功皇后などを祭神としており、松島の端厳寺とともに東北における桃山式建築の由緒を持つものである。市の西北伊勢堂下竜雲寺境内には寛改の三奇人の一人林子平の墓がある。仙台藩上林嘉膳の弟で、蒲生君平、高山彦九郎らとならび称された。深く海防のことを憂い、日本国内を視察し、長崎で海外事情を調べて『三国通覧』、『海国兵談』などを著わしたが、幕府の忌諱にふれ、寛政四年仙台に幽閉されて翌丑年五十六歳で獄中に歿した。

「親もなし妻なし子なし版木なし金もなければ死にたくもなし」

と詠じ、六無斉と号した。

 また、相撲で名高い谷風梶助も仙台の生れだ。寛政元年横綱になり、体重四十八貫、二千七百六十四回の相撲中、敗けたのはたった四回であったという。南鍛冶町東漸寺境内にその墓が残っている。

 『荒城の月』で有名な土井晩翠は仙台の人である。市内新寺小路の大林寺はその菩提寺で墓があり、寺の門前には、

「おほいなる真ひるの夢を見よかしと、生先(おいさき)長き子等に望まん」

の歌碑が立っている。それに青葉城址の仙台市を眺望する高みにも、詩碑があり、仙台名誉市民の晩翠の生前の詩業を偲んでいる。

仙台市の年中行事として有名なものに、毎年八月三日から催される『七夕祭』というのがある。何百年の伝統を持ち、飾りつけにも特徴があって、丈余の葉竹に短冊、吹流し、四ツ身の紙衣、巾着、屑龍、千羽鶴、七夕線香を基本とし、これに宝船、薬玉など思い思いに趣好をこらした紙細工を軒毎に立てるという豪華なもので、日本一と称している。

現在の七夕祭は、もちろん商店街の宣伝と観光用だが、いまよりもっと盛んであった昔の七夕祭は、そのかげに田ノ神信仰があったからではあるまいかといわれている。周期的に襲ってくる冷害による飢饉は、東奥にとっては宿命的なものであった。この凶災からのがれるために田ノ神に願い、祈りをかげるのである。藩政時代二百五十石取りの大番士だった浜田氏の『年中行事』七月の項には

 「六日 五色の色紙、短冊の詩歌を書て竹へ付、牽牛織女の星を祭る。

七日の朝なれ共旧例によって今夜より七日迄立置く也、」

とあるから、大身の門閥、大家、家柄の家臣以下平侍、紙侍、足軽、小人に至るまで侍町、足軽町のすべてをあげて軒並に七夕竹をたてていたことが想像される。

 

白石市はスキーで有名な蔵王の東能にあり、伊達家の忠臣片倉小十郎景綱居城の地であった。市役所の裏手にあたる丘陵の上に白石城址があり、いまは益岡公園となっている。

 市内の傑山寺は小十郎景鋼の開いた寺であり、その背後の山林の中腹には、代々の後室や娘の墓が立ちならんでいる。

 市の西方には小原、鎌先の両温泉があり、和紙や温麺が名産である。

 白石で面白いのは児捨川に架っている橋の欄干がこけしであることだ。市役所の観光課でも、こけし橋がずいぶん評判になって、方々の県市から写真を送れといってくるといっていた。そこから市街地の方へくる途中、白石川にかかる白石大橋北岸の小高い丘陵地には、世良修蔵の墓がある。

 慶応三年(一八六七)十月、大政奉還がなり、十五代将軍徳川慶喜は征夷大将軍を辞したが、仙台潘内の意見はまとまらず、上洛即行論と自重待機論にわかれた。

 そうしているところ慶応四年正月早々…鳥羽伏見の変…が起って討幕の勅令が下った。そして十五日には太政官から正式に仙台中将に討幕の脅か下り、つづいて会津討伐の命が下ったのである。

 三月二目、奥羽鎮撫使の一行、九条総督、沢副総督、醍醐参謀、大山、世良参謀以下薩長筑三藩の兵五百四十名が松島に上陸し、二十三日に入仙、養賢堂を宿舎とした。世良、大山らの下士出身の参謀の尊大な態度は、但木、坂などの重臣の憤激を買い、「竹に雀を袋にいれて後においらのものにする」と城下を放吟して歩く官軍は藩士たちを刺激したが、それでも藩は不承々々ながら準備をしなければならなかった。

