貞門時代の芭蕉の句はすぐれているのか 母利司朗 氏著
『国文学』解釈と教材の研究
第36巻13号 11月号 学燈社
今日芭蕉の句として伝わるもののうち、真偽の確認されたものは、およそ九百八十余句ほどである(『芭蕉講座』第二巻 昭和五十七年刊)。そのなかで、いわゆる貞門の時代につくられた句は、人によりその範囲をどこまでに置くかによるちがいはあるものの、せいぜい六十句にもみたない。
芭蕉が、まだ「桃青」でも「芭蕉」でもなく、「宗房」と名乗っていたころの句である。
これら数十句の出拠を厳密に考証し、貞門時代の作であることを確定したのは、穎原退蔵の「芭蕉俳句年代考」(『潮音』昭和三年、四年)にはじまり『新訂芭蕉俳句集』(昭和十五年刊 岩波文庫)、『芭蕉俳句新譜』(昭和二十二年まで諸誌に連載)におわる一連の業績であったが、以後、戦後に著された芭蕉発句の
注解は、同じ穎原の次の言葉を暗黙の了解としてひきつぐこととなった。
貞門時代に於ける作家論の如きは、それゆえ極言すれば無意味と言っても宜い。当時の作品には時代としての特質は存しても、作家としての特色は見られないのである。強いて云えば、言葉の組方の巧緻と粗筆との差が諭されているくらいであろう。稀には言葉の技巧によれず、内容の滑稽を主とした作がないでもないが、それだけで特色をなしたというような作家は殆どない。要するに寛文初年頃における芭蕉発句の特色を概説するという如きは、最初から問題とならないのである。
(「蕉風の展開」『芭蕉講座』発句篇・中 昭和十九年刊)
しいて、それら注解書における芭蕉の貞門時代の句への評価のちがいを求めるならば、一方に、「見立て」の多用、本歌本説取りの多用などに、時代の新流行を懸命に造いかけようとする芭蕉の姿を、あたうかぎり客観的によみとろうとする(すくなくともこれらの句を切り捨ててしまわない、という意味では)好意的な俳諧史研究としての見方があったのにたいし、その裏返しとして、結局それ以上のものではないのだからはなから考察の対象外としてしまう、という、芭蕉句のいわゆる詩性を重視する見方があったにすぎない。それは、「俳諧少年」としての修行時代の作であるこれら数十句に、当時の貞門俳諧の枠をこえるような芭蕉の個性の発揮をみとめないという見方の、いわば二面性にほかならない。
これにたいし、昭和五十年代のはじめに発表された、
(一)広田二郎氏「貞門風作品と古典-『古今集』詩学の把握を中心としてー」(『芭蕉-その詩における伝統と創造-』昭和五十二年刊)、
(二)山下一海氏「『統山井』の芭蕉…元禄文学への一つの出発-」(『日本文学』昭和五十二年九月号。後に同氏著昭和六十年刊『芭蕉の世界』に所収)は、従来の研究史における評価を大筋として認めたうえで、なお厳密に見れば、この「宗房」時代の何のなかにも、後の芭蕉の作風につながるなんらかの個性があらわれているはずである、という視点から、芭蕉の貞門時代の何によみとれる、詩人としての個性を論じられたものである。
(二)は、現存する芭蕉のもっとも古い句「春や来し年や行けん小晦日」などの解釈を中心に、芭蕉の『古今集』『源氏物語』にたいするかかわり、理解が貞一般を超えていることを論じている。
(二)は、一見たしかに言語遊戯の何としか読み取れない『続山井』の何にも、芭蕉の感情が、主観語や新鮮かつ素直な表現ではしなくもあらわれることがある、と論じたものである。その意味で、より直接には、この何の載っている『続山井』には、芭蕉の発句が二十八句、付句が三句入っているが、心境的な句は一句もない。ないのが当然で、後年のような心境的な、自己の内心のものを盛るような何は、当時の貞門俳諧の何風ではなく、また二十二、三歳の若い芭蕉のよくするところでもなかった。
(鑑賞日本古典文学28『芭蕉』本文鑑賞 井本農一氏担当)
という見方に、もう一度検討をくわえ、芭蕉初期の何の再評価をこころみようとしたものであるといえよう。これらはともに、ややもすれば、言語遊戯を宗とした貞門時代の俳諧に個性など発揮されるはずがない、という先入観で評価されがちな「宗房」号句に、芭蕉の成長を考えるうえに資する、このような読み方もできるのではないかという可能性の問題を提起した論なのである。以後、それは、たとえば「寛文期の芭蕉発句は全体として当時の貞門俳諧の枠を出ないものであるが、言葉続きがなめらかで、句にリズムとスピード感の存すること、そこに芭蕉の才能の萌芽が見られることも事実である」(『芭蕉講座』第二巻 永野仁氏執筆)というような、折衷的な見方に取りこまれていくこととなる。
あたえられた課題にかかわる研究史は、ざっと以上のようにまとめられよう。しかし、私には、はやく穎原によりまとめられた定説と、それを大枠では認めながらより芭蕉の個性をよみとる方向への修正を求める二論との間に、しっくりかみあっていないものを感じてならない。従来、課題そのものは、原則として、まず当時の俳諧のなかで芭蕉の句はどのようによむことができるかという検証ののち、これらの句が芭蕉後年の俳諧にどのようにつながっていくのかいかないのか、という問いを深めていく、という手続きで、解かれてきたように思われる。しかし厄介なことに、この過程には、すぐれて恣意的な、芭蕉への思い入れとでもいうべき感情の、往々にしてはいりこみやすいところが随所にあり、それが、貞門時代の俳諧のなかから芭蕉の句をただしく選別し、正確にその特徴を指摘することをしばしば妨げることにつながっていく危険性をはらんでいるのである。それは、論の性格上、とりわけ芭蕉の個性をひきだしたいとする後者の立場をとる論にあらわれやすい性向であろう。