 そして、閏(うるう)四月十一日には 白石で奥羽二十四藩の平和同 盟がなり、会津の降伏嘆願書、

 仙米両藩の意見書、二十四藩 連署の嘆願書を調印して平和 裡にことを解決しようと決意 し、その嘆願書を九条総督に提出した。がしかし、これを世良参謀が却下してしまったうえ、逆にもし会津に兵を進めなければ、仙台藩も会津に同盟しているものと認め、仙台を討伐するぞと威嚇する始末であった。これには伊達も上杉も憤激した。四月二十日未明、福島遊廓で泥酔していた世良修蔵は仙台藩士瀬ノ上主膳、姉歯武之進という慷慨の士のために捕えられ、会津藩土によって叩き斬られた。二十一日には仙台を盟主として奥羽越三十一藩の攻守同盟が結ばれたが、結局時の勢いには抗しがたく、九月十二日仙合藩の降伏が決定した。いま、世良修蔵の墓へ参ってみると、あまり訪う人もないのか、周囲はぼうぼうたる雑草の茂るにまかせ、石の囲いもあらかた崩れている。夕暮迫るなかに寂しげに立つ墓のところから、白石川の水沫がキラキラ光って見えた。


関東大震災記(山梨の記録一部掲載) 貴重な記録 村松昌氏著『伊那』1985,6月号(一部加筆)

2024年08月08日 19時53分06秒 | 歴史探訪

関東大震災記(山梨の記録一部掲載) 貴重な記録
村松昌氏著『伊那』1985,6月号(一部加筆)
 
私は偶然、大正十二年九月一日、現在の太田区大森で和洋紙販売を営んでいた今村勝氏の妻が姉で、女中さんに行く娘を連れて自宅を午前四時頃出発した。堀割坂で猛烈な其処へ朝夕立に出逢い閉口したが忽ち止み飯田駅午前六時頃発の一番列車に乗車した。
当時は急行も無く、各駅停車で辰野で乗り換え、座席も取れ、先ずは一安心した。早朝の起麻で疲れたのか、
「上京の上は半月位姉や木挽町の次兄宅を宿にして遊び廻わり先ず浅草六区の活動写真、寄席の落語、芝浦球場での秋期三田稲門戦見学等、それに彼の美味の天井を……」
とウツラウツラと呑気な事を考え乍ら居眠りしていた。
「長坂駅」
やがて中央線長坂駅に到着するや駅員や駅前商店の人々が血相を変えて飛び出している。ホームは崩壊し人々が右往左往しているので初めて大地震があったのだと大騒ぎとなった。時将に十一時五十八分であった。
「甲府駅・塩山駅」
其の後、汽車は徐行を続け甲府駅で暫らく停車し塩山駅迄進行したが、情報に依れば笹子トンネルが壊滅し、汽車乗客共に埋没し、これ以上、先方へは行けないとの事で止むを得ず下車、駅前通りの宿屋へ行ったが、泊まれるどころか宿屋の人々は駅前広場ヘテントを張り逃げ込んでいる有様。致仕方なく既に夕闇み迫ったので、夕食代わりに食パン、ローソク等を買い求め野宿を覚悟したが、駅の厚意で駐車中の空貨物に入り一夜をローソクの灯で明かした。時折、大小の余震が来襲し貨物がガタンガタンと揺れたり物凄い地鳴りや無気味な突風が吹き眠れる様なものではなかった。
遥か東方の空は真赤で東京は大火災、入京は不可能と覚悟した。翌九月二日、駅長の東海道儀は静岡迄僅かに信越線のみ川口駅迄行けるとの報告で直ちに反転した。
辰野駅で娘さんに-時帰宅せよと下車させ、八幡の満寿徳店へも事情を話して呉れと頼み、私は松本駅で途中下車し入京には食糧持参第一と駅弁拾個とパンを購入した。松本市内には腰の鈴を鳴らした号外売りが、東京は大火、殆ど全滅、死者多数、暴徒蜂起・戒厳令布告、となっていた。再び乗車したが、車中は出張等で、西に居たのが関乗大震災で実家の安否を案じ、急速帰京の人々で超満員、身動きも出来ず弁当を抱きかかえたまま立ちん坊で、九月三日未明、川口駅に下車した。
途中、高崎とか大宮とかの大駅には下り汽車に焼け出された着のみ着のままの市民が避難するのか、これ又超満員だ。停車し汽車の交換の一寸の時間に我々の汽車の客は一斉に窓際に身体を半分乗り出して下り汽車の客に大声で「日本橋」「浅草は」「品川は」と祈るような目差しで尋ねたが、「全滅だ」「火の海だ」との答えに偶然とした。又各駅ホームには既に朝鮮人狩の指令に依るのか在郷軍人及び自警団員が武器を片手に乗り込んで来た。 
顔型や日本語の発音の変な奴を車外に曳きずり出し、何処かへ連行するのを五、六ヶ所で見たが肌寒くなり無気味な情景であった。
 私は東京へは二、三回中央線で入京しているが信越線では初めてで不案内だ。まだ薄暗いので、とにかく乗客の行く方へついて行ったが、何時かバラバラになってしまった。荒川の鉄橋が破壊されているので渡舟で対岸の堤防上に出ると、突如「止まれ」と数人の銃着剣、あご紐姿の兵に尋問された。入京の目的を答えて許可を得たが、本当に胸がドキドキして戒鞍令とは怖いものだと知った。鉄路を頼りに日暮里鴬谷を通る。途中、要所には歩哨の監視人、被災者が絶えることもなく続くのに逢うのだった。一人の知人、友人も無く入京することに不安と心細さを感じ帰郷をと考えたことも再三あったが、遂に上野へ到着した。朝の八時頃だった。
既に一日正午頃から二日終日燃えたのだから、三日朝なら一応鎮火していると考えて上野広小路へ出たが、松坂屋百貨店周辺は猛烈な火烙に包まれ延焼中で人影なく放棄されたままであった。
私の行先幹線大道路は電線が焼け落ち蜘蛛の糸の様に垂れ下がり、電車、大八荷車が列をつくって残骸をさらしていた。
其の中を鼻口を手拭いで塞ぎ煙を除け乍ら踏み越え飛び越え右側を通ったり左側に変ったり大廻りして日本橋辺りに来た。異様な悪臭が鼻を突くので川を見ると逃げ遅れた焼死者で哀れ無残な姿には止め処なく涙が出た。道路の両側彼の柳の銀座通りも礫の河原同然、焼け瓦、焼けトタンの連続で、金庫が黒焦げで立っていたが佗しい物だった。次兄の住宅、京橋木挽町も築地も、焼け野原で無事に家族が逃げて呉れたことを念じつつ歩き続けた。この幹線道路は流石に人通りが多く板やボール紙に移転先は何処とか又は不明の家族名を書いたのを高く揚げ往来していたが不思議なことに巡査や軍人の姿がなく、全くの無警察状態で、彼の有名な天賞堂とか村松貴金属店の焼け跡には人相の悪い浮浪人が黒山の様になって何か掘ったり探していた。午後二時頃、夕立が来たが逃げ場所がないので焼けトタンを頭上に乗せ雨を除けつつ歩いた。通行人に大森はと尋ねたが、皆自分の事で頭が一杯で大津波にやられてあと形もないとか、朝鮮人に焼打されたとかの返事のみだ。私も次兄の家が焼失した事は判明しているので頼りは姉の家のみで、万一津波で流出したなら直ぐ又上野迄引返し帰郷せねばならないので、松本駅での弁当は無事だと判明する迄、一個も食べられないと覚悟した。品川辺り迄来た頃は家屋も流失せず店舗もあるし大森も大丈夫と聞き、安心したか元気が急に出だした。