一口に貞門の俳諧と較べるといったところが、芭蕉は、この時代にわずか五十余句をのこしたにすぎない。貞門時代の俳諧の大勢は、発想としての見立てを根幹に、縁語や言いかけを主とした秀句仕立ての技法でもってつくられた、機知的な言語遊戯の俳諧であるが、その懐は、意外と広いものであったはずである。その懐は、以外と広いものであったはずで、連歌をたしなむ連中の、なかば連歌の尾ををひきずったような句は勿論、
山の頭を照らす稲妻
かりまたやめっきをさしてわたるらん
(寛永十四年熱田万句・甲 一一七)
という『守武千句』のパロディーに象徴される室町俳諧へのあこがれなど、いわば前代から当代の類似文芸にひろく影響され、あらゆる俳諧をそこにひっくるめて存在したのが、当時の俳諧であったはずである。任意に一つの撰集を通読しても、そこに様々な俳諧のバリエーションが容易にみとめられよう。
とすれば、よしんば五十余句のなかに「芭蕉の個性」というものを探し出したように思えたとしても、はたしてそれが、この幅広い、何万句とある貞門俳諧の範噴からはみだした「個性」であると確言するのは、至難の技であるとは言い難い。その峻別は、意外なほどの難行ではあるまいか。
たとえば、『続山井』(潮音撰 寛文七年刊)ひとつだけ例にとり、そのことを説いてみよう。
初瀬にて人々花見けるに
うかれける人や初瀬の山桜 (続山井)
諸注指摘するように、これは、
「うかりける人を初瀬の山颪よはげしかれとは祈らぬものを 源俊頼朝臣」
(千載集・恋二・七〇七、百人一首)のもじりである。わずかに、「うかりける」と一文字を変えただけで、「憂」から「浮」への意想外な句意の転換が図られた、まずまずの出来の句とよみとれる。前者の見方にたつ『鑑賞』(井本氏)は、この句の類型、等類を具体的には示さないまま、これに、「一応手のこんだ技巧を弄してはいるか、また、ただそれだけの句でもある……まだ若い芭蕉は貞門俳諧の潮流のままに流されていたのであって、この時代の芭蕉にとくに独創的なものを求めるのは無理である」という、評価をあたえた。一方、後者の見解を示された山下氏は、これが俊頼の歌のもじりであることをみとめつつ、「憂」から「浮」への意想外な句意の転換を、芭蕉の「大らかさ」と見て、「古歌のもじりにとどまらない素直な表出感を読みとることができる」として、芭蕉の個性にまで結びつけられた。しかし、この句が、実は、
1 いかりける人ぞ初瀬の花の番 重賢 (埋草・大和順礼)
いかりける人よ初瀬の花の番 高故 (時勢粧)
しかりける人や初瀬の花の番 詩友 (蛙井集)
2 うかれける人や初瀬の花見酒 重利 (伊勢正直集二
うかしけり人を初瀬の花見酒 光次 (境海草・大和順礼)
うかしけり人を初瀬の花見酒 三保 (後撰犬筑波)
3 うたひける人や初瀬の花見酒 政尚 (続大和順礼)
4 うたれける人や初瀬の花に幕 以仙 (大海集・松葉俳林)
うたれける人や初瀬の花の滝 良弘 (続大和順礼)
5 うらみける人や初瀬の花の風 良綱 (続大和順礼)
6 ぬかりけるものや初瀬の遅桜 芳心 (埋草・大和順礼)
ぬかりける人や初瀬の花の跡 信之
(風俗草*詞林金玉集による)
7 うつかりと人や初瀬の花ざかり 立静
(時勢粧・都草・たはぶれ草)
8 たかりける人は初瀬の花見哉 治元 (大和順礼)
9 ひかりける火とは初瀬に飛ぶ蛍 宗賢 (大和順礼)
ひかりける火とは初潮の蛍哉 知乙
(砂金袋後集*詞林金玉集による)
10 鵜飼ける人や初潮の川遊び 正次 (大和順礼)
という、この同じ古歌をもじる貞門俳諧の類型のなかで、もっともありふれた2のパターンのなかにふくまれるものであることをみたとき、そのような芭蕉の個性と結びつけた見方がもはや成り立ちえないことはあきらかであろう。
わずかに一例だけをとりあげたにすぎないが、同様のことは、ほかの「宗房」号句についてもあてはまるのではなかろうか。
当時の芭蕉句(すなわち「宗房」号句)を、貞門俳諧一般となんら変わるところがないとみるのか、それとも、後年の芭蕉句に通じる個性をすでに内に含んでいたと積極的に評価するのか、そのいずれの見方をとるにしても、その唯一の判断材料である貞門俳諧のよみそのものが、従来、どう贔屓目にみても立ち遅れていたことは、誰の目にもあきらかであろう。定説化した穎原の見解に、三十年ぶりに修正を求めた後者の論は、たしかに魅力的ではある。しかし、そのような視点に納得を得るためには、結局、貞門俳諧の正確なよみそのものがなによりも問われているのではなかろうか。もちろん、前者の見方に立つ論にも、これとまったく同じ手続きが必要とされることは、いうまでもない。実情は、「芭蕉」以前のところでしばらく足踏
みしている、ということであろう。ともかくも、土俵の整備こそが急務なのである。
・……岐阜大学助教授・……