 大井、大森の海岸通り、松並木や数多い砂風呂料亭前を過ぎた。停車場通りへ出た時、二、三人の学生か青年が頭に鉢巻、肩には白地布に九州男子と書いた簿を斜に「日本男子よ、奮起せよ、朝鮮人を直ちに抹殺せよ」と大声でアジ演説をやっており、手には日本刀の抜身を高くかざしている有様は勇ましい限りであった。
午後四時頃なので太陽は頭上に輝いて白刃はピカピカ光り、ふと時代劇の京洛の巻かと錯覚を起こす。殺気立った有様で暫くの間唖然とした。
 間もなく姉宅へ辿り着き家族の無事を喜び安心したが、屋根の瓦は大半落ち、二階の壁も散乱し大変なものだ。近所の家も大同小異の被害であった。先ず松本駅で購入した弁当を食べ様と開けた所、みな連日の猛暑で腐敗していて一個も食べずじまいになった。又座敷の中央に風呂敷包みが置いてあるので何だと聞いたら地震もまだ大きいのが来るし、川崎市の工事場に朝鮮人が三千人程居て、何時襲撃して来るかもわからない。又は放火されたらお前は一番に風呂敷包み六個の内持てるだけ持って逃げて呉れと言われた。そんな馬鹿なことと思ったが夜になって実感した。電気・ガスが駄目なのでローソクで居た。余震の強いのが来て真っ暗闇の表通りへ其の度に飛び出す。
 其の内に先ず警鐘が乱打され自警団の人々が彼方だ、此方だと駈け廻り、今、朝鮮人が路地へ逃げたとか、白衣の人間が井戸を覗いていたとかで、槍、銃を持ち、血相変えて探索する。気のせいか発砲の音がする。其れに拍車を掛ける様に横須賀の巡洋艦が二、三隻東京湾に錨を下して一〇時頃、大森の沖の方面から大森、大井、品川方面や房総方へ海岸沿いに探照燈をグルグル廻転さして警戒する。まるで戦争騒ぎで、信州の山の中から来た田舎者の私は見ること聞くこと驚くことばかり。今夜はゆっくり安眠出来ると敵ったが、臥床どころではなかった。悪夢の様な一夜を大森名物蚊に刺され乍ら、うつらうつらで夜が明け表通りの店先で焜炉と釜で米を焚いた。水は附近の井戸の尊い水だ。
 翌四日から店主今村氏に代わり私が自警団員となり竹槍を持ち、通行人を監視した。昼間は東京、横浜の間なので行方不明、焼死の安否、転居先探し等で炎天下往来は混雑を極めた。立ちん棒での疲れが出ると交替で机に腰掛けて配給の玄米を持参した一升瓶へ入れ棒でつついて白米を製造していたが流石に夜間になると人の往来は少なくなる。
 四日、五日、六日位、毎晩同じ様に警鐘の乱打怒声を張りあげ乍ら馳駆する自警団眉、軍艦の探照燈は蟻一匹も海岸を通さじと物凄く照す。又伝令で朝鮮人が愈々川崎を出て蒲田迄来襲したから必ず大森の女、子供は室内に居れ、其れに社会主義者が先頭になり彼等を煽動鼓舞しているとか、町中が懐恰たる気分になる。後日、判明した事だが流言飛語の恐ろしさ、又何と馬鹿馬鹿しい事が誠らしく人の口から耳へ伝わるのか。結局、私は一人の朝鮮人も社会主義者も見なかった。唯軍人や巡査も何処にいたのか全くの無警察で大衆が不安の余りデマを信頼したのだ。
 其の頃より上空を飛行機が頻繁に飛び交うだけで交通機関は杜絶していたが、ぼつぼつ情報が流れ、焼死者が本所区被服廠跡で何万人、吉原遊廓で娼婦が他の中で死に、浅草公園内にある名物十二階の東京一の高い建物が三分の一位になった等知った。又人相の悪い奴で四辺を見渡し乍ら惨死体や黒焦げ焼死者の写真を買わないかと市民の悲しみを金儲けの種に売り歩いている不届き者もいた。
 又大森海岸へ十日頃迄、早朝に朝鮮人の惨殺死体が十数人位裸体で両手を銅線で結ばれたまま首を斬られ、その首が付いたまま波打際にふわふわ浮かんで残暑で腐敗して悪臭を放ち正視に堪えぬ日々が続いた。
 九月八日に初めて長野県警察の提灯を持った巡査や八幡の実家の長兄が東京方の親戚の震災見舞に来たし、電燈、水道も復旧した。治安も完了したので自警団も解散となった。私は月末迄、姉宅で商売を手伝い、上京後の楽しき計画も震災で吹き飛んで空しく帰郷した。家に帰って親父に逃げて来る人ばかりなのに辰野駅を通り過ぎ信越線で入京するとは何事だと目玉の飛び出る程怒られた。無理のない事で村役場の調査では私はトンネル内で死んだと噂されていたとの事だった。又京橋木挽町は至る所の橋が焼け落ちてしかたなく次兄は築地から家族一同東京湾を舟で逃げ千葉に上陸し知人の家へ疎開した事が、五日、大森今村宅へ見舞に来て始めて判明し、兄弟三人無事で安堵した。
 想えば明治年代より繁栄を誇った東京も瞬時の大震災で壊滅的大打撃を蒙ったが名市長後藤新平に依り復興し世界有数の大都会になった。東京市民を鼓舞激励する為、演歌師が巷の一隅で唄った想い出の流行歌、復興節を私が帰宅後、八幡青年会々合で披露し人気を博した。